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閼伽出甕 論考集「《秦王国》の所在地」(13)

 

[但し書き]

#9946/9946 日本史ボード    *** コメント #9944 *** コメント数(0)
★タイトル (FHJ55492)  02/ 2/25   6:33  ( 78)
古代史】“秦王国”は“穴門”にあった!?   アコ(78行)
★内容
 これは、#9944「古代史】『日本書紀』の“穴門国”〔4〕」のつづきであり、
『隋書倭国伝』に記された秦王国の所在地を推理する関連シリーズの最終回です。

 さて、現在の下関市壇ノ浦町付近にチャイナタウンがあるなんて話は私は聞い
たことがありません。同様に、その地には現在でも中国的な文化が色濃く残って
いるなんて話も聞いたことがありません。

 ところが、形質人類学の時代区分で言うところの弥生時代にまで遡ると事情は
大きく変わります。というのも、山口県豊浦郡の西海岸各地の墓地遺跡(埋葬遺
跡)から渡来系の人びとの人骨が多数見つかっているからです。

 その代表的な存在が豊浦郡豊北町神田上の土井ヶ浜遺跡(どいがはま・いせき)
です。小川国治(おがわ・くにはる)編『山口県の歴史』には、以下のように紹介
されています。

「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「
 土井ケ浜遺跡の調査の後、響灘沿岸の豊浦町中の浜遺跡や下関市の吉母浜遺跡
において同じ時期の弥生人骨が百数十体発見され、また北部九州においても、同
じ形質的特徴をもつ弥生人骨がすでに五〇〇体を超えている。いま人類学では、
彼らを「北部九州・山口型弥生人」と称し、東日本や西北九州・南九州の、
「縄文人的特徴」をそのままうけつぐ弥生人たちと対比する集団として把握され
るようになった。
」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
※小川国治編『山口県の歴史』山川出版社、1998年3月25日第1版第1刷発行、
 p.25,p.28。
※ルビは省いた。以下、同様。

 なお、墓地遺跡名はそれぞれ、中の浜遺跡(なかのはま・いせき)、吉母浜遺跡
(よしもはま・いせき)と読みます。また、『山口県の歴史』によると、これら以
外にも下関市には梶栗浜遺跡(かじくりはま・いせき)や市街地の垢田(あかだ)か
らは地蔵堂遺跡(じぞうどう・いせき)が発見されているそうです。

 こういった響灘(ひびきなだ)の遺跡は皆、墓地遺跡であって集落遺跡(住居遺
跡)ではありません。たぶん、祖国につながる海に面した場所を選んで埋葬した、
いわば“聖地”のようなものだったのでしょう。そして、日常の生活の場は別に
あったようです。

 といっても、《集落遺跡として代表的な遺跡は、下関市綾羅木の海岸段丘のう
えにいとなまれた綾羅木郷遺跡》(『山口県の歴史』p.31)がみつかっている程度
なのだとか。ちなみに、綾羅木郷遺跡(あやらぎごう・いせき)と読むようです。

 また、#9590「古代史】『日本書紀』の“穴門国”〔2〕」で紹介した『日本
書紀』垂仁天皇二年是歳条の註に登場する都怒我阿羅斯等が最初に訪れたのが穴
門であったように、下関市あたりは弥生時代に限らずその後も渡来するのに都合
が良かったのではないでしょうか? つまり、渡来は弥生時代に限定されるもの
ではなく、その後も断続的にあったのではないか?ということ。

 では、上述のいわゆる「北部九州・山口型弥生人」とは、如何なる人びとか?
というと、同時代の朝鮮半島や中国本土の資料例が少ないために、はっきりした
ことは言えないそうなのですが、《最近の調査では、山東省の遺跡から発掘され
た漢代の人骨資料のなかに、土井ケ浜弥生人ときわめてよく似た形質をもつ資料
がかなり多くみつかっている。》(『山口県の歴史』p.29)とのこと。

 情報があまりにも少ないので明確なことは何も言えないのですが、これらのこ
とから“空想”すると、山口県から北部九州にかけて、弥生時代以降も、断続的
かもしれませんが、中国本土や朝鮮半島からの渡来者が集団で生活するような地
域が存在していたのではないでしょうか? それらが、コロニー(colony)のよう
なものだったのか、それとも居留地のようなものだったのか、あるいは上海にあっ
た租界(そかい)のようなものだったかはわかりませんが‥‥。

 そして、穴門で裴世清が「ここの人びとは中国と同じ」と感じたのも、

 (a)穴門の倭人が、裴世清らの接待役としてそういった地域の人びとを起用した。
 (b)あるいは、そういった地域の人びとの智恵を借りて穴門の倭人が接待した。

からなのではないでしょうか。

 なお、筑紫(竹斯国)も裴世清らに対して同様の対応が可能だったと思われま
す。しかし、そんなことはしなかったのでしょう。

 なぜ、そこまでして穴門は裴世清らを歓待したのかというと、隋と特別な関係
を結びたかったからではないでしょうか? そして、その表われが、倭名の穴門
ではなく自らを秦王国と名乗らせたのではないか?と私は想像しているのです。

 ということで、むりやり話をまとめてしまいましたが、補足編としてあと一本
つづきます。

                        FHJ55492  アコ


[目次]

2004.02.17作成/2004.02.17更新