
第3 当裁判所の判断
1 当裁判所が認定した事実
上記前提事実、甲B第1ないし6、10号証、乙第6、7号証、認定事実末尾に掲記の各書証、証人O野、同I藤の各証言、被告本人尋問の結果、鑑定の結果及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる(以下、被告本人尋問調書を引用する場合には、平成11年6月7日付調書を「被告本人(1)」、同年9月13日付調書を「被告本人(2)」、同年11月15日付調書を「被告本人(3)」とそれぞれ略称する。)。
(1)被告の生育歴及び生活状況について
ア 被告は、大正14年4月17日に生まれたが、自分の声を含めて音声を聞くことができず、響を感ずることができるだけという、先天的聴覚障害者であった。被告の両親は、健聴者であり、被告とは仕草を通じて意思疎通を図っていた。被告の9人兄弟のうち、3人が聴覚障害者であった。
被告の両親は、聴覚障害者の被告を可愛がるあまり、被告が11歳のときに、日本ろう話学校に入学させるまで、家庭で養育し、被告の通学時期を遅らせてしまった。
被告は、入学後、予科・中等部・高等部と進学し、合計13年間通学したが、その間に戦争で疎開し、畑仕事に従事するなど、勉強を中断する時期があったり、また、当時のろう話学校における教育が読話や口形の読み取りの訓練を中心にしていたこともあって、健聴者と比較して、通常の学科の学力が遅れてしまった。
被告は、学校で洋裁を学び、卒業後9年間、ろう話学校において教師を手伝って生徒に洋裁を教えた。昭和33年に、ろう話学校のクラスメートであった聴覚障害者の妻と結婚し、学校を退職して、自宅で妻とともに洋裁の内職を営むようになり、現在まで続けている。洋裁の仕事は、妹の経営している店舗や手話のできる健聴者から受注して、行っている。
イ 日常生活に置いて、被告は、妻やY子、妻の妹であるAK子(以下Aという。)と、手話を用いて意思の疎通を図っていた。Y口は、手話ができなかったので、被告とはあまり親交がなかった。
被告は、医者の診察を受ける場合には、市の手話通訳士を頼むことが多く、簡単な内容で足りるときのみ筆談で意思の疎通を図った。また、市役所や銀行に用事がある場合や高額な買い物をする場合などには、被告の妻がAに通訳をしてもらって行った。ファックスも利用していたが、市役所からの通知などは通訳をしてもらっていた。
被告は、新聞の易しい言葉を拾って読んだり、字幕付きの番組やスポーツなどをテレビで見たり、聴覚障害者の知人や健聴者の知人、妹たちから教えてもらうなどして、生活に必要な情報などを得ていた。
被告は、預金口座やキャッシュカードを持っており、水道料金やガス料金は、銀行の口座振替で支払っていた。口座振替の契約を締結する際には、銀行員が、被告に対して、紙に説明を丁寧に書いて行った。また、実印、印鑑登録カード、預金通帳、不動産の権利証などは、自宅の金庫に保管していた。
被告は、地域のろうあ相談員に任命されていたが、年に1,2回の会合に出るだけで、具体的な相談を受けたことは1度もなかった。
(2)従前の取引関係
ア 遺産分割
昭和30年代に両親が亡くなり、両親は被告ら兄弟に不動産を残した。ところが、被告の弟が、遺産の不動産を売却したことが発覚し、被告の関知しない間に、弟が遺産の不動産を自分の所有としていたことが分かった。この点について、被告は、弟の妻が、兄弟の印鑑を押してしまったために、上記売買の事実が判明したと供述している。
そこで、被告は、遺産を平等に分けて欲しいと弟に頼んだが拒否され、叔父に頼んで間に入ってもらい、話し合った。その結果、詳細な遺産分割の経緯は不明であるが、最終的には、昭和42年に、被告が本件不動産を含む不動産を取得し、遺産分割協議書に押印した。
イ 不動産の売買
被告は、Y口とY子の3人で相談して、賃貸借の条件を決め、Y口らに相続した土地の一部を賃貸していた。
その後、Y口から上記土地を売って欲しいと頼まれ、土地に対する税金の負担が大きいと感じていたこともあって、被告は、Y子の通訳を介して、昭和62年に、賃貸していた土地を売却した。売買代金は、被告とY口、Y子の3人で相談して1900万円と決め銀行の口座に振り込む形で支払われた。被告は、上記1900万円の調達方法として、Y口が銀行から借りたものかもしれないと供述している。
