[PR]テレビ番組表
今夜の番組チェック



■兜町事件簿(2巻)■

---目次---
  • ジャンクボンドの帝王、マイケル・ミルケン
  • 武闘派総会屋、小川薫と商法改正
  • 5パーセントの男、浜中泰男の転落(前編)
  • 怪人21面相の株価操作(前編)
  • 5パーセントの男、浜中泰男の転落(後編)
  • 怪人21面相の株価操作(後編)
  • 日経新聞・鶴田社長の疑惑の人事
  • 東天紅株の風説の流布事件(前編)
  • 光通信株暴落事件(前編)
  • 東天紅株の風説の流布事件(後編)
  • 光通信株暴落事件(中編)
  • 兜町事件簿の主役達、悪賢いやつだが、存在感のある人が多いですね。

    (2000/11/6)
    ジャンクボンドの帝王、
    マイケル・ミルケン

    マイケル・R・ミルケンは評価の低い社債に、大学時代から注目していました。評価の低い社債が債務不履行になる確率は、それほど高くありません。その割には、利子は極端に高い。

    これは、商売になりそうです。

    卒業後1970年代の終わり頃、彼はこの考えを実行します。ドレクセル・バーナム・ランベール社は、普通の社債の4〜5倍の手数料でジャンク・ボンドを販売することに成功します。
    ジャンクとは、「がらくた」という意味です。
    市場開拓の際、ミルケンは、ソール・スタインバークやベルツバーク兄弟といった全ての買占め屋と親しくなります。

    こうして、ジャンクボンドを通じ、買収屋達は互いに資金協力するようになります。担保は、買収先の企業の資産があるのです。ジャンクボンドは、敵対的買収に不可欠な存在になったのです。優良企業までもが、ジャンクボンドを利用しだします。

    巨額資金を得て80年代の企業買収は、活発になります。
    ミルケンは、時代の寵児になり「ジャンクボンドの帝王」と呼ばれます。
    ドレクセル社も、最大級の投資銀行に飛躍します。

    買収される企業側経営者も、ジャンク・ボンドを利用して株を買い集め、防衛しようとします。
    ドレクセル社は市場をほぼ独占しており、すべての情報はミルケンに集まります。

    火をつけたと思うと、次の瞬間、火消し役にまわる。株価の先行きの値動きも、手にとるようにわかります。情報を求めて、ボウスキーのような男も近づきます。

    ボウスキー逮捕から2年後の1988年、インサイダー取引や株価操作などの罪でミルケンは逮捕され、ドレクセル社も倒産してしまいます。1990年ミルケンは、禁固10年の判決を受けました。

    ◆◆最近、刑務所から出てきた元帝王ミルケン、◆◆
    ◆◆今度は何を始めるのでしょうか?◆◆

    もどる


    (2000/11/20)
    5パーセントの男、
    浜中泰男の転落(前編)

    浜中泰男は、成蹊大法学部を卒業後、昭和45年住友商事に入社して、大半を銅部門で過ごしました。彼は、LME(ロンドン金属取引所)の銅の地金取引で才能を開花させます。

    彼が、最も得意としていたのは、現物を買い占め、売り惜しみすることで、空売り筋(ショートポジション)を買戻させ、踏み上げ(スクイーズ)相場により、儲ける手法です。

    このため、銅相場は、先物価格が現物価格を下回る不自然な状況(バックワーデーション)が頻繁に生じました。(先物価格は、倉庫代と金利分だけ現物価格より高いのが自然です。)

    浜中氏は、住友商事の稼ぎ頭で後に社長賞を受賞し、同期で最も早く部長に昇進します。

    しかし、こうした成功の裏には、多くの簿外取引が存在していたのです。簿外取引は、1985年元上司と共に始めたようです。そして、その累積損失は、1987年8月には、約65億円程度でした。

