
EVANGEL RECORDSCDカタログ
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| PETER
DALTREY/ENGLISH ROSES ▲BIO ▲TOP ピーター・ダルトレイ/イングリッシュ・ローゼス(1995) ――――――――――――――――――――――――――――――― ★英サイケ・バンドのカレイドスコープ、英フォーク・グループのフェアフィールド・パーラー(ヴァーティゴ・レーベル)のリーダー。91年の自主制作カセットからリミックスを含む選曲8曲に新曲4曲を追加した、ファースト・ソロアルバム。●イギリスは伝承の地に住み、妖精、悪魔、UFOなど超自然を愛した気鋭の詩人ピーターの超自然の精神をフォークタッチで表現した静かなるパルスである。●完全ディスコグラフィーつき |
★EV.001 thanks! |
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ONE
WAY TICKET ▲BIO ▲TOP
ワン・ウェイ・チケット/ワン・ウェイ・チケット(1968-1972) ――――――――――――――――――――――――――――――― ★ザ・フー、スモール・フェイセス、ジミヘン、クラプトンなどのチーフエンジニアが60年末から70年初頭にかけて製作したポップサイケアルバム。哀愁を帯びたメロディーと英サイケ特有の味つけは正に大英帝国。英国ソフトロック、サイケデリア、ビートなどを陰で創造した人物が空想した「万華鏡世界」。●解説・岩本晃市郎/ディスコグラフィー/英解説対訳付/歌詞付 |
★EV.002 thanks! |
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PETER
DALTREY/WHEN WE WERE INDIANS ▲BIO ▲TOP ピーター・ダルトレイ/インディアンズ(1996) ――――――――――――――――――――――――――――――― ★サイケデリックの洗礼を受けた者のみが持ち得る叙情性が幻想の世界へ誘う。潤いのある静かな気配に包まれた空間は一種麻薬的でもあり、ヘビーなサイケ・ジャンキーの心を癒す。深い気品と淡い狂気が共存するアシッド・フォーク!●温和なメロディにギターやシンセが幾重にも絡まって曲が織りあげられていく。本人の内部に純粋な感動が存在するのが分かる。(小山哲人・解説より) |
★EV.003 |
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CLODAGH
SIMONDS/SIX ELEMENTARY SONGS ▲BIO ▲TOP |
★EV.004 thanks! |
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GORDON
HASKELL/SERVE AT ROOM TEMPERATURE ▲BIO ▲TOP ゴードン・ハスケル/サード(1979) ――――――――――――――――――――――――――――――― ★元クリムゾンという肩書きで語られることの多いゴードン・ハスケルだが、彼の本来の姿はドリーミィなシンガー・ソングライターである。ここには、1作目と2作目と同じ、あの優しくあたたかい彼のヴォーカルがある。当時、未発表に終わった幻のアルバム。1979年作 。●未確認だったクリムゾンの前身であるリーグ・オブ・ジェントルメンとレイヴンズの話し、ゴードンの参加したすべてのシングルとアルバムを掲載。 |
★EV.005 thanks! |
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ELITE/ANY
PORT IN A STORM ▲BIO ▲TOP エリート/エリート(1978) ――――――――――――――――――――――――――――――― ★1979年発表。70年代最後の、そして、最後の70年代の英ポップバンド「エリート」。本作は彼らのファースト・アルバム、世界初登場(含ボーナス・トラック)。 ●10ccやパイロットと並ぶ、70年代最後の実力派英国ポップバンド。ニック・ロウ的なメロディと英国の陰りをもつサウンドは、極めてセンシティヴ。キャッチーでストレートなメロディで勝負できる数少ない本物。英国ポップマニア必聴。1979年作。 |
★EV.006
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JUST
OTHERS/AMALGAM ▲BIO ▲TOP ジャスト・アザーズ/アマルガム(1974) ――――――――――――――――――――――――――――――― ★繊細でナイーヴな感性を持った英国フォーク・デュオ。70年代初頭の英国の翳りと瑞々しさがにじみ出る夢見るようなフォーク・アルバム。●英国フォーク・ファン、なかでもセプテンバー・プロダクションのファン必聴盤。クラムホーンズの驚くほど美しい「Ballad Of Lady Ann」は、これまでにない中世風の曲で霊感に溢れた閃きをはじめ、ストリング・カルテットが彼方に響く「Where Is He」など、クールで幻想的な趣がある。そして、全体を漂うメランコリックな詩の断片は、静かな感動を与えることだろう。 |
★EV.007 thanks! |
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FACTORY ▲BIO
+ FIVE DAY RAIN/COMPLETE ALBUM ▲BIO ▲TOP
