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肴噺魚偏プロローグ

魚の語源/刺身の起源

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サカナの語源

 サカナの語源は、酒菜であるが、酒魚または酒楽と書いた本もある。要するに酒に
そえて供える食物の総称であったが、その中で酒を美味に飲ませるのに役立つのが動
物性の食品であるとさとったので、サカナや鳥獣類の料理を真菜(本格の食品)とい
い、植物性の酒菜を蔬菜(粗略な食品)とよび、真菜を料理したり、神前に供えるた
めに用いた板を真菜板とよび、漢字は肉を意味する偏に、台を示す且をつけて爼と書
くが、料理した食品は肉(月)の上に烹るという意味のメナをつけてサカナと訓む肴
の字を用いた。

 ところが、文化が進化するにつれ、宴席の接待様式も変化して、酒席を賑やかにす
るため歌舞音曲や武芸までも座興として披露する風習が生まれ、この座興をもサカナ
とよんだが、これは食品の肴と区別して肴舞とよぶのが正確な言葉である。


 肴に対しウオとも訓む魚の字は、魚の頭と胴体と尾を描いた象形文字で、昔は魚類
を伊乎(イオ)とよんでいた。(現在もイオとよぶ地方がある)。この魚の字をイと
訓むのはイオの略称で、オと訓むのは朝鮮語に由来する発音だという説がある。
古事類苑によると「古事記伝では、生きている魚を宇乎といい、餞(料理して供える
もの)にした場合はナ(那と書き嘗めるという意味)とよんだ。」とある。
 さらにナと訓むのは魚眼の光沢で鮮度を識別するからである。マは真菜の略称であ
り、サはサカナの略称であるが、トトは大言海によると「韃靼(蒙古系のタタール族)
の言葉なりといい、魚を数える言葉に始まる。」とある。また音読のギョは漢音で、
ゴは呉音である。戦後の国語教育で魚をウオと訓ませて、サカナと訓むことを教えな
かったのも語源が複雑であるからだといわれる。

 行く春や鳥啼き魚の目は泪 芭蕉

 さて、魚とはどんな生物か。百科事典を見ると、「一生を水中で生活し、鰓(えら)
で呼吸し、足の代りに鰭(ひれ)を備えて、体の表面に鱗をもつ冷血動物をいう。」
とあったが、魚の春夏秋冬には「九州有明湾のトビハゼは木に登るし、インドのアナ
バスという魚は鰓蓋の刺を椰子の幹の毛にひっかけて登るので《木のぽり魚》ともよ
ばれ、エラの後方にある特別な呼吸器で新鮮な空気を吸っている。」とあり、別の魚
類学者の話にも野鼠や鶏などを襲った魚がいたそうで、孟子の「木に縁りて魚を求む」
の訓言も解釈を変改しなければなるまい。
 また、魚はすべて卵生と思われがちであるが、エイの仲間には胎生の種類があり、
さらにウミタナゴ、カサゴ、アブラザメ、オナガザメ、ホシザメ、ヨシキリザメなど
は卵胎生といって母胎内で孵化した後も引続き母胎内で保護され親に似た形で生まれ
てくるのである。奇妙なのは卵生の魚でもギンブナのごときは学術用語で単性魚とい
って鯉や金魚など近縁種の精子を利用すれば雌だけで繁殖できる魚であるし、メキシ
コ湾のセラネルスという魚は雌雄両性の機能をそなえているというし、ベラ類は成長
する過程で雌へ赤べラ)から雄(青べラ)に性転換するし、天然のドジョウは幼魚の
時に餌が豊富でないものは雌が雄になるそうで、魚の定義は簡単に表現できないよう
である。


 しかも日本語のサカナは「鯨もサカナ白魚もサカナ」という俗諺もあって魚類にか
ぎられた言葉ではない。
 ところが、最大の魚といえば米国には体長が十五メートルにもなるクジラザメ(ホ
ェール・シャーク)がいるが、日本のジンベエザメ(エビスザメ)も最大の魚といわ
れており体長は十数メートルに達するという。
 最小の魚といえば、大西洋の深海に生息しているケラチアス(アンコウの一種)の
雄で、深海のために容易に雌に面会できないので運よく雌に出会うと、千載一遇の好
機だから永久に離れまいと、体長が一メートルもある雌の頭の疣や腹部に吸着するが、
雄の体長は十ミリ内外だから寄生虫に見誤られやすく、最後は雌と雄の血管が続いて
しまうという珍魚である。日本在住の魚では体長三センチ内外のメダカが最小の魚と
されている。