    浜中は、「世界の銅地金の5パーセントを取引する(簿外取引を含めて)男」
    といわれていました。

    「この程度の損害は、直ぐ取り戻せる」、彼には、自信がありました。

    しかし、予想外の出来事が起こります。

    1991年12月3日、LMEは、住友商事の買占めによって起きた
    現物価格と先物価格の逆ざや(バックワーデーション)を解消するための規制を行います。
    この結果、バックワーデーションは、一日当たり25ポンド以下に制限されたのです。

    これで、浜中得意の戦法は、封じられてしまったのです。しかも、この規制発表の三日後、逆ざやは解消し、順ざや(コンタンゴ)になってしまいます。

    この影響で、1992年3月簿外損失は、約682億3700万円に膨らんでしまいます。
    浜中泰男は、これを取り戻そうと途方もない計画を練り上げます。

    ◆◆空前の銅相場にたいする投機(レーダー計画)が実行に移されます。◆◆
    ◆◆ この続きは、明後日(明日は仕事で休みます)発表します。お楽しみに。◆◆

    もどる


    (2000/11/22)
    5パーセントの男、
    浜中泰男の転落(後編)

    1993年前半、銅相場は、下落を続け2000ドルを割り込んでいました。浜中泰男は、今の水準が底値であり、まもなく反発することを、確信していました。

    しかし、資金的には、余裕がありません。

    彼は、値上がりを見込んで、2年後の1995年期日の平均2400ドルのコールを何と100万トン分買いました。実に、当時のLMEの全在庫量の2倍の量です。支払う必要のあるオプション料は、6864万ドルです。

    この費用を捻出するため、彼は、マジックを使います。同じ期日の2100ドルのコールと1900ドルのプットを50万トンずつ売り、オプション料を9403万ドル受け取りました。そして、担保は財閥系商社、住友商事の信用です。

    以上が93年6月25日実施された、レーダー計画の骨子です。

    この複雑な取引を合成すると、約2700ドル以上に銅が
    値上がりすれば、その分だけ儲けになります。

    (2700-2400)×100ー(2700−2100)×50=0

    実質取引量は、100-50=50万トンになります。
    反対に値下がりすれば、大損害です。

    住友商事は、LMEの会員ではなく、注文はクレディ・リヨネ・ラウズ(CLR)を通じて出されました。浜中泰男は、この賭けに自信をもっていました。(その後、米景気の回復、メーカーの協調減産により、現実の銅相場は、93年10月以降反転して、95年には3000ドルを何度か突破しています。)

    彼の前に立ちはだかり、その野望を打ち砕いたのは、またしてもLMEでした。LMEは、増大する一方の住友商事とCLRの取引量に懸念を抱き「ポジションの縮小」を命じたのでした。命令に従わないときは、CLRの会員資格を剥奪するとの厳しい内容でした。

    1993年9月17日、レーダー取引は、強制的に手仕舞いさせられます。

    銅価格もこの影響で1750ドルまで暴落、CLRに1億1637万ドルを支払う必要が生じます。そんな資金どこにもありません。

    この後の浜中は、相場師というより、醜い犯罪者に豹変します。
    彼は、上司のサインを偽造してCLRに契約確認書を提出します。

    また、資金繰りのために、架空の銅ワラントの購入をでっち上げ、代金を払い込ませます。
    資金繰りのために損を承知で、2年半も取引を続けたのです。

    1996年4月、某銀行から住友商事財務部に送られてきた取引残高証明書から浜中の悪事は露見します。

    ◆◆1997年3月期決算で、住友商事は、浜中の銅取引に関して◆◆
    ◆◆2852億円の特別損失を計上しました。 ◆◆

    ◆◆世界の銅価格を支配しようとして、転落した男、◆◆
    ◆◆ 浜中泰男に対し、東京地裁は懲役8年の実刑判決を言い渡しました。◆◆

    (参考文献) 住商事件―相場を通して検証するその真実 青柳孝直・江守哲著

    もどる


    (2000/12/1)
    武闘派総会屋、
    小川薫と商法改正

    株式会社の意思を決める最高機関は、株主総会です。しかし、日本の株主総会は、形骸化されているといわれています。

    特に、昔は、総会屋とよばれる特殊株主を利用して、総会を穏便に終わらせようとする企業が主流でした。議長を務める社長が楽をしたいために、総務部に総会対策をさせたのです。

