肴噺・魚偏4 寿司屋の元祖
- TOPへ
- もどる
- 鰤・知ったかブリッ子1
- 出世魚について
- ヒラメとカレイ魚偏2
- 鮃と鰈の噺あれこれ
- 鮪(マグロ)噺・魚偏3
- マグロの噺あれこれ
- 寿司屋の元祖・魚偏4
- 寿司屋の由来はこれこれ然々
- 鰯三昧・魚編5
- 鰯の蘊蓄噺、ぞろぞろ
- 鰊(ニシン)魚偏6
- ニシンの卵は数の子
- 鯖(サバ)魚偏7
- サバをよむ&盂蘭盆(おぼん)
- 鰺・鯵(アジ)魚偏8
- アジ今昔と沼津の干物
-
鯛(タイ)魚偏9
- 鯛/知っていたい?
|
鮓・鮨・寿司
寿司屋の元祖
飛鳥山花の波間にみさご鮓
売り歩るく花の波間の鶚鮓
日本で寿司を作るようになったのは、伝説によれば、讃岐国(一説に淡
路国)に住んでいた老夫婦が巣作りをしている鶚を見て、巣に残飯を入れ
やったが鳥は残飯を食べずに魚を捕って来ては飯の上に置いて行くので、
夫婦は「餌をもらった返礼に魚を捕って来るのだろう」と、魚を持ち帰っ
て食べると独特の風味で、しかも美味なので、これを真似して作ったのが
寿司の起源であると伝えている。鶚は渚鳥または海鷹ともいい、鷲鷹目の
鳥で、鷹の雄と鶚の雌の間に生まれた鳥は鶚腹よばれ最も優秀な狩猟用の
鳥とされてきたが、現在も鶚が海岸や深山の岩間などに巣を作っているの
を発見した人は巣の中にある魚を賞味しているという。そこでみさご鮓と
いえば寿司の代名詞でもあり、江戸時代には花見に欠かせない肴とされて
いた。
中国では
前漠(西紀前202〜西紀8)が南方に勢力を伸ばして後漠になってから、米
の発酵によって蛋白を変質させる技術が発明されたという。従って熟鮓も
後漢の頃から作られたと思われるが、その頃の中国では鮓と書き、鮨の字
は魚に塩を加えた塩辛のことであったとの説があり、鮓と鮨の解釈が混同
してしまったのは後漢の時代であろうといわれる。中国の鮓は元の時代
(1279〜2267)には種類も増加したが、明の時代(2268〜1644)から衰退
し、清の時代(1644〜1911)になると料理の本から鮓の字は消滅してしま
ったという。
日本では、大化三年(647)に制定された賦役令に、鮑鮓など多数の鮓の
名が掲載されているのが最古の文献で、それから約三百年後の延長五年
(927)に完成した廷喜式(宮中の儀式や制度を定めた律令の施行細則)に
は各地から種々の鮓が貢納されたということが記録されている。
当時は、サカナに塩を加え数時間も圧力をかけ、自然に発酵させ酸味の
出たものを酸しとよび、魚腹に塩または飯を詰めて貯蔵する食品という意
味で、中国では蔵魚または差魚と書き、さらには差の下に魚、あるいは差
を乍と略して鮓の字を用いた。日本で鮨の字を用いたのは慶長年間
(1596〜1615)以後であろうといわれている。
維盛がこはだのとげをお里ぬき
釣瓶鮓お里にぎれば弥助出し
寿司を女房語です文字というのは酸の字という意味だが、寿司を弥助と
いうのは歌舞伎劇の義経千本桜が出典である。壇の浦で敗れた平維盛は都
が恋しくひそかに熊野まで来た。土地の人は維盛だと知ると、寿司を馳走
して傷心を慰めた。しかし維盛は源氏の詮議が厳しいので、高野山で出家
したが所詮は逃れぬと観念し、熊野の海に投身したとも、山中に雲隠れし
たともいわれる伝説をネタにして、竹田出雲たちの劇作家は、維盛は弥助
と変名し、釣瓶鮓を売っていた弥左衛門の娘、お里の聟になったと戯曲し
たから鮓を弥助とよぶようになったのである。なお釣瓶鮓とは藤の蔓で作
った曲物が井戸の釣瓶に似ているからで、中味は古代から大和国吉野に伝
わるアユ鮓の異名である。川柳は維盛(弥助)・お里の仲のよい風情を詠
んだ句である。
こみあひて待ちくたびれる与兵衝ずし
客も諸とも手を握りけり
鯛ひらめいつも風味は与兵衛ずし
買手は店に待って折詰
熟鮓(馴鮓)を作るには数日を要するので短気な江戸ッ子には不向きであ
ったが、延宝年間(1673〜81)に京都から来た松本善甫なる医者は、飯に
酢を加えて一夜で鮓になる早鮓(一夜鮓・生成ともよんだ)の手法を伝え
たので百石の禄を賜ったという。
早鮓を売った寿司屋の元祖は、点享年間(1684〜88)に四谷舟町横丁で
開業した近江崖と駿河屋であろうという。これが繁昌したから各地に寿司
屋が続々と開店した。
押しのきく人は松公と与兵衛なり
妖術という身でにぎる鮨のめし
にぎにぎを先へ覚へる鮓屋の子
鯵のすふ小鰭のすふと賑かさ
鮓の割り床熊笹を屏風にし
小鰭の鮓をもぎとって遣手ぶち