ウ 根抵当権設定
(ア)別紙物件目録1記載の土地には、平成元年3月31日設定、同日4月5日受付による(1)根抵当権者を株式会社富士銀行(以下「富士銀行」という。)、債務者をT工機、極度額を6000万円とする根抵当権設定登記、(2)根抵当権者を富士銀行、債務者をY口、極度額を1000万円とする根抵当権設定登記が存した。
(イ)別紙物件目録2記載の建物には、平成元年7月25日追加設定、同日受付による、上記(ア)(1)、(2)の各根抵当権設定登記が存した。
(ウ)上記(ア)及び(イ)記載の各根抵当権設定登記は、解除を原因として、平成3年4月1日受付で抹消された。
(エ)本件不動産には、平成3年3月5日設定、同年4月1日受付による根抵当権者を株式会社第一勧業銀行(以下「第一勧銀」という。)、債務者をT工機、極度額を7000万円とする根抵当権設定登記が現存する。
(オ)本件不動産には、平成4年7月10日設定、同月20日受付による根抵当権者を太平信用金庫(以下「太平信金」という。)、債務者をY口、極度額を600万円とする根抵当権設定登記が現存する。
エ 金銭の借入
被告は、銀行等から金銭を借り入れたことはなかった。
(3)原告の平成6年の契約締結について
原告は、平成6年1月ころ、Y口からT工機に対する金500万円の融資の申込を受けた。Y口は、被告が保証人となることができ、同人が所有する不動産に根抵当権を設定することができると説明した。さらに、被告は聴覚障害者であるが、それ以外は健聴者と変わらない生活をしていると話した。原告社内では、当該不動産の登記簿謄本や公図などを調査して評価を行うなど検討し、融資することに決定した。
原告のO野は、同年3月22日、上記融資を実行するために、Y口方を訪問した。Y口から、銀行取引約定書(甲B1)に住所の記載、氏名の記名押印を得、金銭消費貸借契約証書(甲B2)に住所の記載、本人欄の記名押印、保証人欄の署名押印を、根抵当権設定契約証書(甲B3)に住所の記載、根抵当権設定者欄の署名押印を得た。さらに、甲B第6号証の保証書にも債務者の記名押印等を得た。
そして、O野とY口が、被告方を訪れると、被告とその妻が出てきた。庭から今に上がると、Y口は、被告にO野を紹介し、O野は名刺を渡した。O野は、T工機に500万円を融資すること、その保証人となってもらうこと、被告所有の本件不動産に根抵当権を設定すること等を説明し、Y口がO野の説明を身振り、手振り、言葉を交えて被告に伝えると、被告は軽くうなずいた。
Y口が実印を持ってくるように伝えると、被告は、すぐに自分の実印を持ってきた。
O野が甲B第2号証(金銭消費貸借契約証書)の借入要項欄の鉛筆書きの金額「5,000,000円」、甲B第3号証「根抵当権設定契約証書」の文字、甲B第6号証(保証書)の「保証書」の文字等を指で示した上、金銭消費貸借契約証書及び保証書の住所欄及び保証人欄、根抵当権設定契約証書の住所欄及び根抵当権設定者欄を示して記入を求めたところ、被告は、何も言わず、住所と名前を記入し、名前の右に実印を押捺した。O野は、被告本人から実印を借りて本件各契約書に捨て印を押捺した。
O野は、同月25日に、印鑑登録証明書を受けとり、原告の内部処理として、各契約書の日付けは、同月25日と記入された。
(4)T工機は、平成8年2月6日、手形交換所の取引停止処分を受け(甲A10)、Y口は、行方不明となった。
2 争点に対する判断
(1)争点(1)(契約の成否)について
意思表示は、取引観念上、その相手方にとって、表意者が一定の法的効果の発生を欲したと推断されるような表示があれば成立するというべきである。したがって、契約の成立を主張する当事者は、表意者が、当該契約の成立を欲したと取引観念上推断しうる表示行為を行ったこと、それが相手方の表示と一致していることを主張立証すれば足りる。
本件においては、被告は、上記認定のとおり、O野が被告の自宅を訪れて本件各契約書を示し、「ここにサインしてください。」と言ったのに応じて、本件各契約書に署名押印したが、本件各契約書がそれぞれ保証契約、根抵当権設定契約の契約書であることは取引観念上明らかであるから、これに署名する行為から、被告が、根抵当権を設定し、また、保証契約を締結する意思を有していると推断できる行為を行ったことは明らかである。