    小川薫は、1937年広島で生まれました。1964年、広島最大の暴力団「共政会」をバックに総会屋活動を開始します。小川は、広島出身の元暴力団組員や親類で組織を固め、結束力の強い広島グループを誕生させます。

    広島グループは、株主総会で乱闘騒ぎをおこす武闘派として、企業から最も恐れられていました。

    同グループは、日本最大の総会屋になり、多額の賛助金を集め、与党総会屋を務めるようになります。
    小川薫の株主総会の指定席は、最前列の正面でした。
    多くの手下が、「異議なし」と叫びます。一般の株主は、発言したくても、できる雰囲気ではありません。指定席に座って、どんなに問題の多い企業の総会でも短時間で円滑に終了させたのです。

    1980年の警視庁調査によると、年間10億円の現金が同グループに集まったそうです。

    しかし、永遠に続くと思われた利権構造が、ある日突然崩壊します。

    1982年商法が改正され、総会屋に利益供与した会社側も、
    罰せられるようになります。

    ◆◆警察も、派手な行動の広島グループを狙い撃ちにして、何度も摘発します。◆◆
    ◆◆企業からの兵糧もたたれて、さしもの武闘派も弱体化し、壊滅状態となります。◆◆

    ◆◆さて、最近の株主総会、総会屋の替わりに社員がかり出され、◆◆
    ◆◆最前列で「異議なし」と叫んでいるとの噂ですが、本当でしょうか?◆◆

    もどる


    (2000/12/18)
    怪人21面相の株価操作
    (前編)

    1984年3月18日、江崎勝久・江崎グリコ社長が何者かに自宅風呂場から誘拐されます。江崎社長は、三日後、自力で脱出しますが、グリコはその後も執拗な脅迫を受けます。

    怪人21面相を名乗る犯人は、「グリコのせい品にせいさんソーダをいれた」とマスコミに知らせます。まさに類例のない劇場的犯罪でした。

    6月2日、犯人は、寝屋川でアベックを襲います。女性を人質にして、男性にグリコが用意した三億円を載せた車を取りに行かせます。代理の男は張り込んだ警察に取り押さえられますが、犯人は逃亡します。

    日本中が注目して、警察が威信をかけて追求したこの事件、迷宮入りして、とうとう時効が成立してしまいました。

    念のため述べますが、真相はわかるはずもなく、以下はグリコ・森永事件を題材としたJ_Coffeeのフィクションです。

    犯人は、大手食品会社6社を恐喝したことになっていますが、実はもう一社表面化しなかった会社がありました。
    その会社は、役員会で議論します。

    「グリコのように、売上が減ったら何百億円も損害が発生する。5000万円なら安い。犯人の口座に振り込もう。」
    警察に全く知らせず、裏取引に応じてしまったのです。

    さて、5000万円を得た怪人21面相、寝屋川事件にすっかり懲りて、安全に現金を奪い取る方法を考えます。

    そして、名案が浮かんだのです。

    犯人は、グループ5人の名前を使い中小の証券会社5社に口座を開きます。

    そして、信用取引を使い、510円で32000株のグリコ株を買います。
    そして、6月24日「グリコゆるしたる」と発表したのです。

    株が暴騰すれば何千万円も儲かるはずでした。ところが、悪いことは出来ないものです。
    グリコ株は、多少反発したものの500円台前半を低迷して、手数料を引くと、とても割に合いません。

    グリコ株をすべて売り払った怪人21面相は、次の標的を物色します。犯人は、丸大や日本ハムを脅しますが、裏取引に応じてくれません。

    怪人21面相は、はっと気が付きます。
    「そうか、買いから入ったのが失敗だったのだ!」

    信用取引ができて、流動性が高く足がつきにくい食品株は何か?

