
| 閼伽出甕 論考集「阿弖流為と田村麻呂について」(4) |
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[但し書き]
#6394/6394 日本史ボード ★タイトル (FHJ55492) 98/11/14 7:19 (100) エミシ】阿弖流為と田村麻呂について〔4〕 アコ(100) ★内容 つづきです。 前回(#6389)紹介した史料の中で田村麻呂と並び称せられている「藤原利仁(ふ じわら・としひと)」ですが、この人物に関する研究は、あまり行なわれていな いようです。 しかし、『義経記』(1959年5月6日第1刷発行、1969年4月30日第8刷発行/#6389 参照)の冒頭にも《本朝のむかしをたづぬれば、田村、利仁、将門、純友、保昌、 頼光、漢の樊〓、張良は武勇といへども名をのみ聞きて目には見えず。‥‥》と あり、当時のヒーローの一人だったことがわかります。(「〓」は口偏に「會」 で「カイ」。) なお、私が当たった範囲では、藤原利仁に関しては、岩波書店『日本古典文学 大系』版の岡見正雄氏による補注(pp.391-393)がもっとも詳しく、その後に出た ものも、岡見説をベースにしているものばかりでした。 さて、今ここで、問題にしているのは、田村麻呂と藤原利仁が「達谷窟」あた りで、一緒にエミシと戦ったことがあったのか?ですから、その視点から、岡見 氏が挙げられている史料を見ていこうと思います。 まずは、『尊卑分脈』(*1)。藤原時長の子で鎮守府将軍。武蔵守従四位下。延 喜11年(911)、上野介。延喜15年(915)、蒙将軍宣旨、他の経歴が書かれており、 合わせて、「鞍馬寺縁起」を載せています。 (*1)そんぴぶんみゃく【尊卑分脈】 源・平・藤・橘などわが国の主要な諸氏の系図。洞院公定著。巻数は不定。諸系 図のうちで最も信頼すべきものとされる。現在のものは室町以後多くの増補・加 除・訂正がある。〔CD-ROM『広辞苑』第4版〕 これに対して、田村麻呂は『日本後紀』嵯峨天皇の弘仁二年(811)五月丙辰(23 日)条に《大納言正三位兼右近衛大将兵部卿坂上大宿禰田村麻呂薨。‥‥》という 死亡記事がありますから、両者には約100年の開きがあることがわかります。 したがって、両者が一緒になってエミシと戦うということはあり得ないわけで すから、『義経記』の伝承の方が『吾妻鏡』よりも古い形を伝えていると考えて よさそうですね。 なお、『尊卑分脈』が引く「鞍馬寺縁起」(漢文)は、「鞍馬蓋寺縁起」(*2) には読み下し文で載っているので、両者を比較しながら読んでみると、下野国の 高坐山(高蔵山)の麓に蔵宗・蔵安を先鋒として盗賊が千人ほど集まり、関東か ら都へ送るものを奪ってしまう。そこで、それらを退治するために藤原利仁を派 遣したという話になっています。《遂に凶徒を切て馘を献ず。これによつて名威 天下に振ひ武略海外にかまびすし。》とありますから、蔵宗・蔵安を殺したこと で藤原利仁はヒーローとなったようです。 (*2)鞍馬蓋寺縁起 くらまがいじえんぎ 室町時代の縁起書。永正十年(1513)成立。〔続群書類従完成会『群書解題』第7巻〕 とすると、『義経記』が伝える、藤原利仁が「赤頭」を殺したとする話は、ど う解釈したらよいのやら‥‥。(^_^;) これに対して、田村麻呂と高丸についてですが、『神道集』(*3)巻四、十七、 「信濃国鎮守諏訪大明神秋山祭事」から抜き書きすると《昔、桓武天皇の御代、 奥州に悪事の高丸という者がいて、国内に害を与え、人民を苦しめ、朝廷に敵対 行為をなした。》そこで、田村麻呂(原文は「田村丸」)に高丸討伐を命じます。 田村麻呂は清水寺の千手観音、鞍馬の多聞天、諏訪大明神、住吉大明神などの力 を借り、高丸の首を切り落とすとともに、高丸の子供たち8人を討ち取ります。 (*3)しんとうしゅう【神道集】‥タウシフ 神道書。一○巻。南北朝時代成立か。諸国の神社の縁起や本地などを説話風に記 したもので、室町時代以後の文芸に大きな影響を及ぼした。〔CD-ROM『広辞苑』 第4版〕 なお、ここでは、貴志正造氏の現代語訳本(平凡社 東洋文庫94、1967 年7月10日初版第1刷発行、1988年12月20日初版第17刷発行)から「諏訪大明神の 秋山祭の事」(pp.48-57)を用いた。上はp49から、下はp52から引用。 高丸を殺した具体的な地名は書かれていません。ただ、討伐軍が来ることを予 期していた高丸は城郭を構えていたとあり、《城の周囲は全部石の壁をめぐらし ている。ことに東は海で、千丈の高波が見え、南は雲の上までとどくほど高い大 岩を立て並べている。西は岩山が自然の城郭をなし、北は大きな河が流れてい る。》のだとか。これが「達谷窟」を指しているとすると、「達谷窟」から海岸 線(太平洋)までは、数10kmありますから、これらは話を面白くするための演出 なのでしょう。 よく似た話が「諏訪大明神絵詞」(*4)の上巻、「諏訪縁起中」にもありますが、 こちらは、冒頭に《桓武天皇御宇。東夷安倍高丸暴悪の時。将軍坂の上の田村丸 延暦廿年〔辛巳〕二月勅を奉玉ハテ。追討の為に山道をへて奥州に下向。是則征 夷大将軍の始也。》とあり、下向した田村麻呂等は、《将軍既に奥州の堺に入て 敵陣に向。竊に彼の高丸城〔宅谷岩屋。〕内を伺見給へば。後は碧巌により。前 は蒼海に向たり。左右は鉄石きびしく閇て人馬更に通がたし。高丸彼城に閇籠て 軍兵又出門せず。官軍進退極り。》という状況になるのですが、もちろん分注の 「宅谷岩屋」は「達谷窟」のことでしょう。 (*4)諏訪大明神絵詞 すわだいみょうじんえことば 南北朝時代にできた縁起絵詞の詞書。延文元年(1356)十二月成立。〔続群書類従 完成会『群書解題』第6巻〕 その後、ここでも諏訪大明神の力によって、高丸を射殺して首を切り落とし 《鉾のさきにつらぬきてさしあげ給ひたれば。官軍一同に勝時を作る。其声天に もひゞくらんと覚たり。高丸が伴類是を見て。怖畏のあまり声をあげ。てをつか ねて帰降す。》とあり、殺したのは高丸だけのようです。 ※『尊卑分脈』『日本後紀』は『新訂増補国史大系』版を、「鞍馬蓋寺縁起」 「諏訪大明神絵詞」は『続群書類従』版を用いた。 つづきます。 FHJ55492 アコ