ファクトリー+ファイヴ・デイ・レイン/完全収録盤(1968-1972) ――――――――――――――――――――――――――――――― ★1960年代の英国を原色で染めたサイケデリック・ミュージックのマスター・ピースとされる2つのグループの音源を初めて完全収録!●「疾走するフリーク感と夢見るメロディ」のファクトリー(英レコードコレクター誌のなかでイギリスにおけるベスト・サイケ・グループに選出)。●「サイケの終焉を象徴するプログレッシヴなサウンド」のファイヴ・デイ・レイン(AVERAGE WHITE BANDのメンバーと結成していたFOREVER MOREやGLENCOEのグレアム・メイトランドのグループ。その唯一残されたテスト・プレス盤の全曲を収録)。 |
★EV.008 ★2000/12/15発売 ★日本のみ限定盤 ★定価2600円(税抜) |
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バイオグラフィ
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EVANGEL
RECORDS ▲TOP
★エヴァンジェル・レコードは、60年代、70年代のイギリスのロックを日本独自のフォーマットでリリースするレーベルです。 |
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PETER
DALTREY/KALEIDOSCOPE/FAIRFIELD PARLOUR ▲TOP
▲CD
1.カレイドスコープ時代(1963〜1969年) ★ピーター・ダルトレイ、1946年3月25日生まれ。彼のミュージシャンとしての歴史は、彼が17歳のとき、その後のカレイドスコープのメンバーと出会ったことから始まる。 ★63年、ロンドンのABCテレビでフィルム・ライブラリーの仕事をしていたピーターは、ある日、仕事を通じて知り合った仲間から、バンドへの加入を誘われた。彼の名前はエディ・パーマー、バンド名はサイドキックス。ピーターは多少悩んだものの、参加することを決意。その後10年近く一緒に活動する4人組のスタートとなった。エディ・パーマー(G)、スティーブ・クラーク(B)、ダン・ブリッジマン(D)、そしてピーター・ダルトレイ(Vo,Key)の4人である。当時のバンドのほとんどがそうであったように、サイドキックスも、チャック・ベリーやボ・ディドリーといったR&Bをレパートリーにしていた(ストーンズ・ナンバーもプレイしていた)。彼らはデモ・テープを録音し(65年2月10日)、レコード会社にアプローチしてみたが、とくに反応は得られず、パブや米軍基地での演奏に明け暮れる日々が続いた。 ★やがて、ピーターが作詞を始め、エディが作曲をするようになり、レパートリーもオリジナル中心となっていった。65年11月にバンド名をザ・キーと改名した頃には、それまでのR&Bスタイルから、サイケデリックな雰囲気の風変わりなバンドに変身していた。ステージで多量の血液カプセルやスモークを使用したり、曲と曲の間に女の子の詩の朗読を挟んだりと、そのあまりの風変わりさに観客が怒りだし会場から逃げ出すなんてこともあった。 ★ライブ活動のかたわら、ピーターとエディは、いくつもの音楽出版社をまわり歩いた。その努力は報われ、66年6月、フラミンゴ・ミュージックのデイヴ・カーレイが、ザ・キーに興味を示した。デイヴはザ・キーをフォンタナ・レコードのディック・リーフィに紹介し、そして11月11日、彼らはフォンタナ・レコードとついに契約を結んだ。 ★67年4月、シングル用として「Holidaymaker」と「Kaleidoscope」の2曲を録音。ここで彼らはバンド名を再び変えた。新しい名前はカレイドスコープ。43年にLSDを発見したアルバート・ホフマンの言葉からとられている、「強烈な色彩の万華鏡(カレイドスコープ)によって、鮮明かつ柔軟で尋常でない幻想が連続して起こる」それはまさに当時のミュージック・シーンの方向性にぴったりの命名であった。 ★そして、『The Flight From Ashiya』という本からインスパイアされて出来た曲「Flight From Ashiya」を聴いたフォンタナは、契約期間を1年から5年に変更して、アルバムを作りたいと言ってきたのだ。デビュー・シングルが出る前からアルバム契約なんて、当時としては前例のないことなのである。67年9月15日、カレイドスコープのデビュー・シングル「Flight From Ashiya」が、ピクチャー・スリーブ付きでリリースされ、アルバム『Tangerine Dream』も67年11月に発売された。 ★彼らの音楽は玄人筋には高い評価を受けたが、セールスには結びつかなかった。しかし、セカンド・アルバム『Faintly Blowing』を69年4月にリリース。好評だったが、やはりセールス面ではパッとしなかったため、4枚目のシングル「Do It Again Jeffrey」(演奏のほとんどがスタジオ・ミュージシャンによるもの)もかんばしくなく、フォンタナは、他の作曲家の曲を録音するよう強制してきた。そのセッションはあまりにもすてばちな演奏だったので、マネジャーのディックをも激怒させてしまい、もう終焉が近づいているのは明らかだった。結局、7月にリリースされたシングル「Balloon」が、カレイドスコープの最後のレコードとなった。 2.フェアフィールド時代とその後(1969年〜現在) ★69年の夏、BBCラジオ・ワンのDJ、デヴィッド・シモンズが、彼らを呼んでこう言った。