    ◆◆犯人は熟慮の末、結論に到達します。◆◆
    ◆◆ 1984年8月、怪人21面相は、森永製菓の空売りを全力で行います。◆◆
    ◆◆ 続きは次回。お楽しみに。◆◆

    もどる


    (2000/12/19)
    怪人21面相の株価操作
    (後編)

    森永製菓は、バイオ関連株として値上がりしつつありました。怪人21面相は、650円でこれを25万株空売りします。

    どくいり きけん たべたら 死ぬで

    1984年10月7日、関西西友・川西支店、西宮市のファミリーマートなど5店舗で森永製菓の菓子に張られたシールには、脅迫文が書かれていました。分析の結果それぞれの菓子には、0.1〜0.23gの致死量の青酸ソーダが含まれていました。

    ついに、殺人はしないとも思われていた、怪人21面相が、牙をむき出したのです。
    翌日の新聞記事を受けて、森永製菓は、508円まで大暴落します。

    マスコミや大手スーパーにも犯人の挑戦状が次々と届き、日本中がパニックになります。
    森永製品は、日本中の店から撤去され、森永製菓は危機に陥ります。

    しかし、森永製菓は、要求に屈せず闘います。
    同社は、安全な千円パックを国や各団体を通じて発売し、
    多くの人がこれを購入し協力します。

    しかし、10月末には、株価は450円まで暴落します。

    相場師・怪人21面相は、この瞬間株を買い戻します。5000万円の現金は、1億円に増えました。余り効率は、よくありません。

    犯人は、ここでまた方針を変更します。11月14日、ハウス食品を脅して、1億円を奪い取ろうとします。

    しかし、偶然パトロール中の滋賀県警のパトカーが犯人を職務質問したため、車で逃亡。カーチェイスの末、多くの遺留品を車に残して、やっと逃げ切ります。逮捕の最大のチャンスでしたが、警察側のミスが重なったようです。

    マスコミも、警察の大失態を叩きます。

    やっぱり、株で稼ぐしかないな。九死に一生を得た犯人は、今度は、森永製菓株を買いまくります。 1985年2月27日、大胆にも茨木市の派出所で「森永ゆるしたろ」と書かれた挑戦状が、見つかります---------------------------------------

    グリコや森永は、200億円以上の売上減少の被害に遭いました。

    さて、この憎むべき犯人は、実は殺人を犯しているのです。

    山本昌二さんは、たたきあげのノンキャリアでありながら、滋賀県警本部長まで登りつめた、有能で責任感の強い人です。 11月のハウス食品の一件で世論の期待に応えられず、犯人を取り逃がした、滋賀県警の捜査ミスに責任を感じていました。

    1985年8月7日、山本さんは40年間の人生を捧げた、警察を勇退します。
    そして、その日の夕刻、本部長官舎の庭で犯人逃亡の責任をとり、焼身自殺します。

    ◆◆事件に時効があっても、◆◆
    ◆◆社会的制裁は永遠に続きますよ。◆◆

    もどる


    (2001/1/2)
    東天紅株の
    風説の流布事件(前編)

    読者の皆さん。あけましておめでとうございます。

    さて、新春初回は、仕手筋の悪辣な手口を紹介します。
    ちっぽけな事件ですが、私の趣味にはピッタリあっており、お付き合い下さい。

    奈良県の有力仕手筋、堀辺義一は、1997年9月頃から東天紅株を買い集めていました。
    最初は、300円台から密かに安値を拾い集めます。600〜700円台まで株価は回復しますが、彼は、買い進みます。

    玉集めはほぼ終了、後は人気化させて、
    高値で、いっきに売り抜ければ良いのです。

    堀辺は、軍資金不足を補うために、関西の会社社長から十数億円の担保株を借りて、最後の仕上げに取り掛かります。

    1999年夏、5%ルールに基づき、上田夫美という名の女性が、171万6000株(6.67%)を取得したとする報告書を提出します。 彼女は堀辺の会社の事務員、もちろんダミーです。