しかし、この当時の鮓は押鮓であったが、花屋与兵衛は文化年間(1804
〜18)から文政年間(1818〜30)の初期の頃におぽろ鮓など種々の鮓を創
案した。この中でとくに通人の人気を集めたのが握り鮓で、文政末期には
大阪道頓堀にも「松の鮓」なる店が現われた。このように握り鮓が普及し
たので寿司屋の業界では、松公(松ケ節)と与兵衛を押しの利く元老と尊
敬していた。だから客は折詰(寿司詰)になって順番を待っていた。
中には好奇心で鮓を握るのを見物に来る客もいて、握る身振りを魔法使
いが妖術を使う手つきに見立てたり、にぎにぎ(収賄の異名)を早く覚え
るのは寿司屋の子だろうと推察したりした。吉原や芝居小屋などでは、鮓
といわず「鮓ふ」と呼び売りするのを粋だといい、鮓を割床(区画を設け
た形式)にするために用いる熊笹を屏風に見立てた。花柳界では客の膳に
ある食品を食べるのを厳しく禁止しているので禿(遊女の見習)が客の鮓
を撮み食いをすると遣手(遊女の監督者)は鮓を取りあげて撲ったという。
伊豆わさび隠しに入れて人までも
泣かす安宅の丸漬のすし (狂歌)
松ケ節一分ぺろりと猫がくひ
はらわたで正月物を鮓屋買ひ
三聖もうましと云はん松が鮓
松ケ鮓萬民これを賞翫す
山葵を鮓に用いたのは与兵衛が始祖であるが、松公とよばれたのは深川
安宅町の柏木松五郎という寿司屋で、この店の鮓は重箱二つ重ねで三両で
あったという。だから金猫とか銀猫の異名をもった両国回向院付近の売春
婦にたかられると一分(一両の四半分)もする鮓をぺロリと食べられてし
まう。こんな高価な鮓を売る店は内臓を売った金で正月に用いる物が買え
ただろうといわれた。しかし松ケ鮓は好評で、その昔、三聖(孔子・老子
・釈迦)が初めて鮓を舐めた時に、孔子は酢っぱいといい、老子は甘いと
批評し、釈迦は苦いと味わったが、もし三聖が松ケ鮓を食べたなら異口同
音に「美味い」と褒めたであろうと推察し、江戸の万民が賞美したという。
餅屋かと聞けばおまんは鮓屋也
日本橋上槙町で営業していた紀伊国屋藤右衛門の店も繁昌したが、女房
の〔おまん)が当時の人気役者であった瀬川菊之丞に似ていたのが評判に
なって、俗に(おまん鮓)とよばれていたので、田舎者は饅頭を売る餅菓
子屋と思っていたと伝えられる。
朝鮮で押のきいたは蛇の目鮓
蛇の目だぞ鮓になるなと下官共
唐人はみんな嫌ひな蛇の目鮓
おだやかさ清正鮓の見世を出し
肥後米を自慢でくわす蛇の目すし
東両国の蛇の目鮓は加藤清正の旗印(蛇の目)を商号にしたので清正鮓
ともよんでいたが、朝鮮の下官(下級の軍人)は押されて鮓にされるなと
下知して蛇の目の商標を恐れた。だがおだやかな雨あがりの日に蛇の目傘
が乾してあると寿司屋の開店広告と思われたし、米は肥後米であったから
繁昌した。
並び床庇を借りて毛抜鮓
押し照るや浪花町河岸毛抜鮓
毛抜鮓の屋号は、毛抜で魚の小骨を抜いたわけではなく色気抜の食欲を
そそる鮓という意味であった。初めは並び床(軒を列ねた貧相な店構え)
の庇の下で営業していた屋台店であったが、日本橋の竜河岸(浪花町河岸)
に店を構えてから旭の昇る勢いで栄えたという。
元日の翁につめる人のすし
さあらば土産まゐらせう翁鮓
翁鮓の店は京橋の中橋と両国にあったが、元日から客が押しかけて寿司
詰になったので、翁三番槽の「左あらば」の台詞で土産の鮓をもたせて客
を整理していた。
留場から来るすし鯛と海老ばかり
このように各所に鮓屋が開店したのはよいが、庶民の食生活が贅沢にな
り、劇場なども留場(立役者の付人になった者や劇場の内外を取締まる者
がいた部屋)から運ばれてくる鮓は鯛や海老などの高級魚ばかりであった。
そこで財政逼迫の幕府は財政再建と綱紀を粛正するため、天保12年
(1841)に、与兵衛鮓・松ケ鮓など主だった鮓屋二百余名を経済撹乱の罪
で投獄した。これ以来サカナを用いる鮓は衰退し、かわって天保五年
(一説に天保七年)に尾張地方から江戸に伝来したといわれる稲荷寿司
(篠田寿司)が急速に普及した。
魚肉の脂肪が多い部分をトロロ(蕩ける)という意味でトロというが、
赤身をヅケというのも鮓屋の隠語が語源である。
江戸ではマグロは貧乏人が食べる下賎の魚と思われていたが、たまたま
天保三年にマグロが大漁であったので、日本橋横山町の恵美寿鮓の主人は
鮓の材料にしようとしたが、赤身が変色しやすいため一計を案じて醤油に
漬け鼈甲色にして用いたのが意外にも庶民の人気をよんだ。そこで醤油漬
けを略してヅケと呼ぶようになったという。
|