
平成9年6月17日付 被告側弁護団による準備書面の被告の主張より
注)原告:第一勧業銀行
被告:Kさん
一 本件紛争の実態
本件の被告は先天的聾唖者であって、文章力が低く、「保証」、「担保」、「抵当」等の用語を文章によっては理解し得なかった(被告がこれらの用語の意味を初めて理解したのは本件訴訟がはじまってから、代理人等が手話通訳を介して説明したときである)。原告およびYは被告のそのような状態を悪用して、本件で問題になっている保証契約書や担保権設定契約書の意味を知らないままの被告に署名捺印せしめたのであって、これらの契約は原告の意思に基づかないで作成されたものに他ならず、原告には連帯保証の意思も物上保証の意思も全くなかったものである。
二 聴覚障害者のコミュニケーションについて
本件を考えるにあたっては、まず聴覚障害者のコミュニケーション手段をよく理解しておかなけれあならない。健聴者はこの点を誤解しがちだからである。
聴覚障害者といっても大きく分けて、言語を習得した後に聴覚障害者となったもの(後天的聴覚障害者)と生まれつきまたは極めて幼少時に聴覚に障害を生じたもの(先天的聴覚障害者)とがある。本件被告は後者であり、後者の場合には聴覚障害の故をもって言語にも障害を生じやすい。本件被告もそうである。
ところで、世人はとかく聴覚障害者に対しては、筆談をすればよいとか、大きな声で話してやればよいとか、口を大きく開けて話してやればよいとか、ことを一面的にしか捉えない傾向があるが、ことはそう単純ではない。その聴覚(言語)障害者の特性に応じたコミュニケーション方法を選択する必要があり、また、そうしないと十分なコミュニケーションを確保できず、その結果、法律行為をなしえなくなる場合がある。聴覚障害者に対する主なコミュニケーション手段としては次のようなものがある。
1.読話 相手の口の動きを見て、その言わんとするところを把握する方法である。日本の聾学校教育は伝統的にこの方法によって行われており、またその教育目的もこの方法を習得させることにあるかのように思われる。しかし、この方法では簡単な単語や会話程度はできても、複雑なコミュニケーションには適さない。ことに日本語には口形が同じ音や語が多く(例えば、い・き・し・ち・に・ひ、う・く・す・つ・ぬ・ふはそれぞれ口形が同じである)、この方法によるコミュニケーションを余計困難ならしめている。
2.補聴器・人工内耳 これらの機械を用いてコミュニケーションが可能な者もいる。この場合にはかならずしも通訳が必要でない場合がある。
3.筆談 音声言語を文字に変換してコミュニケーション手段とする方法である。後天的聴覚障害者のように文章を習得できた者には有用である。先天的聴覚障害者でもこの方法によれるものも多い。但し、手話に比べるとスピードが落ち、省略が多くなるという欠点もある。
4.手話 特に先天的聴覚障害者の中には、その障害の故に文章の習得が十分ではなく、文章によってはコミュニケーションを図れないものがかなり多く存在する。また、筆談によりうる者でも、筆談のもつ右の欠点をきらって手話を習得し、コミュニケーション手段として常用している者もある。手話は手の動きで語句のイメージを表現する言語手段であるから、文章は分からなくてもイメージから何を言っているかを理解しうるのである。ただ、この方法によっても抽象的な用語を表現しにくい場合がある。あるいは表現できても聴覚障害者の方で理解できない場合もあるといった欠点がある。
なお、これも誤解されやすいことであるが、手話は聴覚障害者だけが分かるというものではなく、外国語と同様に健聴者でもマスターすることができるのであり、被告の妹たちの一部には手話で被告とコミュニケーションを図ることができる者もいるのである。
以上を要するに、聴覚(言語)障害者に対しては、その者に適したコミュニケーション手段を確保することが必要なのであって、民事訴訟法第一三四条が4の方法を原則とし、場合に応じて3の方法をもとりうるとしているのも、この趣旨に他ならないのである。
三 本件被告の場合、言おうに述べる生育歴のもとで右1の読話・3の筆談によるコミュニケーションは極めて不十分であり、手話を用いる事によってはじめてコミュニケーションが可能である。
本件被告の生育歴について
本件被告は九人兄弟の長男として生まれた。先天的聾唖者であったので、良心は一面不憫がり、他面財産は被告の弟に託した。
両親が愛情をもって育ててくれたのは良かったのであるが、今にして思えばその方法に問題があった。即ち、被告が一一歳になるまで学校教育を受けさせなかったのである。先天的聾唖のハンディを持つ者の日本語の習得のために、この一一歳までという期間の持つ意味は非常に大きなものがある。にもかかわらず、被告はこの期間学校教育を受けることができず、さりとて両親から十分な勉強を教えて貰うでもなしに徒過してしまったのであった。一一歳の時に私立日本聾話学校に入学し、二四歳の時に同学校高等部(技芸科)を卒業したのであるが、このような生育歴及び前述したとにかく読話を覚えさせることを主眼とする聾学校の教育方針の影響を受けて、被告は文章力及び「保証」「担保」「抵当」等の抽象的な取引用語の理解力は健聴者からみると低いままに卒業したのであった。ちなみに、誤解を恐れずにあえていうと「聾学校高等部の卒業生の学力は健聴者の小学五年生程度」とよくいわれている。被告は残念ながら、文章による学力としてはその程度の学力のまま社会に出たのであった。ただ、多くの先天的聴覚(言語)障害者と同様に、被告も他の聴覚障害者とのつきあいを通じて自然的に手話を覚え、手話によれば文章によるよりも複雑な内容の会話をすることは可能である。