「私は今の仕事に飽き飽きしている。ただ机でレコードを回しているだけではなんにもならない。もっとアーティスティックな仕事がしたいんだ。一緒にやらないか」。この提案にピーター達は二つ返事でOKし、彼等は手を組むことになった。ピーター達は、ハンプトンコートのデヴィッドの家に移り住み、そこで曲を書き、演奏し、そして楽しいひと夏を過ごした。 ★心機一転、バンドはフェアフィールド・パーラーと改名。フェアフィールドという言葉は、フェアポート・コンベンションにちなんでつけられ、パーラーとはデヴィッドの家のことを指していた。彼らの作り出す楽曲も、サイケデリック・ポップからフォーク調に変化していった。フェアフィールド・パーラーのマネジャーとなったデヴィッドは、まずフォンタナとの契約を破棄し、新鋭のレコード・レーベル、ヴァーティゴと契約を結んだ。そして、ピーターとエディの書いた曲の中から「Bordeaux Rose」を選び、ファースト・シングルとして70年4月にリリース。 ★70年8月に開催されたイギリス版ウッドストック“ワイト島フェスティバル”のテーマ曲を担当。そのシングルは、変名グループののアイ・ラヴ・ワイト名義でフィリップスから発売された。また、映画『小さな目撃者』のテーマ・ソングも制作している。確かに商業的にはいまひとつ成果がでなかったが、いろんなことに取り組んだこの時期が彼らにとって、一番充実したときであった。そして、その勢いを持って傑作アルバム『From Home To Home』をリリースしている。 ★翌年、次のアルバムの構想にとりかかった。それは、ひとつのストーリーに沿ってアルバムが展開していくロック・オペラ風の作品『White-Faced Lady』だった。71年1月のロイヤル・アルバート・ホールでのペンタングルのサポート公演の直後に始まったレコーディング・セッションは、なんと5月末にまでおよんだ。彼らの集大成的最高傑作である『White-Faced Lady』は、2枚組アルバムという大作となった。しかし、ヴァーティゴからRCAへの移籍に失敗し、バンドはレコード会社との契約を失ってしまったため、この作品は幻と化してしまった。舵を失ったデヴィッドはヨーロッパの米軍基地のツアーに出ようと提案したが、ピーター達はそれを断った。こうしてフェアフィールド・パーラーの短い歴史は幕を閉じたのだった。最後に、彼らは72年にドイツで1回コンサートをして、2曲レコーディングしている。76年にシングル「Bordeaux Rose」が個人レーベルからリイシューされたとき、B面にそのうちの1曲が収録された(もう1曲はビートルズ・ナンバーの「All Together Now」だった)。 ★20年を経た91年に、長い眠りから覚めるように『White-Faced Lady』が突如リリースされた。カレイドスコープはすでに存在しなかったが、ピーター・ダルトレイは、それを機に再び音楽を始めている。 |
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ONE
WAY TICKET ▲TOP
▲CD
★1960年代後半のロンドンは、ロック史上でも類をみないほどの熱気に包まれていた。サイケデリックに包まれた多くのミュージシャンがオリジナルな音楽を創造するために、世界有数のスタジオをめざしてロンドンにやって来ていたのだ。そこではスタジオ・エンジニアがテープによる実験的なサウンドを楽曲に加味するなど、新しい試みを行っていた。ワン・ウェイ・チケットは、その中心に位置した先鋭エンジニアのプロジェクトである。 ★当時のロンドンには大規模なレコーディング・スタジオは10社もなく、そのほとんどが大手レコード会社の傘下に置かれていた。そのなかで、ロンドンの心臓部ウエストエンドに位置するIBCスタジオは、数少ない独立したスタジオで、大手レコード会社系のスタジオにも負けない高い評価を得ていた。キンクス、ストーンズ、スモール・フェイセス、フー、ビー・ジーズなど多くのアーティストがここでレコーディングを行い、ここでアルバムを作った。当時のIBCスタジオでは、2人のエンジニアがそれらのアーティストを担当していた。フーのアルバム「トミー」のエンジニアであるデーモン・リオン・ショウと、ジミヘンのマスターを最初に制作したブライアン・キャロルである。彼ら2人によるプロジェクトがワン・ウェイ・チケットである。 ★彼らはスタジオ・ワークと並行して、「ホームグローン・ミュージック」という音楽制作会社を設立し、アーティストの発掘に努めた。そのなかのひとつであるファクトリーは、わずか2枚のシングルを残したバンドだが、28年たった今でも高い人気を誇っている。また、幻のグループとしてマニアの間で高名なファイブ・デイ・レインは、デーモンとブライアンを中心としたスタジオ・バンドで、1枚のアルバムを制作したが、リリースされることはなかった(両方ともエヴァンジェルからリリース)。その間に多くの曲を書き、独自のアルバムも制作した2人は、エヴァリー・ブラザーズやロイ・オービソンの音楽出版社のアカフ・ローズと契約している。 ★デーモンとブライアンはスタジオにこもり、時間をかけてアルバムを制作していった。ベースラインのアコースティック・ギターから始め、他の楽器を幾重にも重ね、驚くほど複雑なトラック間のミックスを行った。マルチトラックができてからは時間が短縮され、作業も簡単になった。またメロトロンの使用により、ストリングスとブラスの効果も可能になった。 ★ブライアン・キャロルは当時を回想する。「私たちはとても情熱的に仕事をした。デーモンは『トミー』のセッションやステイタス・クォーなどでよく夜通しで働いていた。