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 『教育学雑誌』第34号(日本大学教育学会、2000年)に掲載されたものです。私の近代教育史研究をつきつめていく上での視点の整理というか、全体像を説く・考究していく
上での仮説提唱を試みたものです。
 
 
 日米教育交流と近代化との関係
  −キリスト教(宣教師)の活動から、学校制度への転換に注目して−
                          古賀 徹(日本大学)
 
 はじめに
 本論文では、明治初年の「学制」期を中心とする米国との教育交流を分析対象にして、教育の近代化過程におけるシステム転換について追究していく。もちろんこれまでにも『日米文化交渉史』(開国百年記念文化事業会編・洋々社、1956年)等の先行研究により、近代日本教育の制度、方法、内容等にみられる米国の影響について論じられてきた。お雇い外国人や宣教師の活動、留学生の動向、キリスト教系学校の創設や教科書・教授法書の翻訳・輸入等の事実が検証され、また近年ではさらに、教育情報の導入や発信などについて、国際関係をふまえた国内政治事情や構想、その実態における問題点や動揺等を検討するなどの興味深い研究成果が蓄積されてきている。しかし、個々の事実や国際事情に照らした視点を含んでいても、「日本」というエリア(地域)に限定された1つの現象を対象として論じているという限界はある。「教育」という国家・国民統合のシステムを説明するためにはまさに比較教育史研究の視点からの論証が重要な意義をもつ。他国における「近代化」と国際関係について、特に教育の果たした役割についても視点に含めて包括的に考察することが必要となるであろう1)。本稿考察においても、日米2国間の関係のみならず比較対象として東アジア(中国・韓国)についても視点のうちに含んでおきたいが、紙幅の都合もあり、具体的に東アジア諸(各)国について十分に考察を展開することは不可能であり、その点については各々の研究者による蓄積に委ねることとする。全体としては図表1のような構図で考証していきたいと考えている。さきに指摘した先行研究の「限界」を超越するものとはいえないが、本稿は全体構図から仮説を提示するのが主たる目的である。今後の研究発展のための分析視点を抽出しておきたい。
 筆者は近代国家として自立していくに際して、特に植民地化・半植民地化の状態から遅れて近代国家へと仲間入りを果たした国家については、国家・国民統合の際に国内教育制度の整備と、先進国よりの教育の自立、ナショナリズム(ナショナル・アイデンティティ)が保持(達成)できたかどうかでその独立にかかる時間・経緯に差が生じたと考えている。また「教育」の整備・制度化の前提条件として「教会」(宗教)の担った役割にも注目したい。そこから「近代化」という行程全体の中で、一国内での《「教会」→「学校」》への進展・継承のみならず、国際関係においても近代化過程において《「教会」→「学校」》という経過があり、それが「近代化」へのシステム転換であった(あるいは、近代化「伝導」のシステムであった)との仮説を提示しておきたい。近代の「学校」(教育制度)は従前の「教会(寺院)」(宗教)にかわる国民統合・イデオロギー(思想)統制のための装置としても機能した。確かに教育を受けたことにより自律し、自由に生きていく機会を得た(新たに解放された)人たちがいたことも事実ではあるが、共通の教材、教科書、教育内容により一定水準の教養と国語(統一原語)を普及させることに貢献し、国家・国民意識を自覚させる役割を果たしてきたことによって、全体としては近代国家の中に国民として統合されていくという一元性をもつこともまた事実といえよう。
 本稿はこの近代化へのシステム転換を仮説として提示することを主目的とするものである。ある個別の事項(現象)を実証的に検証することを主たる目的とするのではなく、これまで考察を重ねてきた事実をもとに上述の仮説を提起することを目的とするものである。もちろん実証的考察を軽視するのではなく、歴史の全体像を構想していく上で批判的考察の対象としても一つの仮説を提示していくという研究方法が必要と考えるためである。
 
