
[Japanese KANJI System(Shift-JIS) and Stylesheet]
[但し書き]
#9370/9370 日本史ボード *** コメント #9363 *** コメント数(0) ★タイトル (FHJ55492) 01/ 6/20 15:37 ( 76) 古代史】『日本書紀』と“秦王国”〔2〕 アコ(76行) ★内容 つづきです。 前回(#9363)、『日本書紀』によると、裴世清らが筑紫から難波津まで異常に 日数がかかっているとし、その理由として考えられるものを4つ挙げました。 しかし、よく考えてみれば、それはあくまでも現代人の私の考え方であって、 当時の人びとにとっても《異常》であったかどうかは、わかりません。 そこで、念のため、『日本書紀』の中から日付が記されている行程記事を調べ てみました。その結果、私が探した範囲でみつかったのは、以下の二つ。 一つめ。斉明天皇五年(659)秋七月丙子朔戊寅(3日)条註が引く『伊吉連博徳書』 (いきのむらじはかとこがふみ)によれば、 7月3日、難波の三津浦から船出。 8月11日、筑紫の大津浦を出発。 9月13日、百済の南の畔嶋に到る。 とありました。 二つめ。天武天皇四年(675)秋八月壬申朔(1日)条、同年九月壬寅朔戊辰(27日) 条によれば、耽羅(たんら)の使者は、 8月1日、筑紫に泊る。 9月27日、難波に到る。 とありました。 これらに対して裴世清らは、『隋書倭国伝』『三国史記』『日本書紀』による と、推古天皇十六年(608) 3月某日、百済の南路を経由。その後、対馬・壱岐を経由。 4月某日、筑紫着。その後、秦王国・十余国を経由。 6月15日、難波津着。 ですから、極端に日数がかかったということではないようです。(アララ(^_^;)) さらに念のため、遣隋使小野妹子の発着を調べてみました。なお、比較しやす いように、西暦風なYYYY.MM.DD表記を用いるとともに、各記事の出典を略記しま した。 607.07.03 小野妹子ら、出発(『日本書紀』推古紀) 607.??.?? 煬帝、倭王多利思比孤の国書を読む(『隋書』倭国伝) 608.03.19 倭国らの遣使、方物を貢ぐ(『隋書』煬帝紀) 608.??.?? 倭国の使者、流求の甲を夷邪久国のものという(『隋書』流求伝) 608.03.?? 裴世清ら、百済の南路を経由(『三国史記』百済本紀) 608.04.?? 小野妹子、裴世清らと筑紫着(『日本書紀』推古紀) 608.06.15 小野妹子、裴世清らと難波津着(『日本書紀』推古紀) 608.09.11 小野妹子、裴世清らと難波津発(『日本書紀』推古紀) 609.09.?? 小野妹子ら、帰国(『日本書紀』推古紀) ここで問題なのは、608年(大業四年;推古天皇十六年)3月19日の遣隋使。こ れは当然、小野妹子らではないのですが、該当する記録が『日本書紀』にはあり ません。 そこで、勝手な想像ですが、小野妹子らが隋まで乗って来た船では裴世清らを 同乗させることができなかったため、新たに倭国から船を取り寄せた。空船では 安定しないので、献上品も乗せて来た。これが、608年3月19日の遣隋使なのでは ないか? そして、小野妹子&裴世清らは、その船も利用して倭国へ向かったと したら、隋を発ったのは必然的に3月19日以降。百済の南路を経由したのが、3月 下旬(末ころ?)。難波津に着いたのが6月15日。したがって、隋から難波まで、 およそ二か月半。 上述の『伊吉連博徳書』では、難波津から百済の南の畔嶋まで二か月と十日か かっていますから、“ほぼ同じ”と考えてよいでしょう。 ということで、 (1)秦王国および十余国を経由することが、裴世清らを特別扱いしたからとは言 い切れず、通常の行程であった可能性もある。 (2)“通常の行程”が船によるものであったとしたら、十余国が陸路であるとは 言い切れなくなる。 ということも、一緒に押さえておきたいと思います。 つづきます。 FHJ55492 アコ |
2004.02.17作成/2004.02.17更新