また、デーモンはマルチプレイヤーで多くの楽器を演奏できた。他のアーティストに時間を費やさなければ、きっと彼自身がビッグ・アーティストになっていただろう。私たちは余暇を南イングランドのワーキングにあるデーモンの家で過ごした。寝室を改造したデモ・スタジオがあり、そこでアイデアを練り、曲を作った。そして、できたデモ・テープをIBCスタジオに持ち帰り、マスター・トラックを作った」 ★70年代後半、それらの一部は1枚のアルバムとしてプレジデント・レーベルからリリースされた。ワン・ウェイ・チケットの『タイム・イズ・ライト』である。このアルバムには2人の作品だけでなく、ホームグローン・ミュージックで制作した他のバンドの演奏もミックスされている。ただし契約の都合で、スリーブには彼らの名前や詳細は記されていない。また、アカフ・ローズの有する未発表曲と未完成のデモからなる新たなアルバムがエヴァンジェル・レコードからリリースされた『ワン・ウェイ・チケット』である。 |
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CLODAGH
SIMONDS/MELLOW CANDLE ▲TOP
▲CD
★メロウ・キャンドルの前身であるザ・ゲートクラッシャーズは、アイルランドのダブリンに近いキリネイという町にあるホーリー・チャイルド修道院に通うクロダー・シモンズ(当時14才)によって、67年に結成されている。スウィンギン・ロンドンの影響でモータウンなどのソウルがチャートを賑わしていたころであり、クロダーもアリスン・オドンネルとマリア・ホワイトの女性3人で第2のシュープリームスを夢見ていた。放課後はヴォーカルの練習、夜はラジオ・ルクセンブルクなどのポップス番組に熱中する毎日を過ごしていたが、やがて、ドノヴァンやサイモン&ガーファンクルなどのカヴァーや自作曲(クロダーは本作に収録されている「ロンリー・マン」を12才のときに作曲している)を学園祭などで演奏するようになり、デモ・テープも制作している。そのテープがラジオ・ルクセンブルクのDJのコリン・ニコルを経由して、ヤードバーズやジョンズ・チルドレンを手がけていたサイモン・ネピアベルに届き、まだ学生だった彼女たちはネピアベルのSNBレコードと契約する。 ★そして、グループ名をメロウ・キャンドルに改め、ネピアベルのプロデュースとイアン・グリーンランドのアレンジでレコーディングした「フィーリング・ハイ/ティー・ウイズ・ザ・サン」(SNB 55-3645)を68年8月にリリースしている(フェアポートの初期の作品と同じように、ネピアベルのカラーが反映されたサイケデリックなポップ・ソングだった)。しかし、ラジオ・ルクセンブルクなどでオン・エアーされたもののセールスにはつながらず、3人はアイルランドに戻ることになる。 ★修道院の学校を卒業後、クロダーはイタリアに留学、マリアは就職、アリスンはブルー・ティントというバンドとナイトクラブやボールルームで歌うというように3人とも別の道を歩みはじめたが、1年後に帰国したクロダーは、アリスンとブルー・ティントでギターを担当していた南アフリカ出身のデヴィッド・ウィリアムスを誘いメロウ・キャンドルを再編している(ベースはパット・モリス)。いままでのヴォーカル・グループから脱皮し、フォークを基盤にしたバンド・サウンドを目指そうというものだった。美しいピアノの旋律に澄んだヴォーカルが響く哀愁に満ちたサウンド、トラッドやフォークの手法を用いりながらプログレッシヴな尖鋭さを感じさせるスタイルなど、本作で聴けるコンテンポラリー・フォークのバンド・アンサブルはこの時期に確立されたわけである。また、このときのリハーサルの音源は、95年にCD『ザ・ヴァージン・プロフェット』(Kissing Spell KSCD9520)としてリリースされている(本作に含まれる10曲の元曲を収録)。 ★バンドとして成熟したメロウ・キャンドルは、チーフタンズの前座をはじめ、プリンシパル・エドワーズ・マジック・シアターやティア・ナ・ノグらとウェックスフォード・フェスティヴァルに出演するなど精力的に活動し、ライヴ・バンドとしての実力と自信をつけた。そして、テッド・キャロル(メロウ・キャンドルが所属しているツート・バーデン・キャロル・エージェンシーの社長)の企画したツアーにウッズ・バンド(スティーライ・スパンのオリジナル・メンバーだったゲイ・アンド・テリー・ウッズのグループ)との共演があり、それが幸運にもデッカとの契約に繋がった。71年4月18日のことである(契約前のデモ・セッションには、ドラムスにキャラヴァンのリチャード・コーフランがあたっている)。ドラムス不在のメンバーを強化するために、ベースのパット・モリスをクリエイチャーズというグループにいたフランク・ボイランに交代、ドラムスにケヴィン・エアーズのホール・ワールドにも参加したことのあるウィリアム・マーレーを迎え、72年4月、デヴィッド・ヒッチコックのプロデュースによるアルバム『スワッディング・ソングス』(Deram SDL 7)とシングル「シルヴァー・ソング/ダン・ザ・ウイング」(Deram DM 357、プロモ盤はピクチャー・スリーブつき)をリリース。 ★しかし、リンディスファーンやスティーライ・スパンとのツアーを成功させ、音楽的にも大きな成長を遂げたようにみえたメロウ・キャンドルも、その成果を売上に結びつけることができず、デラムとテッド・キャロルの契約が解消されてしまう。すぐにフランク・ボイランが脱退、代わりにスパイロジャイラにいたスティーヴ・ボリルが加入。心機一転、グループ名をグレース・ビフォー・スペースに変更し再起を賭けたが73年に解散。