  さてひかる魚と三人祝手思ひ
  浜成は初手にめだかかと思ひ

 推古天皇の御代に土師臣中知なる者が武蔵国浅草に左遷され、供をしてきた櫓熊の
浜成と、弟の武成を加えた主従三名は漁業で生計をたてていたが、推古三十六年(六
二八)三月十人日に宮戸川で光る物が網にかかった。最初はメダカかと思ったが、一
寸八分の黄金の観音像だと判明したので両堂(守本尊や位牌を安置する堂)に祀った。
これが金竜山浅草寺の縁起で、観音像を掬いあげた三人は浅草寺境内の浅草神社三社
明神)の祭神となった。


  三人で一人魚喰ふ秋の暮


 「秋の夕暮」を詠んだ三人の歌人のうち、魚を食べたのは、誰か? という和歌の
謎々の句である。世に残る名歌を詠んだ人といえば「心なき身にもあはれは知られけ
り鴫立つ沢の秋の夕暮」の西行法師と、「村雨の露もまだひぬ槙の葉に霧立ちのぼる
秋の夕暮」の寂蓮法師がいるが、両名とも僧侶であるから魚は食べない。それならば、
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」の藤原定家こそ魚を喰った犯
人だというのが正解である。

  魚漁る僧うみの恩忘れかね
  海の恩忘れずに魚漁る僧
  魚の香の法衣に残る孝の味

 白河法皇の世に桂川のハゼを漁ることを禁止したが、貧しい僧が海より深い恩をう
けた母親に好物の魚を食べさせたいためハゼを漁ったのが露見して捕縛された。だが
事情を聴取した法皇は孝行の徳を讃え、罪を赦したのみか種々の褒美を与えた、と古
今著聞集は伝えている。


 しかし反対に、伊勢国安濃郡阿漕浦も伊勢神宮に調進する魚介類を漁る場所として
一般の人の漁を禁じていた。ところが阿漕の平次なる者が母の病気を療す薬を買うた
め、たびたび漁をしていたことが露見し、遂に簀巻きにして海に沈められた。この故
事から古今六帖には「逢ふことをあこぎの島に引く網の度重ならば人も知りなん」の
歌が載っているが、悪事を重ねるあつかましい非道な行動をあこぎなことをするとい
うようになり、川柳は亭主が流行した留守に密通した女を「伊勢の留守女房あこぎな
事をする」と詠んでいる。

                                  (歴史読本/雑学/魚介/参照:by髭G)



 サシミの起源
 

 大悲の矢六本増した膾の子
 香のもの程にさしみを女房きり
 ある時はさしみにかける枕がや  

 刺身の原形は鎌倉時代に始まったという。その頃は打身とよんで生魚のままでは食
べず膾にして食べていた。足利義政の時代(一四四三〜七三)になると、魚の本体を
明かして客を安心させるため、その魚の鰭を魚肉と魚肉の間に挿んだので刺身膾とよ
ぶようになったという。しかし東京では大正時代になってもイカの刺身は気味が悪い
と、食べる人は少なかったとも伝えられる。

 日本には仁徳天皇の時代(三世紀)から大根があったので、古くから膾を作るのに
大根を用いていたと推察できる。川柳の膾の子とは大根の異称で、板上田村麻呂が鈴
鹿山で悪鬼と苦戦した時に、千手観音が千本の矢を放って加護したという伝説がある
ので、膾に用いる千六本は大悲(観音の別名)の放った矢の数より六本多く作ったと
詠んだのである。また香のもの程に切ったとは、菜切庖丁で魚肉を切ったことを意味
するが、日本橋の木屋(金物問屋の老舗)の随筆によれば、古式の庖丁式に用いた庖
丁は例外として、一般の家庭で刺身庖丁を用いたのは嘉永・安政(一八四八〜六〇)
以後であったらしい。そして幼児用の枕蚊帳を蠅帳が代りに用いたのも、この頃から
始まったのだろう。
 だから江戸時代までの刺身は「ぶつ切り」で、室町時代の末期に紀州の湯浅で発明
された醤油が元和年間(一六一五〜二四)に江戸に移入されても高価であったからで、
女房たちが味噌をつけて食べていたと説明している民習も「なるほど」と納得できる
であろう。
 ところで、刺身という言葉は接吻の隠語でもあったから古川柳には次のような艶句
もある。
  
  さしみにてひやめし強ひる下心
  母の日が皿おさしみもチト遠慮
  おさしみ前に土手をばちょっとなで


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