社会に出てからも、文章力を養う機会や複雑な取引行為を経験する機会はなかった。被告は両親が残してくれた土地・建物に住み、学校で習った洋裁を生かして衣料品の修繕を業として慎ましく生活していたからである。
ただ、過去に「不動産の取引行為」らしきものがないではないが、被告がその意味を十分理解してなされたものではない。先にも述べたように両親は財産を弟に託したのであるが、被告が住んでいる土地については被告の名義にしておいた方が良かろうということになったらしく、甲第一三・一四号証の土地の名義を被告名義にした時(この二つの土地の登記原因が真正な登記名義の回復になっているのはそのためである)、及び甲第一四号証の土地をYに売却した時がそれである。しかしこれらのうち前者はどういう意味かよく分からず、ただ兄弟から「貴方の得になることだから」といわれていわれるままに判を押したのであるし、後者の場合はさすがに売るということの意味は分かったが、登記の意味は知らないままにお金が貰えるからといわれて判を押したものである。
更に被告は銀行から借金をした経験もない。かようにして、被告は本件で問題となる「保証」、「担保」、「抵当」等の用語の意味を知らないまま、今日に至った。被告が「抵当」という用語の意味を知ったのは実に本年五月一二日、代理人に「借りたお金を返さないと家を取られること」と手話で説明された時であった。
四 甲第二・六・七・八号証の署名捺印について
標記の書類には被告の署名捺印があり、あたかも被告がT工機の原告からの借入につき、連帯保証ないし物上保証契約を締結したかのように見える。しかし、これらの契約は、前述したところから明らかなように、「保証」「抵当」等の用語の意味を全く理解し得ないままになされた、連帯保証の意思及び物上保証の意思を欠くものである。このことを十分に理解するためにはこれらの署名・捺印がなされた事情を知っておかなければならない。
本件訴訟の相被告であるY・Tは同じく相被告のT工機株式会社の経営者(代表取締役)であるが、被告の末妹Y子の配偶者であった(Y子は既に死亡)。そして、Yは被告宅の隣に住んでいたが、手話を知らないこともあって被告との意思の疎通は必ずしも十分ではなかった。ところで、追而詳述するが聴覚障害者はコミュニケーション手段が十分ではないこともあって、その行為の意味も分からないままに健聴者のいうことに迎合しやすい傾向がある。被告にもその傾向があって、上述したようにこれまでにも二回の土地の取引も弟やYのいうとおりに判を押してきたものである。
そして、そのときには何の不利益なこともなかったこともあって、被告はYのいうことを信用するようになっていった。そして、平成元年ごろにYからひっくに対し「銀行からお金をだして貰うから」といわれて内容のよくわからない書類への署名捺印および印鑑証明書を要求された。被告としては何故自分の署名捺印が必要なのか、印鑑証明とはどんな意味を持つものなのか、まったく知らなかったのであるが、義弟であり健聴者であるYのいうことを信用しており、今まで損害を蒙らされたことがなかったこともあって、Yのいうとおりに署名捺印し、印鑑証明書も渡していた。そして、このときにも何も問題が生じなかったので、以後もYのいわれるとおりに書面の意味を理解することなく署名捺印し、甲第二号証等の署名につながったのである。甲第二号証に署名捺印させられた時の状況を述べると、その日付の頃の日の朝、Yともう一人の男が被告宅の庭に現れて、Yが名前を書けと口の形で示し、住所氏名欄を指で指して署名を求められた。捺印欄には予めマル印が付けられていた。な、借入要項欄は白紙であった。このようにして、それがどういう意味の書面なのかを知らない被告に対し、手話通訳も付けず、必要な説明をすることもなしに、ただ被告が自分を信頼しているのをよいことにY(及び銀行員)が署名捺印させてできたのが甲第二・六・七・八号証なのである。即ち、被告には右書面に署名・捺印する際に連帯保証の意思も物上保証の意思も全くなかったのである。ちなみに、被告が事の重大性を知ったのはYがT工機の経営がうまくいかず、夜逃げした後の平成七年頃、妹の一人が登記簿謄本を見て、このままでは土地建物を全て取られてしまうと指摘した時であって、被告は何故そうなるのかは分からなかったが妹にそういわれて大変不安になったのであった。
以上から明らかなように、被告の署名捺印は被告の意思に基づかないもので何等の法的な行為ではなく、効果意思も認められない。ということは、原告と被告との間には有効な連帯保証契約、物上保証契約は存在しないものに他ならない。
従って原告の請求は棄却されなければならないのである。