メロウ・キャンドルの短い歴史が閉じてしまう。 ★解散後、アリスンとデヴィッド・ウィリアムスは、南アフリカに移りフリバーティギベットを結成。78年にアルバム『ホィッスリング・ジグス・トゥ・ザ・ムーン』(Stanyan)をリリース。現在、アリスンはイギリスに住み、デヴィッド・ウィリアムスはケープタウンでレコード・プロデューサーをしている。 ★一方、クロダーは、マイク・オールドフィールドのアルバム『ハージェスト・リッジ』などでヴォーカルを担当、ゲール語の詩を提供するなどマイクの音楽活動に協力していたが、76年にはウィリアム・マーレーとともにニューヨークに移り、フィリップ・グラスが主催する現代音楽のパフォーマンスやカート・ハンカッシの実験音声学のアルバムに参加している(ウィリアム・マーレーは、それまでリチャード・アンド・リンダ・トンプソンのサワー・グレープス・バンドやサンディ・デニーなどに参加していたが、ファッション・カメラマンに転向)。79年、ウィリアム・マーレーとともにザ・セイムを結成し、フランス語、アラビア語、スワヒリ語、ラテン語によるシリーズ作品をレパートリーにニューヨークのCBGBやマッド・クラブのレギュラーを獲得。また、この時期にマシュウ・マギアの演劇曲『古代ギリシャのシックス・ヴォイス』も作曲している。しかし、作曲法と理論を基礎から習得するため86年にニューヨークからロンドンに移り、音声学をデヴィッド・ハイクに、ペルシャ音楽をゴーラ・フセインに師事、また、イーノの紹介でジョン・ボナーと一緒にオーケストレーションと作曲学を学んでいる。 ★そして、96年には日本のみ発売のミニ・アルバム『シックス・エレメンタリー・ソングス(バンシー・ボイス)』(エヴァンジェルEV.004)をトム・ニューマンのプロデュースで制作。これは70年代から作曲していたフォーク・ソングを現代音楽風に再アレンジしたクロダーの集大成といえるアルバムだった。現在は、アイルランド文化の普及活動に従事するかたわら、作曲に勤しんでいる。 |
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GORDON
HASKELL ▲TOP
▲CD
★キング・クリムゾンへの参加で知られるゴードン・ハスケルは、クリムゾンでは、グレッグ・レイクの後任として『ポセイドンのめざめ』の発表まぎわに正式加入し、アルバム『リザード』でヴォーカルとベースを担当していた人物だ。 ★ゴードン・ハスケル、1946年4月27日、イギリス南部のボーンマスはドーセット生まれ。クリムゾンのロバート・フリップとは同郷で14歳のころから2人は仲がよかったという。64年にロバート・フリップ(当時18歳)とともにRAVENS(レイヴンズ)というグループを結成していた。翌65年8月にグループは、THE LEAGUE OF GENTLEMEN(ザ・リーグ・オブ・ジェントルメン)にシフト。このときのメンバーはゴードン・ハスケルとロバート・フリップを含む6人組だったが、ティノ・ルシニオ、レッグ・マシューズ、スタン・レヴィ、トニー・ヘッドらが流動的に参加していたらしい。当時は、ゴードン・ハスケルの音楽的嗜好を反映した黒人ソウル系のサウンドを追求しており、アメリカのソウル・シンガーのバックも努めていたようだ。もっぱら地元のダンス・ホールで人気を博したというから、のちのクリムゾンとはまるで性格を異にしていたバンドであった。 ★66年、ハスケルは、FLEUR DE LYS(フラ・デ・リーズ)というビート・バンドに参加。オーティス・レディングなどのスタックス系とタムラ・モータウン系のサウンドを目指す。同年、イミディエイトと契約し、シングル「サークルズ」でデビュー。フラ・デ・リーズは、自らシングルをリリースするだけでなく、オーティス・レディングをはじめ多くの渡英ミュージシャンのバックも務めている。また、国内のシャロン・タンディやジョン・ボロムリーなどのバックや変名バンドも数多くこなしている。 ★ 69年に売れ筋グループのキューピッズ・インスピレーションにリクルートするためにフラ・デ・リーズを脱退。しかし、キューピッズがすぐに空中分解したため。ファースト・ソロ・アルバムの『セイル・イン・マイ・ボート』のレコーディングに取りかかっている。このアルバムは、フラ・デ・リーズのフリーク・ビートとは、まったく異なるジェントルで優しいものであった。しかし、CBSから69年にリリースされるも、プレス枚数が少なく、チャートに載ることなく消えてしまった(シングルも2枚リリース)。そのため、現在は高額なプレミアがついた激レア・アイテムになっている。 ★翌70年にロバート・フリップに誘われ、クリムゾンに加入。『ポセイドンのめざめ』と『リザード』に参加したのち、フリップと喧嘩別れしている。あまり評価されていないが、『リザード』のドラマティックで幻想的な雰囲気づくりの功労人がハスケルであろう。 ★72年にセカンド・アルバムの『イット・イズ・アンド・イット・イズント』をリリース。旧友、ジョン・ウェットンやアラン・バリーらが参加したこの作品は、わずか2日間でレコーディングされたものだが、いかにも英国的でファンタジックなアルバムに仕上がっている。その後、スタックリッジに参加したり、後期フラ・デ・リーズのギタリスト兼ヴォーカリストであったブリン・ハワースの73年のソロ・アルバム『レット・ザ・デイ・ゴー・バイ』などに参加している。ハワースもハスケルと同郷のミュージシャンで、今も交遊は続いているわけだが、ハスケルは、76年ころのブリン・ハワースのバックバンドを加藤ヒロシ、ジム・ラッセル(ドラムス)らと結成している。