    1999年12月末株価は、1125円に上がりますが、思ったほど人気化しません。会社側の小泉グループも、買占め側を無視。防戦買いをしてくれません。

    東天紅は資本金わずか25億円の過小資本、人気もなしに大量に株を売ったら、出来高なしのストップ安の連続は、目に見えています。

    どうすれば、人気化するか?悪知恵を搾り出します。

    2000年1月、上田夫美の代理人が、買い増しの結果、保有株が264万5000株(10.28%)になったとの報告書を提出します。

    そして、その代理人は、「彼女は、イトマン事件で有名な許永中とは、無関係だ。」と一方的に証券取引等監視委員会に主張します。

    否定すると、何かあるのではと逆読みされ、
    「東天紅株=許永中銘柄」とみなされること狙った策略でした。

    四季報にも掲載された、謎の女性の正体に関し、情報が乱れ飛び、
    株価は、1月末1400円に上昇します。

    ◆◆もう少しで人気に火がつくな。◆◆
    ◆◆ そして、堀辺は、決定的な策謀を思いついたのでした。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

    もどる


    (2001/1/3)
    東天紅株の
    風説の流布事件(後編)

    2000年2月2日、買占めの黒幕・堀辺は、ダミーを女性から男性へ乗り換えます。

    同日、5%ルールに基づき、川崎市の会社役員、松浦義明(43)は、20.36%に当たる523万8000株を自己資金で取得したとする報告書を提出します。
    彼は、堀辺の友人です。

    この日の東天紅株は、このニュースを受けて
    1585円のストップ高、兜町の話題が集中します。

    そして、2月17日、東証の記者クラブに対し、笠井と言う弁護士を通じて、文書を流したのです。
    その文書には、
    2月21日、松浦氏が、東天紅の株式公開買い付け(TOB)に関する発表を行う
    と書かれていました。

    2月17日の株価は、195円高の1460円、出来高20万株。翌日の18日は、ストップ高の1660円出来高40万6千株の大商い。この間大量の売り抜けがあったものと推定されます。

    21日になると、人気はますます沸騰、1800円まで上昇しますが、午後に大事件が起きます。

    この日予定されていたTOBの発表が、突然延期されたのです。
    株価は、ニュースをうけて、1400円に反落します。

    「事務手続きの書類が間に合わず、証券会社に申請を断られた。」
    というのが、延期の理由でした。その後、株価は、1000〜1300円台と低迷します。

    そして、3月31日、「今度はメキシコ人(これもダミーです)が、TOBを実施する」との記者会見を行います。

    株価は、発表を好感して、この日の高値は1750円にも達します。

    黒幕・堀辺は、大量の株の高値処分に成功します。

    メキシコ人を使ったのは、
    外国人が申請者なら書類不備でも時間が稼げるとの読みでした。

    株価を吊り上げるのが目的で、
    最初からTOBする気などまったくなかったのです。

    詐欺師達に騙された人の最大の悲劇は、5月31日から始まります。この日、100円のストップ安(3900株の比例配分)。 6月1日、100円のストップ安(出来ず)。6月2日、100円のストップ安(出来ず)。

    そして、6月5日、580円の初値がつきます。5月30日の終値980円から実に41%の大暴落です。この日の出来高131万8千株。

    大量出来高は、あまりの急落で、個人投資家が買い意欲をそそられた結果でした。(この頃、まだTOBを信じている人も多かった)

    しかし、新規の購入者も詐欺師・堀辺の被害者でした。TOBなどするはずもなく、株価は暴落し、12月末の終値は、297円になってしまうのです。

    東京地検特捜部は、12月15日、堀辺義一など三名を証券取引法違反(風説の流布)で逮捕します。

    ◆◆ 親愛なる東天紅のホールダーの皆さん!◆◆
    ◆◆皆さんが不当に損した金額を、◆◆
    ◆◆詐欺師・堀辺義一と松浦義明が償うべきだ、と私は思います。◆◆
    ◆◆私の推理では、彼はこの取引でかなりの金額を荒稼ぎしたはずです。◆◆