そして、これと合致する原告の意思表示があることも明らかであるから、根抵当権設定家約及び保証契約は成立したと認められ、被告がこれに対応する内心的効果意思を有しなかった場合には、錯誤による無効が問題になるに過ぎない。
(2)争点(2)(錯誤無効)について
そこで、以下、本件各契約が錯誤により無効であるか否かについて検討するが、外形上表示が一致していれば、原則として契約は成立しているというべきであるから、錯誤があったことの立証責任は表意者が負担すると解するのが相当である。
ア まず、手話通訳を付けなかった点について、原告は、被告がろう学校で読話を学んでいること、健聴者の兄弟との間では読話や身振り手振りで話していたと述べていることから、被告はO野が口頭で述べたことやY口の身振りによって契約内容を理解し得たと主張する。しかし、被告は日常の会話を手話に依存していたこと、Y子やAと会話するときも表情と身振りだけでは理解できず、手話と口の読みとりが一緒でないと分からないと述べていること(乙6)、兄弟との会話と保証や根抵当権設定という法律行為とではその内容の難易に差があることに照らすと、O野が口頭で説明したとか、Y口がO野の説明を手話でなく身振りで伝えたなどちう方法では、ただちに契約内容を被告に理解させることはできなかったというべきである。
次に、被告の文章による日本語理解能力については、被告が本件各契約の内容を理解したうえで本件各契約書に署名押印したか否かは、被告が、契約書に記載された「保証」「根抵当権」という用語を理解し得たか否かによるというべきである。
イ そこで、本件各契約書への署名押印に至る経緯等、その他の事実を総合して判断することとする。
(ア)被告は、従前、Y口に土地を売却した際のY口の資金調達方法について、「銀行から借りたものを私に渡したのか分かりません。」と供述しており(被告本人(3)13頁)、銀行が金員を貸す機関であるという知識を有しているところ、O野の訪問に際して名刺を受け取っており、銀行員が訪問してきたことを認識している。
また、被告は実印を金庫のようなものに保管しており(被告本人(2)31頁)、実印の重要性について理解していると認められ、被告の父親から相続した土地について、「弟の妻が土地を黙って売ったんです。」「兄弟のめいめいのはんこを弟の女房が作って押したんです。」と供述する(被告本人(3)27頁)等、取引において契約書を作成することやそれに署名押印することの重要性を理解していたものと認められる。
(イ)次に、被告の従来の取引経過についてみると、本件根抵当権設定契約以前、被告は本件不動産に、平成元年富士銀行のために根抵当権を、平成3年第一勧銀のために根抵当権を、平成4年太平信金のために根抵当権を、それぞれ設定しているが(上記1(2)ウ)、被告は実印を厳重に保管しており、根抵当権設定契約書が偽造されたとは考えにくいから、各根抵当権設定契約において被告が契約書に実印を押捺し、印鑑登録証の交付もなされていたものと認められる。また、被告は、平成5年第一勧業銀行に対し、根抵当権確定の際には確定の登記に協力する旨の念書に署名押印し、交付していること(甲A22)、平成7年6月5日にも同様の念書に署名押印し、交付していること(甲A23)がそれぞれ認められ、これほど多数回にわたって、上記根抵当権設定契約書等の内容を理解しないまま、重要であると認識している実印を押捺したというのは不自然である(なお、平成元年当時は被告と手話で意思疎通のできるY子が存命中であり、最初の根抵当権設定に際して、その説明がなされたことも十分考えられる。)。
(ウ)被告は、本件各契約書への署名押印について、署名押印すればY口が喜ぶという認識しかなかったとか、Y口やO野にいわれるままに署名押印したと主張する。