このブリン・ハワース・バンドがハワースのもとを離れ、やがてジョーというディスコ・バンドに発展。GTOレコードからシングルをリリースしている。ちなみに山口百恵の77年ロンドン録音の『GOLDEN FLIGHT』でも、ハスケルがベースとバック・ヴォーカルを担当し、ジョーの加藤ヒロシもプロデュースや編曲を手がけ、ジム・ラッセルもドラムスをプレイしていた。77年には、同メンバーで、グラフィティ・ハウス・バンド名義の日本のみのディスコ・アルバム『ザ・ゴールデン・ツイスト・パーティ』をリリースしている。 ★そして、79年にサード・アルバムの『サーヴ・アット・ルーム・テンパレイチャー』を制作。しかし、プロデューサーとレコード会社とのトラブルから未発表に終わっている(のちにエヴァンジェルからリリース)。幻となったサード・アルバムであるが、ここには、セカンドで見せたあの優しくて、あたたかい彼のヴォーカルとサウンドが、詰まっている。 ★80年代は、活躍のニュースを聞くことができなかったが、90年代に入って、アルバムをリリースするなど、コンスタントに音楽活動を開始している。地元のクラブでは毎週のように、精力的にギグを行っている。 |
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ELITE ▲TOP
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★エリートの物語はペンブロークシャーの地に始まる。ウェールズ南西部にある景色のよい海岸線と自然美で名高いこの地域には、常に強力なフォーク・シーンが存在していた。1970年代初期に最もにぎわっていたフォーク・クラブは、ペンブロークにあったコーチ・ハウスとその近くにあったネイランドの2軒。エリートのリーダー格となるリチャード・アスクウィズは、昼間は銀行で働き、夜はこれらのクラブに定期的に出演しながらギター・テクニックとソングライティングの技術を磨いていた。やがて、リチャードはコーチ・ハウスで同胞のパフォーマー、ペイト・ブリントンに出会う。互いの音楽性の共通点や音楽にかける熱望を認め合った彼らは、早速親交を結んだ。 ★75年、年に一回開かれるメロディ・メイカー・ロック・コンテストにエントリーしたペイトは、ステージに一緒に立たないか、とリチャードに声をかける。しかし、銀行での仕事があったため、リチャードはこの申し出をやむなく断った。同郷のミュージシャン、ジョニー・オルダースンと共にコンテストに出場したペイトは決勝戦まで進んだものの、ほんのわずかな差で優勝を逃してしまうが、コンテストの反響を受けて、“ウィスパリング”ボブ・ハリスがペイトにBBCオールド・グレイ・ウィッスル・テスト・ツアーへの参加を呼びかけた。これによりペイトはその年の半分をUKの反対側で過ごすことになっている。一方、ペンブロークシャーにいたリチャードは、エレクトリック・ピアノをはじめ新しい器材を購入し、ロブ・スターキーとデュオを結成して活動しはじめた。ロブはカントリー・フォークというバンドにも参加していた。そのバンドのキーボード・プレーヤーが後にエリートのキーボードを担当するスティーヴ・トーマスである。 ★リチャードとロブのデュオは、半年ほど定期的にギグを行った後に解散。リチャードとペイトが、とあるフォーク・クラブで再会したのは丁度その頃だ。ふたりは再びバンド結成について話をする。今度こそ、タイミングは正しいように思われた。かつてデュオを組んでいた古いパートナー、ロブ・スターキーが参加していたカントリー・フォークのキーボーディスト、スティーヴ・トーマスが加わり、ようやくエリートの基本的なラインナップが整った。77年のジュビリー・デイ、エリート・サウンドの誕生である。彼らは、数ヵ月の間トリオとして活動していたが、ドラマーのマイク・グリフィスを加えて、翌年にエリートのフル・ラインナップを完成させている。 ★以降、昼間の仕事を辞めた彼らはバンド活動に専念し、キャリアを積み重ねた。6年間に渡る活動の中で、エリートは自主レーベルL&Sから2枚のアルバムとシングルをリリースしている。はじめの4年間は、目の回るようなスケジュールだった。彼らは、シーズン中はリゾート地で、秋から冬の間はカーディフからロンダにかけての南部の商業地域で演奏するといったように、ウェールズに限定して活動するポリシーを貫き通した。ラジオ、テレビへのライヴ出演は数えきれない。82年にはミルフォード・ヘイヴンにあるトーチ・シアターで上演されたロック・ミュージカル『ゴッドスペル』のハウスバンドを務め、万能の音楽集団としての力を存分に発揮している。しかし、83年9月30日、最初の公式のギグ(トリオとして)を行ったソーンダーズフットにあるグレン・ビーチ・ホテルでの解散ギグを最後に、エリートはその歴史の幕を閉じた。 ★エリートの1stアルバム『ANY PORT IN A STORM』のオリジナル・リリースは79年。A面はヘレフォードのチャペル・レーン・スタジオ(ウェールズとイングランドの境界線を越えてすぐのところにある小さなインディーズ・スタジオで、同年にリリースされたラ・ラ・ラプラの強烈なヘヴィ・ロック・アルバム『Seathrough』をはじめ、多数の魅力的なプライヴェート盤を輩出している)で録音された。一方、B面は、驚くべきことにソーンダースフットにあったペイト・ブリントンのアパートの中に作られた小さな自家制の4トラック・スタジオで制作された。1stシングルは、アルバムに収録されている「Take Away」と「Part of My Life」のカップリング。