    ◆◆ 読者の皆さん、仕手株は観戦だけにしましょうね。◆◆
    ◆◆

    もどる


    (2001/4/19)
    日経新聞・鶴田社長の
    疑惑の人事

    日経新聞の鶴田卓彦社長は、在任8年のワンマン社長です。

    彼は、自民党の亀井静香政調会長と親しく、「鶴と亀の仲」といわれています。今回の緊急経済対策で盛り込まれた、株式の買い上げ構想や証券税制の優遇措置は、鶴田氏が亀井氏に進言した影響が大きかったようです。

    3月10日、日経新聞に「どさくさ紛れの緊急対策」という社説が掲載されます。

    この社説を書いたA氏は、買い上げ構想を「一時的な損失隠しに過ぎない」と批判し、証券税制の優遇措置についても、問題点を提起しています。特別優れたものではありませんが、大きな間違いもない社説です。

    この日経新聞を読んで、亀井氏は激怒します。
    そして、鶴田氏に電話します。

    「お前の意見を聞いてやったのに、お前の新聞の社説で批判するとはひどい。」
    とでも、言ったのでしょう。

    そのぐらいのこと、言って当然だと思います。

    理解できないのは、すっかり、顔を潰された鶴田社長のその後の行動です。

    12日、彼はAさんと数人の論説解説者を呼びつけます。
    「お前は、もう執筆停止だ。もう社説は書くな。」とAさんに宣告します。

    常務会でも、社説のコピーを配り、「こういう建設的でない社説はよくない」と問題にします。

    そして、数日後、Aさんは、日経産業消費研究所の主席研究員というポストに左遷されます。
    そこは、昔、朝日新聞の社説を盗用した論説委員が島流しにされたところなのです。

    この株の買い上げ構想は、「銀行保有株を買い上げ、売却後に生じる損失は、国民が税金で払う」との内容が最近明らかになり、問題の多い計画です。

    ところが、この一件以来、日経新聞の記事は、緊急経済対策擁護に急旋回します。
    3月18日付けの「持ち合い株買い上げ構想、資本主義の再設計に意義」のような内容が多くなります。

    まるで、論説委員が、ワンマン社長の顔色を窺って恐る恐る書いているようです。

    この話、ほとんどが週刊朝日(2001年4月27日号)からの受け売りです。
    「朝日新聞が宿敵・日経新聞を、からめ手から攻めている」とのうがった見方もあるでしょう。

    ◆◆もし、身に覚えがないのなら、日経新聞は、朝日を告訴すべきです。◆◆
    ◆◆うちは、零細だからやめてね。◆◆

    ◆◆ それが出来ないなら、真実と思われても仕方がないでしょう。◆◆
    ◆◆ 社長の意向ばかり気にした社説など、迫力ないですね。◆◆

    (追伸) ゼビオ売りました。

    もどる


    (2001/4/22)
    光通信株暴落事件(前編)

    重田康光は、1965年東京都で生まれました。父も兄も弁護士という家庭です。名門巣鴨高校に入学しますが、勉強には興味を失います。大学を中退後、電話の加入権を販売する会社に入社します。

    そして、1988年2月、光通信という名の会社を創立させます。
    従業員3人、22歳のモーレツ社長の誕生です。

    同社は、直ぐにDDIの契約取次ぎの代理店になります。長距離をかける時、0077を回さなくてもすむアダプターの取り付けに、全力を注いだのです。

    契約を取るまでは、帰ってくるな」との強烈な営業方針により、DDI系でトップの成績を上げ信頼を勝ち得ます。

    この頃、重田は、巣鴨高校時代の親友・久保田正有を事業に誘っています。彼は、後に光テックや電創の社長として活躍し、重田の右腕となります。

    1994年、携帯電話の売り切り制がスタートします。機敏な重田は、経営資源をこれまでの長距離電話の営業から、携帯電話にシフトすることを決断します。

    この過程で切られたのが、親友の久保田です。ある日、光テックと電創が獲得した契約にキャンセルが殺到します。 2社は、光通信に対して、キャンセルに対する調整金を支払わなければなりません。

