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肴噺・魚編.5
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イワシは、海面が紫色になるほどの大群で回遊するが、酸素を大量に必要とする魚であ
るから水面にもり上がって泳ぎ、大きいイワシは鯨などに、小さいイワシは鰹などに追わ
れて来るので漁業の目標にされるし、水揚されると忽ち死ぬ弱い魚という意味で、日本で
は魚偏に弱と書く国字を作ったが、鰮と書いてイワシと訓む理由は明白でない。
鰯は、マイワシ、ウルメイワシ、カタクチイワシに大別され、稚魚はコペラ、成長する
とイワシ、またはオガラともいい、体型の大小で大羽、中羽とよぶこともある。
マイワシは、他の鰯に比べて魚体が平たいのでヒライワシともよび、頼戸内海ではヒラ
ゴという。また横腹に青黒い斑点が七個あるので関東では「七つ星」ともいう。腹の内側
が黒いのは、ウルメイワシの皮の内面が白いのと対照的である。
ウルメイワシの名前は、脂瞼という目蓋のため眼が潤んで見えるから命名されたもの
で、達磨鰯、目黒などの異称がある。脂肪が少なく味が淡白であるから、開き、丸干、薩
摩揚などに加工されている。
片口鰯は背黒鰯ともよばれ、上顎が長くて下覇が短い。この魚は鮮度がおちると急速に
不味くなるので飼肥料にすることが多い。しかし戦後の日本における飼料業界は、国内の
魚粉生産量が減少していたのに反し、需要が激増したので、昭和三十三年からぺルーの
アンチョベ(北欧ではアンチョビという)を輸入することになったが、この魚は片口鰯の
一種である。
片口鰯は乾燥して稲作に施肥すれば豊作になったので、人間も食べれば子供を多産でき
ると考え、小型の乾魚を田作、五万米、または小殿原(若殿達といぅ意味の女房語)など
とよび、軽輩の身分で年長者や上司の人たちの仲間に入ることを「ゴマメの魚交り」とい
うが、五万米は歯が丈夫でないと噛み切れないことから、能力がないのにいきり立つ動作
を「ゴマメの歯軋り」という。五万米を古女と書いたものあったが、これは頑固で旧弊の
老女で煮ても焼いても食えないという意味かも知れない。
ヒシコ(略してシコともいう)は生物学では別種だというが、世人は小型の片口鰯だと
思っている。これを魚是と書くのは是でも魚だという意味であろうか。
何の気で出るか木曾路のいわし雲
元日はおひえにどまめのせて出し
鰯雲とは鯖雲、鱗雲ともいわれる巻層雲の
異称であるが、この雲が秋空に現われると、漁師は鰯や鯖の大群が来る前兆であると喜ぶ
けれど、山国の木曾路に出る鰯雲にはどんな意味があるのやら。思い出すのは留守をして
いる妻子の顔だけである。
元日は餅を食べる日なのでおひえ(冷飯)しかないから飯を食べる人には五万米を出す
今夜出た雲はあしたはぬたになり
どまめのはぎしりひしこがぬたになり
焚きつけろやいと鰮の首をもぎ
魚是売伏見町から河岸へ抜け
鰯雲が出たので明日は饅(ヌタ)の馳走にありつけるわけだが、貧乏人は歯軋りしても
安い鰯で我慢するほかない。風呂を焚きつけながら晩飯の仕度をしろと怒鳴ったものの、
鰮は富原でも伏見町から百文河岸の最下級の店だけが買う安い小魚だから自慢の出来ない
饅であると苦笑した。
海荒れて膳に上るは鰯かな 虚子
安けれど鰯は空にあらわれる
ごまめでも済むと鰯を安くつけ
やったらに升をせっつくひしこ売
「鰯も七度洗えば鯛の味」といわれるし、煮る時に梅干を入れれば臭気も消え味もよくな
るのに、この料理法を知らぬため下賤の魚と思っていたので、卑しいが訛ってイワシとよ
んだとの説もあるが、値段が安くて美味だから大衆に人気があり、魚河岸では、アジ、イ
ワシ、サバをサカナの御三家とよんでいる。
安い魚だが高い空に雲が出て前触れをして市場に現われるから、「西が焼ける(夕暁)
と鰯が漁れる」とか、「西の空に赤雲見えれば鰯がとれる」という俗諺もあって、漁師は
空を眺めて豊漁を予知してきた。値をつける時に女房たちが「ゴマメで我慢する」と強気
