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鰊(ニシン)魚偏6
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30cm。北日本〜北アメリカ西側。北海道の近海に多い。産卵期の3〜5月頃に
なると、大群をなして沿岸に近づく。
正月の鯑(かずのこ)はニシンの卵。干したのがミガキニシン。
ニシンはカドイワシの方言があるように、イワシ科ニシン属(ニシン目ニシン科と
いう説あり)の魚で、外洋で産卵する外洋産と汽水水域に産卵する湖沼産がある。
平秩東作(滑稽堂主人ともいう狂歌師)が蝦夷の事情に明るいことを幕府に認め
られ、天明三年(一七八三)に渡海して風俗・物産などを調査して記述した東遊記
によると「鰊は常に何方に住むものにや。鱗の間に泥有。東方、沼ある方にすむ魚
と見えたり。正月のころは箱舘の沖より西の方へ渡り、二月末(陰暦)より又東へ
来る……二月彼岸過ぎより子をなさんと思ふとき、磯辺に寄る。雌魚子を産めば、
雄魚白子をうむ。暫くの間に海上一面に白くなる時に網をさせば、魚砕けたる
様に成て悉く網にかかる。是を此所の言葉にてクキルと云ふ。文字には群来ると書
けり」とある。
茨城県水産試験場の髄筆には「太平洋産は春に産卵し大西洋産は秋に産卵する。
卵は約半月で孵化し、四年目には成熟して生地に戻ってくるので、豊漁年と不漁年
は四年の周期で訪れる」と説明されている。
以上により、ニシンを春告魚と書くのは理解できるが、東海の魚なので魚偏に東
と書くという説には異論が多く、正字の旁は柬で東ではない。大言海は「ニシンは
身を二ツに割く義。土人にとりては魚にあらず米なり、故に魚偏に非と書すとぞ」
とあるが、鯡は中国で「ヒ」とよぶ魚であり、魚偏に兆と書くのが正字であるとい
う説もあって、中国から青魚の名で輸入されていた魚であろうともいわれている。
貝原益軒が青魚と書きカドと訓んだのは、松前志に「朝鮮の人、青魚と名づくる
もの亦即ち是也」とあるように朝鮮伝来の文字ではあるまいか。しかし朝鮮でニシ
ンというのはイワシ科ではあるが、高麗鰮といい蝦夷の鰊ではないという。また魚
偏に巻と書くのは身欠鰊を昆布巻にする関西人の発想による文字であろうか?ニシ
ンは魚体を二つに裂いて保存するので二身が語源だというが、数の子や刺鯖のよう
に、両親の長寿を祈って食べる魚と信じて食べていた人々は二親魚と書くのが正し
いと主張している。
東遊記に「春は緋、秋は鮭、此二色をさまざまに製し貯へて家内年中采物とす奴
嬶といへど精進日にあらざれば魚類を食はざる日なし」とあるが、漁師などによる
と「鰊は九ッ刻(午後十一時〜午前二時)の頃に漁ったのは九一とよび最も脂肪が
多く美味であり、夜が明けてから漁ったのは味が劣る」としているが、鰊は精分が
強いので過食すると目が赤くなるものの、寒冷に耐える食品であるとして、ソ連・
ドイツなど北欧の人も好んで食べている。これを見ても日本はあらためて養殖など
に一段の検討を加えるとともに、消費者も錬の活用を考える必要があると思われる。
江戸時代には、松前藩は干鰊二百本を一束とよんで何束かを上納させていたが、
その頃に内地人はアイヌ人の計数に暗いのに乗じ、生魚を数えるのに、まず「始め」
といって一尾を取り十尾になると「終り」とよんで採り、十二尾を十尾に計算して
いたと伝えられるはど暢気であった。
それというのも江差追分の前唄に「江差の五月は江戸にもないと、誇る鰊の春の
空、海女が刈り取る昆布を乾せば、蝦夷の浜辺の夏景色」とあるように、鰊漁の最
盛期には網から零れたものだけを拾っても八〜九両の収入になり、一日に何万両と
いう大金が動いたので、水揚げの時は病人と僧侶、それに富豪の隠居を除いて芸妓