    この影響で、光テックと電創は、94年倒産します。しかし、後に、光通信自身がキャンセルにかかわり、自分の会社でユーザーと新契約した疑惑が浮上します。

    激怒した久保田は、「手数料の未払分5億4800万円の支払い訴訟」と「増資手続きを巡る8億8400万円の損害賠償訴訟」を起こします。前者は久保田側の敗訴、損害賠償については現在係争中です。

    ともかくも、重田は、ドライに過去を切り捨て、携帯電話ビジネスに邁進します。

    光通信の高収益の秘密は、特別インセンティブと呼ばれる
    販売手数料の割増しにあります。

    携帯電話の定価が35000円とします。通常の代理店はこれを一台販売すると40000円のインセンティブが入ってきます。圧倒的に販売台数の多い光通信は、これを売ると50000〜60000円の特別インセンティブが入ってくるのです。原価が安く、タダで売っても採算が取れる光通信に、他社はかないません。

    1999年3月、重田は、DDIの日沖社長と会談。決定的な約束を取り付けたと噂されてます。(ただし、DDIは、否定している)

    「今後、一年間に100万台の携帯電話を売れば
    7万円の特別インセンティブをつける」

    重田は、この無謀な提案に飛びつきます。

    ◆◆「俺に不可能の文字はない」と思ったのでしょう。◆◆

    ◆◆ しかし、この約束が、光通信株のホールダーの◆◆
    ◆◆悲劇の始まりだったのです。◆◆
    ◆◆ この続きは、明日発表します。◆◆

    (参考文献)ネットバブル 有森隆著  文芸春秋

    もどる


    (2001/4/23)
    光通信株暴落事件(中編)

    高額インセンティブと引き換えに、大量の携帯電話の販売を約束することを「握り」といいます。

    重田は、約束を実現するため、HIT SHOP(販売店)のフランチャイズを一気に推進します。98年8月末532店、99年8月末1816店、そして2000年8月には3300店を上回る計画でした。

    1996年2月26日、重田が31歳のとき、光通信は店頭公開を果たしています。アスキーの西和彦の32歳より若い、日本新記録でした。このときの公募価格は、8950円です。

    1999年8月、光通信は、店頭から二部を飛び越して東証一部に上場します。この時の始値は、57000円でした。

    1999年9月重田は、光通信キャピタルを設立します。
    機関投資家や個人から資金を集めて、
    ネット関連のベンチャー企業70社に220億円を投資したのです。

    クレイフィッシュやリキッド・オーディオ・ジャパンなどは、大成功を収め、莫大な含み益を光通信にもたらすことになるのです。

    アメリカでも、ネット株のバブルが大きく膨らんでいました。こうして、光通信のバブルの発生条件は、熟成されます。

    10月下旬、光通信の人気に火がつきます。11月29日136000円、2000年1月31日188000円。

    そして、2月17日、株価は225000円に到達します。

    重田は、個人名義で617万3000株、光パワー(個人資産管理会社)で1419万6000株を保有しています。
    二つの名義の光通信株の時価総額は、なんと4兆5837億円に膨らみます。
    重田は、世界第5位の大富豪になります。

    重田康光の得意の絶頂の瞬間です・・・

    しかし、光通信では、大問題が発生していました。
    100万台の握りの行方が微妙になっていたのです。

    重田は、早い時期から「寝かせ」という秘策を講じていました。寝かせとは、個人の名義を借りて、携帯電話の架空販売を行うことです。

    通話はされずに、月3400円の基本料金や事務手数料2700円は、代理店で支払います。6ヵ月後に解約するとします。7万円の特別インセンティブを受け取れば、35000円の機器代を負担し、名義人に2000円の謝礼を支払っても9900円の儲けになるのです。

    ◆◆こんな詐欺的ごまかしが、長続きするはずありません。◆◆
    ◆◆ 1999年10月〜12月、寝かせの期間6ヶ月が終了して、大量解約が発生します。◆◆
    ◆◆ DDIに衝撃が走ります。この続きは、明日発表します。◆◆

    もどる


    ホームへ