[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」

[Japanese KANJI System(Shift-JIS) and Stylesheet]

閼伽出甕 論考集「《秦王国》の所在地」(10)

 

[但し書き]

#9590/9590 日本史ボード    *** コメント #9583 *** コメント数(0)
★タイトル (FHJ55492)  01/ 9/ 6   9:50  ( 81)
古代史】『日本書紀』の“穴門国”〔2〕    アコ(81行)
★内容
 つづきです。

 『日本書紀』には、穴門にまつわる不思議な“説話”が記されています。それ
は垂仁天皇二年(前28)是歳条の註にある都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の話で
す。

 ただし、日本古代史研究では、“実在が確認できる最古の天皇は応神天皇であ
る!”というのが定説。したがって、垂仁天皇はその実在性自体が不確かなわけ
です。また、「(前28)」(紀元前28年)というのは、あくまでも『日本書紀』の
記年に従ったもので、信憑性の高いものではありません。

 さて、垂仁天皇二年是歳条の註には出典が異なると思われる二つの“説話”が
記されています。共に興味深い話なのですが、ここでは特に最初の“説話”に注
目します。なお、原文は、打ち込むのが煩わしいので省きます。また、要約する
のもたいへんなので、小学館新編日本古典文学全集版『日本書紀(1)』から、現
代語訳文を引用することにします。

「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「
一説に、御間城天皇(みまきのすめらみこと)の御世に、額に角の生えた人が、一
つの船に乗って越国(こしのくに)の笥飯浦(けひのくに)に停泊した。それでそこ
を名付けて角鹿(つぬが)という。その人に、「どこの国の人か」と尋ねた。答え
て、「意富加羅(おほから)の国王の子で、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、
またの名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)といいます。人づてに、
日本国(やまとのくに)に聖皇がおいでになると伺って、帰属を願い、参上いたし
ました。穴門(あなと)に着いた時、その国に人がいて、名を伊都都比古(いつつ
ひこ)と言いました。私に語って、『我はこの国の王である。自分のほかに国王
はいない。それゆえ、他の所に行くな』と言いました。しかしながら私は、よく
よくその人となりを見ると、これは決して王ではないことを知り、さっそく引き
返しました。道が分らなくて島々や浦々にぐずぐず留まりつつ、北海(きたのう
み)から廻って、出雲国(いずものくに)を経てここに到着しました」と申し上げ
た。この時に、先帝(崇神天皇)の崩御に遭遇し、そのまま留まって活目天皇
(いくめのすめらみこと)(垂仁天皇)に仕えて三年にもなった。天皇は都怒我阿
羅斯等(つぬがあらしと)に問うて、「お前は自分の国に帰りたいと思うか」と仰
せられた。答えて、「たいそう望んでおります」と申しあげた。天皇は阿羅斯等
に詔して、「お前は、道に迷わず、たしかにもって速くやって来ていたなら、先
帝に拝謁してお仕えできたであろうものを。それゆえ、お前の本国の名を改めて、
御間城天皇(みまきのすめらみこと)の御名を負うて取り、お前の国の名にせよ」
と仰せられた。そうして赤織の絹を阿羅斯等にお与えになり、本国に返された。
そこでその国を名付けて弥摩那国(みまなのくに)というのは、この由縁である。
阿羅斯等は賜った赤絹を自国の蔵に収めた。新羅(しらぎ)の人がこれを聞きつけ、
兵を起して襲来し、その赤絹をみな奪ってしまった。これが二国の憎しみ合いの
始まりであるという。
」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
※小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注訳『日本書紀(1)』
(小学館新編日本古典文学全集2、1994年4月20日第1版第1刷発行)、pp.301-303。
※なお、この時点では日本国はまだ成立していないから、もとになった史料には
 “倭”とあったと思われる。(こういった書き換えについては、#9358「古代史】
 『隋書倭国伝』の“秦王国”〔訂正〕」で紹介済み。)


 問題にしたいのは前半部分。《聖皇》云々というのは後から付けられたもので
しょうから、ま、ようするに、朝鮮半島から、瀬戸内海のどこか、あるいは、
日本(やまと)に行きたくて、関門海峡を通ろうとした一行が、穴門の支配者に拒
まれた。しかたがないので、いったん日本海に戻り、出雲国を経由して、敦賀か
ら上陸したということだと思います。

 通説では、“地方豪族が、他国からやってきた者に対して、自らを天皇と偽っ
たものである”とされています。もちろん、実際には“天皇”ではなく、“大王”
だったと思われますが、『日本書紀』の記述に従い、便宜上“天皇”します。
(以下、同様)

 そして、同様の事例として挙げられるのが、欽明天皇三十一年(570)に越国(こ
しのくに)の豪族と思われる道君(みちのきみ)が、そこに漂着した高麗の使者に
対して、天皇と偽って調(みつき)を受け取ったとする記事。(同年夏四月甲申朔
乙酉(2日)条〜五月条)

 で、高麗の使者が、どうして道君が天皇でないと悟ったかというと、天皇が越
国へ遣わした膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)に対して、道君が平伏して拝ん
でいるのを見たからとされています。道君がホントの天皇なら、臣下に平伏する
ことなどあり得ませんからネ。

 それに対して、垂仁天皇二年是歳条の註には、穴門の支配者が日本(やまと)か
らの使者に対して平伏したとか、日本(やまと)から責められたというような話も
伝わっていません。ことから、この“説話”が生まれたころ、穴門はまだ日本
(やまと)に従属していなかったことも十分考えられるわけです。

 つまり、この“説話”には、穴門が日本(やまと)と対当、もしくは穴門のほう
が上だった時期があったことを伝えている可能性があるのです。(ただし、その
時期は特定できませんが‥‥。)

 つづきます。                 FHJ55492  アコ


[目次]

2004.02.17作成/2004.02.17更新