2ndシングルには、アルバム未収録の「Money Talks」であった。 ★解散後、各メンバーはそれぞれ別々の道を辿った。ペイト・ブリントンはラジオ業界で成功を納め、地元のネットワークで4つ以上のレギュラー番組を持つほどになる。スティーヴ・トーマスは“自分の一番好きなことをするため”に音楽の世界から退き、マーク・ヴィンセントはコンピューターの分野で自分のキャリアを極めようとイングランドに戻った。リチャード・アスクウィズは自分のレコーディング・スタジオを設立し、多岐のジャンルに渡って多数のアーティストをプロデュースした。彼は音楽教師、レコーディング・エンジニア、プロデューサー、またソロ・アーティストとして、現在も活躍している。ソロCD『The Day War Broke Out』(95年発表。エリートの作詞担当、ジェフ・ダンとの共作)をはじめ、数多くのプロジェクトを手掛けている。 |
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▲CD ★ジャスト・アザーズの結成は、1973年9月、ジェフ・トゥイッグとブライアン・ロジャーズが、ケント州メイドストーンにあるフランク・テレンジーズ・ミュージック・ショップで出会ったことから始まる。2人は、すぐに意気投合し、わずか7日後には、一緒にギグを行っている。それまでは、ジェフは、ウィンドラッシュというティーンエイジ・バンド(アルバムもリリース。本作に収録されている曲の元曲が聴ける)を始め、ペニー・コナーとのデュオ、コンコード・シンガーズのメンバー、ケントの地元合唱団などで活動していた、一方、ブライアンも、バッカスなどのフォーク・ロック・バンドやソロ・フォーク・シンガーとして活動していた。 ★ジェフがもっとも影響を受けたのは、レノン&マッカートニー、ポール・サイモン、メラニー、ジュディ・コリンズ、ジョニ・ミッチェルなどのシンガー・ソングライター、また、対照的にクラシック・ギターへの深い関心もあったようだ。ブライアンが熱中していたのは当時のブリティッシュ・フォーク・シーンで、ラルフ・マクテル、フェアポート・コンベンション、ペンタングル、スティーライ・スパン、ティア・ナ・ノグ、ジョン・レンボーン、ジョン・ジェームスなどであった。ジャスト・アザーズの比類なき音楽性のブレンドは、彼等の多様な音楽への好奇心とそれまでの長い音楽経験によるものだったのだ。 ★ジャスト・アザーズは、当時、主にイングランド南東周辺のフォークの盛んな土地で演奏していたが、やがてフェイヴァーシャム・フォーク・クラブを拠点に活躍するようになり、恒例のメロディー・メーカー誌のコンテストにも参加している。そして、アルバム『アマルガム』をレコーディング。74年の夏に250枚だけプレスし、ギグで売っている。そのため、現在では入手が難しく、もっともレアなアルバムのひとつになっている。また当時、セカンド・アルバムのために書かれた曲も多くあったが、クリサリスやロケットなどのレコード会社が正式に交渉してきたものの契約に至らなかった。 ★同年末、彼等は個々のキャリアを追求するために、ジャスト・アザーズを解散させている。その後、ジェフは、巡回音楽教師として働き、ギルドホル音楽演劇学校とキングス・カレッジで作曲法の学位を習得。現在は、米国で教会の音楽ディレクターの仕事をしている。ブライアンは、アート・デザインとテクノロジーの常任教師の道を選んでいる。そして、86年に大学へ戻り、93年にはオーストラリアで教鞭を取りつつ音楽活動も再開。翌年、英国へ帰国し、ソロ活動に入った。最近では、ベマード・クェンビーとのデュオであるノー・ヴァカンシーズを結成。このデュオは、ラグタイム、ブルース、フォークなど幅広く演奏し、ジャスト・アザーズ時代の「Close Your Eyes To The Sun」なども歌っている。 |
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FACTORY ▲TOP
▲CD
★ファクトリーは、サリー州でスーヴェニア・バッジ・ファクトリーとして活動していたアマチュア・グループだったが、IBCスタジオのエンジニアをしていたブライアン・キャロルとの出会いをきっかけにプロ・バンドとしてロンドンに進出。グループ名も短くザ・ファクトリーに替えている。メンバーは、ギターのイアン・オーツ(17才)、ドラムスのビル・マクリード(16才)、そしてベースとヴォーカルのジャック・ブランド(21才)の3人。69年までにフリーキーなハード・サイケと夢見るサイケ・ポップの2面性を生かした2枚のシングルをリリースしている。しかし、この2枚のシングルが一部で高い評価を得たものの売上につながらず、自然消滅してしまう。 ★現在、メンバーは音楽業界から離れた人生を歩んでいるようだが、イアン・オーツは知識とスキルを生かして楽器店を経営している。また、ファクトリーに曲を提供しているジョン・パントリーは、ブライアン・キャロルのエンジニア仲間であり、自らもノーマン・コンクエストやピーター・アンド・ウルヴス名義でシングルをリリースしている業界のヴェテラン・シンガー・ソングライターである。70年代にはソロ・アルバムをリリースし、シンガーとしても活躍している。 |
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FIVE
DAY RAIN ▲TOP
▲CD