までが出動したほどで、五月の江差は江戸に劣らず繁昌した。しかし、明治三十年
代までは約百万トンの漁獲があったのに、乱獲が祟り、増毛などにあった鰊御殿と
いわれた網元の邸も蜘蛛の巣になってしまった。
守貞漫稿は「江戸にて緋を食する者は稀なり、専ら猫の食するのみ」と貶してい
るが、独活の酢和に鰊を添えると意外に珍味なことを知っていた人は、仲のよい夫
婦を見ると「独活と鰊のようだ」と囃したてたというし、京阪では身欠とよぶ背肉
を昆布で巻いて賞味している。
茨城県水産試験場によると、同県の涸沼に回遊する鰊は外洋産に比べると味が上
品で、京浜の寿司屋はコハダの代用品に用いているという。また北海道では押鮨に
して賞味している。それ故、前段で消費者に反省を求めたのである。
鰊料理の一つに三平汁がある。この料理の起源は、約三五〇年前に、蝦夷福山の
城主で松前藩主であった松前慶広が領内巡視の時に、漁村の三平という家で食べた
汁が美味なので汁の名を質ねると、主人は「手製の汁に過ぎないからとくに名前は
ない」と答えた。そこで藩主が「お前の名をとって三平汁と申せ」と命じたのに始
まるという。しかし、通説では斎藤三平という賄方(食事担当係)の藩士が飢繹に
備え豊漁年に鰊を塩蔵しておいて料理に工夫を加えたのに始まるといわれている。
鰊は何万粒も産卵するので縁起のよい魚とされ、さんさ時雨の歌詞にも「酒の肴
に数の子よかろ、親は鰊(二親魚)で子はあまた」と唄われているように、両親が
健在の家では正月とうら盆(おぼん)には必ず鰊と数の子を食べて一族の繁栄を祈
る風習があったが、数の子の語源については、大言海は「カドは蝦夷語ならんか?」
と推量している。そこで「カドの子」が訛った言葉であるといわれている。ところ
が、カドは三重県ではサンマの異名であるから数の子の語源は明瞭でない。
また「かっちゃん数の子ニシンの子、お尻を狙って河童の子」という幼童の戯言
があるが、大言海によると、数の子は室町時代にはコズコズとよんでいたけれど語
呂が「不来不来」と同音で縁起が悪いので来来とよぶようになったという。そして
数の子という名前は江戸時代になってからの呼び名であるという。
数の子が豊富に出回っていた戦前には巻煙草の中に密かに数の子を詰め、これを
知らぬ者が喫煙して撥ねる音に驚くのを見て興じたこともあったが、近頃は一キロ
当り一万円の高値で正に黄色いダイヤとなってしまった。このダイヤとよんだ由来
は、終戦後に石炭が暴騰した時に石炭を黒いダイヤとよんだのが始まりで、昭和三
十年(一九五五)五月に、東京蛎殻町の商品取引所で小豆の仕手戦が激化して不穏
な空気が漲った裏面を梶山季之が赤いダイヤという題名で小説を書いてから、投機
を対象に暴騰する商品の代名詞になったのである。
数の子の楊枝に松葉ひんむしり
数の子でやたらにしひる飲まぬ奴
数の子でむしやうに下戸はのめといふ
数の子をなくなる迄はよって喰ひ
懸り人数の子などを殺し食ひ
数の子を虱にたとへ叱られる
大概にしろと数の子ひったくり
数の子は粒が小さいので楊枝の代用に松葉をむしって一粒ずつ味わう風流人もい
たらしいが、数の子を肴にして酒を飲むと早く酔うので、下戸は酒を節約するため
無性に(やたらに)食えと強いる(催促する)。客も下戸の心中を心得て粒のよい
のを選り食いするが、懸り人(居候)は遠慮して数の子などを殺して(音をたてず
に)食べざるを得ない。そのうちに「数の子を噛むと虱を潰したような音がす
る」という者がいたので、「冗談も大概にしろ」と叱られて、数の子をひったくっ
て(取りあげて)しまったという。
歴史読本/魚介辞典/他参照:髭G
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