に出れば、魚屋は升をせっつく(忙しく)動かして分量を胡魔化すことを考えていた。
切腹は人には見せぬいわし売
お内儀の手をおんのけるいわし売
気のまよいさと取返るいわし売
ごまめ売猫に一世軽薄し
生マいわし見切りに売って水をまき
鰯は水揚すると忽ち鮮度が落ち、目は赤く爛れ飯が黒ずんで鱗が剥がれやすく腹が切れ
るので、後段で述べる赤鰯の語源にもなった。だから魚屋は腹が見えないようにするの
に、お内儀(町家の女房)の弄くる手を払いのけ、苦情をいうと気の迷いだといいながら
取換えてやり、猫にゴマメ一尾を軽薄(進呈)して見切り(捨て値)に売ってしまうと、
魚臭が残らないよう水を撒いて帰って行く。
魚屋が「イワシコ、イワシコ1」と威勢よく呼び売りして行く後から、篩屋が「フルイ、
フルイ」と触れて来るので魚屋が怒ったという小噺も鰯の鮮度を自慢していたことを物語っ
た証拠であろう。
おほそと呼んで長屋でにくまれる
添乳して棚に鰯が御座りやす
百まけて下女はどまめをくっている
上流家庭の婦人は、尾が細い魚なので鰯をオホソというが、長屋の嬶の分際でオホソと
いえば山の神たちから村八分にされるのは当然で、添乳しながら棚に煽があると威張って
いる女房の方が頼もしい。下女は鰯が買えないからゴマメを百文に負けさせ食べていた。
まゐらぬはなしと鰯をへらず口
清僧も廟の鍋はのぞくなり
鰯焼く姑に嫁はへきえきし
女房語で鰯をオムラとよぶ語源は、醒睡笑によれば、鮎を古代にアイとよんだことから
鮎を藍に譬えて、藍より高貴な色という意味でお紫と呼んだとあるが、これは鰯が群れる
と海面が紫色になるからだとする説もある。いずれにせよ、紫式部の名前には関係はない。
室町時代の猿源氏草紙によると、和泉式部が好物の鰯を食べていると、夫の丹後の国守
・藤原保昌(袴垂保輔の兄)が不意に帰宅した。式部は下賤の魚を食べておると言われる
のが嫌さにあわててかくしたが、保昌が不審に思って「何をかくした?」と訊ねると、式
部は即座に「日の本はいははれ給ふいはしみず、まゐらぬ人はあらじとぞ思ふ」と、岩清
水八幡宮の御神徳を讃えた古歌で答えたので、保昌は式部の文才に驚いて「鰯は女の肌
を温めて顔の艶をよくする美容食である」と逆に宥めたとある。
ところがこの話は川柳などでは紫式部と夫の藤原左衛門佐宣孝の問答とされており、和
歌も「日の本にはやらせ給ふいはしみず、まゐらぬ人はあらじとぞ思ふ」となっているか
ら、石山寺で「源氏物語」を書きながら鰯を食べていたと想像され、清僧(五戒を堅持す
る僧)も仏罰を心配しながら鍋を覗いたという。しかし嫁は姑の焼く鰯の匂いに辟易(尻
ごみ)したとは鮮度のおちた鰯を焼いたのであろう。
銭の歴史によると、一升の米が十文前後であった天正年間(一五七三〜九二)に、鰯は
七十五尾で三十五文であったという。
その頃に、常陸国真壁郡の郡司をしていた真壁氏朝が食事をしていると、武蔵国豊島郡
から女婿の梅原美濃守が訪ねて来たので氏朝はあわてて鰯をかくした。このあわてた氏朝
の動作を理解できない家臣が後日に理由を訊ねると、氏朝は「食事まで倹約して勇士と武
器を集めている梶原が、もし拙者が鰯を食べていたと知ったら武士にあるまじき贅沢な所
業だと嘲うであろう」と語った。
弱い魚強い御運の上へつみ
世を肥す君を下夕荷に干鰯舟
主従も伏見で舟の一夜すし
長き世の御運干鰯の宝舟
干鰯舟そこの所に気がつかず
天の加護漢の井戸和の干鰯舟
織田信長が武田討滅に協力した返礼として徳川家康を安土城に招待したので、家康は天
正十年(一五八二)五月十四日安土に伺候し、饗応役の明智光秀の優遇を受けたのち、
二十一日京都に入り奈良・大坂を見物して、の茶屋四郎次郎(徳川家の御用商人)と本多
平八郎忠勝があわただしく駆け付け信長の凶変を伝えた。
しかし家康は警護の従臣も少ない上、途中に家康の行動を窺っている者がいたことを察
知していたので、伏見に向かい小舟で一夜を明かしたものの、近江には入れないため、忍
者や乱破(無頼漢)が来襲したらば金銀を与えて手懐けよと命じて、伊賀の山中を跋渉し