★ファイヴ・デイ・レインは、グレアム・メイトランドとIBCスタジオの2人のエンジニア(ブライアン・キャロルとデーモン・リオン・ショー)の3人によるプロジェクト・グループである。それ以外のメンバーは名うてのスタジオ・ミュージシャンで固めている。もっともデーモン・リオン・ショーもすべての楽器をこなす有能なマルチ・スタジオ・ミュージシャンなのだが(同時期に制作していたワン・ウェイ・チケットのアルバムの演奏を1人で担当している)。 ★グレアム・メイトランドも、スコットランド出身のザ・スコッツ・オブ・セント・ジェイムズ(以下、ザ・スコッツ)で66年にデビューし、ホップスコッチなどの尖鋭グループを率いていたヴェテランだ。つまり、ファイヴ・デイ・レインは経験と才能溢れるプロのミュージシャン集団ということになる。プログレッシヴで複雑な楽曲を上手くまとめ上げているセンスは経験に裏打ちされたものだったのだ。 ★また、ザ・スコッツのメンバーには、ドラムスのスチュアート・フランシス(のちフォーエヴァー・モア、グレンコなど)、ギターのオーウェン・マッキンタイア(別名オニー・マイア。ティア・ガスやアレックス・ハーヴェイ・バンドのテッド・マッケンナがいたドリーム・ポリス、フォーエヴァー・モア、アヴェレイジ・ホワイト・バンドなどに参加)、そして66年に「バッド・ニュース・フィーリング」でデビューしたザ・ヴァイキングスにいたベースのアラン・ゴリー(のちフォーエヴァー・モア、グレンコなど)がおり、後年、開花するスコットランド・パワーの人脈が見て取れて興味深い。 ★さらに、グレアム・メイトランドは、ザ・スコッツのヴォーカルをハミッシュ・スチュアート(のちドリーム・ポリス、アヴェレイジ・ホワイト・バンドなど)に入れ代えてホップスコッチとして活動し、ザ・スコッツとホップスコッチでそれぞれ2枚のシングルをリリースし、その後、ファイヴ・デイ・レインに参加している(残りのメンバーは69年にフォーエヴァー・モアを結成。カンタベリー系ジャズの雰囲気をもつリフや複雑な印象を与える楽曲を含むカントリーなアルバムを2枚制作)。 ★ファイヴ・デイ・レインには、前述の3人のほかに、ドラムスのキム、ギターのリック・シャープ、ベースのクライヴ・バージェス、そして2人目のギターのジョン・ホールブロックが協力している。ブライアン・キャロルの熱い夢の実現に向けて強者が集い、準備万全で出航したエンタープライズがファイヴ・デイ・レインだった。しかし、アルバム・リリース寸前にグレアム・メイトランドが旧友のスチュアート・フランシス(ドラムス)とともにグレンコを結成するために脱退。呆気なく、夢が泡と消え失せた。グレンコには、スキップ・ビファティやアークのジョン・ターンブル(ギター)とリヴィング・デイライトやグレーテスト・ショー・オン・アースのノーマン・ワット・ロイ(ベース)が在籍し、この4人のメンバーでアルバムを2枚リリースしている。グレンコ解散後、グレアム・メイトランドはブリン・ハワースなどのアルバムに参加していたが、その後の消息は不明。残りのジョン・ターンブルとノーマン・ワット・ロイは盟友のミック・ギャラガー(キーボード。もとスキップ・ビファティ、アーク)とチャーリー・チャールズ(ドラムス)を誘いラヴィング・アウェアネスを結成、その後イアン・デューリーのザ・ブロックヘッズに発展している。 |
CD DETAIL
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PPETER
DALTREY/ENGLISH ROSES ▲BIO
▲CD
▲TOP ★Songs
Dust Richard and I Nothing more than this 251 Menlove Avenue Eighteen Summers Faye Goes Dreaming Fitzgerald The Hall of Mirrors Dream On Roundway Hill English Roses The Unicorn |
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ONE
WAY TICKET ▲BIO ▲CD
▲TOP ★Songs |
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PETER
DALTREY/WHEN WE WERE INDIANS ▲BIO
▲CD
▲TOP ★Songs |
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CLODAGH
SIMONDS/SIX ELEMENTARY SONGS ▲BIO
▲CD
▲TOP
★Songs |
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GORDON
HASKELL/SERVE AT ROOM TEMPERATURE ▲BIO
▲CD
▲TOP ★Songs |
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ELITE/ANY
PORT IN A STORM ▲BIO
▲CD
▲TOP ★Songs |
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JUST
OTHERS/AMALGAM ▲BIO ▲CD
▲TOP ★Songs
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FACTORY ▲BIO
+ FIVE DAY RAIN/COMPLETE ALBUM ▲BIO ▲CD
▲TOP ★Songs
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