しかし、上記のとおり、被告は実印の重要性や契約書を作成する意味を理解していたことに加えて、被告が普通知域にあること(鑑定の結果)、被告とY口はあまり親交がなく、被告は、Y口を信頼していたかとの対に対し、「普通だと思います。特にありません。」と回答していること(被告本人(1)20頁)を考えあわせると、Y口を喜ばせるためとか、Y口に署名押印するようにいわれたという理由のみで、被告がY口のいうままに意味も分からず本件各契約書に署名押印したとの被告の主張は不合理であり、その他、本件各契約書をどのようなものと認識していたのか、また、なぜ本件各契約書に押印したのかについて合理的な説明はなされていない。
(エ)上記(ア)ないし(ウ)記載のとおり、被告は実印の重要性や銀行との契約書を作成する意味を理解したうえで、過去多数回にわたって根抵当権設定契約書等に署名押印していること、本件各契約書を保証契約書、根抵当権設定契約書ではなく、どのようなものと理解していたか、また、なぜ被告が内容を理解できない書面に署名押印するに至ったかについて合理的な説明がなされていないことに照らすと、本件各契約書の内容を理解しないまま署名押印したとの被告の主張は、採用することができない。
(オ)被告は、本件各契約書の内容を読んで理解する能力がなかった旨主張し、鑑定の結果中には、「法律関係の用語が頻繁に使われている契約文を被告が読んで理解したとはとうてい考えられない。」との判断が示されている部分があるが、本件で問題となるのは、契約書全体についての文章の読解力や抽象化の能力ではなく、「保証」「根抵当権」という特定の用語を被告が理解し得たか否かである。そして、鑑定の結果によれば、被告は漢字そのものを理解できないわけではなく、「天然」「遺言」等、理解できる漢字もあること、被告は知的には普通知域にあること(なお、被告は、少なくとも、本件訴訟提起後には説明を受けて「保証」「根抵当権」の意味を理解するに至っていることを自認している。)等によれば、本件各契約以前に説明を受けて「保証」「根抵当権」という用語を理解するに至っていた可能性を否定できず、鑑定の結果のみをもって、被告が本件各契約の内容を理解していなかったということはできない。
また、被告は、鑑定の結果を援用し、「貸越」「所定」「貸し渋り」「介護保険」「時効」等、銀行との取引において使用される単語は全く理解できなかった点を指摘するが、「保証」「根抵当権」という特定の用語を理解していたか否かが問題である以上、その他の語を理解し得たか否かは直接には影響のない事柄である。
さらに、被告は、Y口が被告宅を訪れて本件各契約書への署名押印を求められた際、契約内容等について何ら質問しないまま署名押印し、O野が被告宅にいたのも10分ないし20分程度と短時間であるうえ、病院や役所へは手話通訳者を同行する被告が本件で手話通訳者の同席を要求していないのは、被告に防衛能力が備わっていないことの証拠であると主張する。しかし、上記説示の通り、被告が事前にY口と被告との間で合意が形成されていたとすると何ら不自然ではないと解される。
被告が署名押印した当時、本件金銭消費貸借契約証書には鉛筆で記載されていたのみで、元利金の弁済方法(月々の返済額)は記載されていなかった(O野15頁)という点は、契約の要素たる部分は一応記載されており、その余の部分を包括的に委任したと解することも一般的に不合理とはいえない。
ウ 確かに、被告は聴覚障害者であり、上記認定の被告の生育歴、学歴やコミュニケーション手段が限定されていることを考慮すると、原告の担当者において被告の保証及び担保提供の意思を確認する際に、手話通訳者を付けることが望ましい状況であったとはいえる。しかし、上記認定の事実関係に照らして、本件における被告の主張立証によっても、被告が本件各契約書の内容を理解しないまま、これらに署名押印したものであって、表示に対応する内心的効果意思を有していなかったとは認められないし、他に被告主張の事実を認めるに足りる証拠もない。
よって、被告の主張はいずれも採用することができない。
第4 結論
以上によれば、その余の争点について判断するまでもなく、原告の被告に対する請求はいずれも理由がある。よって、これを認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条を適用し、仮執行宣言は相当でないから付さないこととして、主文のとおり判決する。
東京地方裁判所民事第33部
裁判長裁判官 芝田俊文
裁判官 片田信宏
裁判官 笹井朋昭