てようやく伊勢白子の浜にたどり着いたが、すでに織田信孝が四国征討に備えて小舟まで
徴発した後なので三河に渡ることができず、困惑していると、白子の小川孫三なる者が現
われて家康主従を小舟に鰯詰めにし常滑まで送ったから無事帰城できた。
家康にとっては元亀三年(一五七二)の三方ヶ原との敗戦と、元和元年(一六一五)の
真田事村の茶臼山奇襲とともに世にいう権現さまの三度の御難であった。川柳は、本多忠
勝が「万民を肥やす(治める)尊い身分なれば暫く我慢されたい」といい、誰もがそこ
(底)まで気がつかない干鰯舟(肥料にする干鰯を運ぶ舟)の底にかくして危難を免れた
ことを詠んだ句である。漢(中国)には舜が継母に井戸に生埋めにされようとした時、匿
れ穴を作って脱出した故事があるので、川柳は漢の井戸と和(日本)の干鰯舟は好一対の
天の加護だと詠んだ。
柊も鰯も袖のふりあはせ
節分の門の門口海と山をなし
かぐ鼻を呼んで閻魔は鯖を買ひ
弱い魚でも頭には鬼も怖ぢ
日本では節分に、寒中の雪を溶かす精気をもつといわれる柊の枝に名吉(ボラ)の頭を
刺し、道祖神(村の入口で悪魔の侵入を防衛している神)に供え、住民の無病息災を祈る
風習があった。ところが平安朝の頃に、節分の日に鬼門(東北)の方角から嗅鼻と名乗る
鬼が都に潜入し、人間の素行を嗅ぎ廻って、閻魔に讒訴し、災難をもってくるという流言
が広まった。そこで、人々は閻魔が嫌う棘のある木と、鬼が嫌う魚の臭気で悪魔を撃退し
ょうと考え、柊の枝に匂いの強い鰯の頭を刺して門口に立てることにした。これが「鰯の
頭も信心から」という諺の由来である。
このため、節分が近づくと「一町へ鰯柊後ゃ先」という川柳のとおり、海と山の物(鰯
と柊)を売る人の袖がさわるほど都に集まってきて山のように積み上げた。とは知らず、
都に出かけて行く鬼に閻魔は「土産に京都で名物の鯖を買って来い」と命じたという。
このように魚を飾って災難を免れようとする信仰の一つに魚の注連飾りという風習が東
北地方にある。これは正月に竈の前に注連縄を張り、これに魚を結びつけ一家の無病息災
を祈る呪いとするのだが、これに用いる魚はアナゴ、サケ、タラ、ハゼ、メヌケなどで、
家格の高い家はど大きい魚を吊すのを自慢にしていたそうだ。
節分の鬼切丸はあかいわし
鰯丸引っこぬいている二合半
本阿彌は鰯は見れど鯨見ず
猫も歯のたたぬ棺の赤鰯
源頼光が大江山で酒呑童子を退治した名刀を鬼切丸と名付けたので、これをもじって赤
く錆た刀を鰯丸とよんだ。また錆刀は腐った鰯の色に似ているので赤鰯ともよんだ。居酒
屋で二合半の酒を飲み逃げしようと脅しに刀を抜いたが赤鰯であったから大笑い。
赤鰯とはいえ、手入れが悪いために錆びている名刀もあるので、本阿彌(刀剣鑑定家の
家元)は依頼があれば赤鰯でも鑑定に応ずるが、鯨(木刀や竹光に銀紙を貼った芝居で用
いる鯨身とよぶ擬刀の略称)は鑑定したことはないという。
また昔から死骸に猫が近寄ると、死人が踊り出すという迷信があるので、棺の上に刃物
を置くが、これは鰯とはいえ猫も食えまい。
くわせたり食ったり蛸と赤鰯
嗅ぎに来た犬に鰯を喰らわせる
一力で犬に食はせた赤鰯
蛸の意趣鰯で晴らす心地よさ
家老職心はさびぬ赤鰯
仮名手本忠臣蔵七段目「祇園一力茶屋の場」で、城代家老の大星由良之助に蛸を食わた
斧九太夫が犬(密偵)であることを見破られて大星に斬られる場面を詠んだ句である。
大網のさきがいわしの九十九里
下女が兄ほしか二俵のどらをうつ
千葉県大網町の東から犬吠崎に続く海岸は九十九里浜とよばれ、生鰯や干鰯の生産地で
あったから鰯寄る浦ともいわれた。この土地が栄えた由来は、元和年間(一六一五〜二四)
に片岡源右衛門が地引網(大網)を発明したからであるが、漁村なので生活水準が低く江
戸で働く下女の供給地であった。その兄も銅鑼をうつ(鉦を撞くを金を尽くにかけた洒落
言葉で、放蕩をすること)には干鰯を二俵売って遊興費にあてていたという。
鰯が豊漁の時は利根川を利用して両毛地方(栃木や群馬)にまで移出していたが、漁民
に眼病(鰯の眼が爛れたようなトラコーマ)が多いのは鰯を漁ったり、食べたりする祟り
だという迷信があったので、今でも眼を患うと足利市の鉾阿寺に鰯を画いた絵馬を納めて
平癒を祈願する風習が続いている。
鰯煮た鍋で髪置三つ食ひ
鰯煮た鍋ょと傘を横にさし
鰯寄る浦へ息子ぽいこくり
鰯煮た鍋へ片身の鯨帯
伊予染のやうに月夜の鰯雲
思い出し母かき曇るいわし雲
後の月生きた鰯で飲んで居る
鰯煮た鍋もあつまる百年忌
生ぐさい鍋もあつまる百年忌
昔から子供の成育を祈る七五三という祝儀がある。先ず三歳になると髪置といって男女
とも髪を延ばし始める。男児は五歳になると袴着といい袴を着用する。女児は七歳になる
と帯解と称し付け紐を取って帯を締めさせる。この三つの祝儀を「七五三」といい十一
月十五日(七五三を合計すると十五になる)に社寺に参詣して成長を祝福するのである。
ところで、川柳では俗に「臭い仲」とよぶ男女や、幼児の時から一緒に生活して育った
仲間を鰯煮た鍋といい、親類縁者を生臭い鍋と表現した。
川柳は、髪置の祝儀をする年齢が三つだから食べる饅頭も三つにした。相合傘で歩いて
いたら見られては具合の悪い人に出遇ったので傘を横にして顔を隠したとはしおらしい。
道楽が過ぎた息子は九十九里にぽいこくり(勘当して放逐)されるが、相愛の女に鯨帯
を片身に置いて行くとは、帰れる見込みがないのだろうか。伊予染‥は藍色または紫色の
竪縞で波紋に似た模様染物で、月夜に出る鰯雲に似ているから母親は勘当した息子を案じ
て眼を曇らせているが、息子は新鮮な鰯を肴にして後の月(十三夜の月)を眺め、吉原で
月見をした夜を回想しているのだから呆れたものだ。年忌も百年忌となれば、故人の顔を
知る人もいないから法事というよりも「百年忌日頃の水に魚が寄り」で、日頃の水(常に
仲のよい連中)だと「鰯煮た鍋」と「生臭い鍋」が集まって飲めよ歌えよの懇親会になっ
てしまう、という。
鰯屋はどうも似合はぬ木薬屋
線香は鰯屋うなぎは仏店
江戸日本橋の本町は生薬を売買する問屋街であったが、同じ本町三丁目に鰯屋を名乗る
薬屋が三軒あったので、屋号だけでは店の識別がつかず、薬袋を見ても「どっちらの袋か
知れぬ三丁目」といわれた。また本町には酢屋という薬問屋もあったので、「鰯だの酢だ
のと塞ぐ三丁目」(酢は打撲傷に用いた)、と洒落た句もあったが、線香は鰯屋で買い鰻
は仏店で食べるものだとされていた。
「イワシの頭も信心から」
イワシのような取るに足らないさかなでも、信仰心さえあればありがたく思える、
という意味。イワシは下賤なさかなとされていたのでこのような言が生まれた。平安
時代からイワシは臭気の強いところから魔除けとしてトゲのあるヒイラギの枝にイワ
シの頭を付けて、門口に立てる風習が伝えられ、現在でも節分にこれを行ぅ地方もあ
る。「イワシの頭も信心から」と同じ意味を持つ諺に「イワシの頭も観音様に見える」
というものもあり、これは青森県五戸地方で使われる。
「イワシの頭につくよりタイの尾につけ」
これもイワシを見下した諺だが、イワシのようなさかなの頭領になっても仕方がを
い、どうせならタイの尾についていた方が有利だという、〃寄らば大樹”式のもの。
「鶏口と為るも牛後と為る無かれ」の正反対の諺である。
「イワシ七度洗えば鯛の味」
「イワシ七度洗えば鯛の味」
イワシは腐りやすく非常に生臭いが、ていねいに何度も洗えば臭みも落ち、淡白な
鯛のような味になることをいう。つまり清潔にすることを良しとしているのだが、い
くら洗ったところでイワシが鯛になることはない。イワシだって捨てたものじやな
い、といった庶民的な発想である。
イワシの生臭さを指して「イワシ煮た鍋」という言葉もある。一度イワシを煮る
のに使った鍋はすぐにそれとわかるほど臭いが落ちにくいという意味である。
イワシは生活に密着している分、諺も多い。
歴史読本/魚介辞典/他参照:髭G
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