1、宣教師の活動(教会)から教育者の活動(学校)への展開
(1)近代化の先兵としての宣教師(教育事業に果たした役割)
 東アジアにおける「近代化」の一面が「西洋化」であったことは事実である。様々な方法で「新しい近代的な思想、技術」を自国に導入したが、この前近代的な未開の地へと危険も顧みず先ず渡ってきたのはキリスト教(プロテスタント)の宣教師たちであった。彼らは布教(福音を広める)のため渡来したが、多くはお雇い教師として学校や政府に雇用され、また医療や翻訳事業に関わって近代的科学の普及にも貢献した。日本、韓国、中国において伝道の許容は異なっていたが「教育者」としては同様の役割を果たした。来日した宣教師と教育事業との関わりの一例として、ここで英和辞書作成やヘボン式ローマ字、明治学院との関わりで知られるJ.C.ヘボン(James Curtis Hepburn,1815-1911)の書簡の記述について見ていく。
 来日前のヘボンは日本について、「人民にキリスト教を教えることは許されておりません」が、「わたしは医者として静かに行き、その職業をいとなみ、漸次、わたしの途をきり拓いてゆきましょう。−−しばらくは語学の習得につとめます−−辞典を編さんし−−他の人々に有用な働きをいたしましょう」3)と書き記していた。また、来日直後には、「わたしは、だんだん、何か施療めいたことをやってゆくつもりです。わたしが日本語を話せるまでは待っています。しばらく日本語の修得に専念します」と布教のための準備として、日本語学習(翻訳)と施療をすることを語っていた4)実際に、「ネビウスが引き払ったあとの寺で施療所を開いています。患者はまだ少数です。しかし、わたしはためしてみるつもりです。おだやかな方法で、宣教の糸口をつけようと思います」5)と伝道のための施療を試み始め、また1874年になると、教会で説教を始めているが、その「聴衆の大部分は、わたしどもの学校の青年と子供たち」6)であったことが記されている。
 以上、布教のための教育、翻訳事業、施療であったことがわかる。キリスト教伝道が警戒され制限された国で布教を広めるには語学の学習と、近代的技術、科学で人心を引きつけて感化することが最良の策であった。特に日本において国家間の条約によって伝道が制限されるというジレンマもあり、「現在締結されている条約によって、もし宣教師が福音を伝え始めたら、日本政府は、その宣教師について、われわれの公使または領事に抗議をするのです。したがってわたしどもも追放されるのです」7)とその状況を伝えていた。
 また、あくまでも先兵としての役割であって、外国人の来日が増加すると、しだいに自分の役割が減少するということもあった。布教目的の他宗派も増えて競合することになるし、またお雇い教師も「専門的」な教師が招聘されるようになると、初期の外人教師の多くが仕事を失っていった。例えばフルベッキ(G.H.F.Verbeck,1830-98)は日本政府の雇いとして多大な功績があり、文部省設置以前の教育行政に関する実際上の顧問として活躍し、大学南校の教頭や海外に留学生を派遣するなどをしたが、その留学生受け入れ先のラトガース大学教授モルレー(次項で論述する)が文部省顧問として来日することによって、自らの「教育界」での居場所を失ったのである。その後は聖書翻訳と宣教師として生涯を送った。以上のようにイデオロギーセールスの先兵の役目を果たした宣教師たちは、国(政府)に雇われることが減少し(専門的外国人にとってかわられ)ていったのである。またお雇い外国人自体、いずれは自らが教え育てた日本人によって、そのポストをとってかわられる運命にあった。
 また受け入れ側日本政府は宗教的思想でなく近代的技術、科学的思想の部分のみを摂取しようとした。国家富強の立場で技術(「文化」の形式としての「技術」的側面)のみ摂取するという方式で対していた(もちろん市民サイドでは宗教思想を受け入れた部分もある)。この摂取方式は「日本的な同化の論理」といわれるが韓国・中国らと今後比較して考察していく必要がある。ヘボンはこれを、「日本人はまことに不思議な人々で、わたしがかつて知った、また書物によって知っている他の民族とちがって、古い習慣や制度をさらりと脱ぎ捨てて、偏見から解き放たれ、西洋諸国が長い間の戦いと労力によって、やっとかち得た進歩の同じ段階に、その習慣と方法とを理知的に採用し、熱狂的に人々を信じさせるのです」8)と評していた。さらに前述のように、条約による規制もあったが、近代国家の公教育では「宗教教育」を行なわないというジレンマにもぶつかった。キリスト教伝道普及を信じてはいたが、結果的には国家として受け入れられることはなかったのである。あくまでも近代化の先兵の役割を果たしたのみであった。
 
(2)文部省顧問モルレーの教育活動と、彼の考える近代化とキリスト教
 次に文部省最初の外国人顧問であったダビッド・モルレー(David Murray,1830-1905)の活動を分析して、キリスト教と学校教育との近代化における位置について考察する9)。モルレーは、1873(明治6)年6月から、1879(明治12)年1月までの約5年半の間、わが国において文部省最高顧問として活躍したアメリカ人である。モルレーは宣教師ではなく、日本でのキリスト教関係の活動は確認されていないが、彼自身はクリスチャンであり、その来日についてもキリスト教が間接的に影響している。来日以前に奉職していたラトガース大学(Rutgers College)は、ニュージャージー州のニューブランズウィックに州内(植民地)に2番目の大学として開校され、植民地大学特有の宗派的性格を強くもっていた。古くはニューヨークとともに同州はNew Netherland(新オランダ領)であったため、オランダ改革派教会(Dutch Reformed Church)系の影響が強くあった。日本との接点も、この宗派的性格によるものであり、日本に宣教師として来日しお雇い外国人として様々な功績をもつフルベッキによって、日本人留学生たちが米国のミッション伝道本部に紹介され、NYのジョン・フェリス(John M.Ferris,1825-1911)主事の好意によって彼らがラトガース(のグラマースクール)に受け入れられたことによる。ここで語学を学び、その後目的に応じて各地へ送られていった。この時に留学生たちに接して、世話をしたのがモルレーであり、グリフィス(William Eliott Griffis,1843-1928)らであった。
 幕末から明治初期において、ニューブランズウィック地区にどのくらい日本人の留学生がいたかについては石附実氏の研究『近代日本の海外留学史』等により明らかにされている。留学生の中には勝、岩倉らの著名人物の子息や、後に外交の場で活躍する畠山義成、吉田清成らとともに、大儀見元一郎、木村熊二、津川良蔵のように神学校からホープ・カレッジを経て改革派の牧師となった者もいた。モルレーは例えば 木村熊二とは晩年まで個人的に書簡のやりとりをするなどして、家族的なつきあいを続けていた(その書簡類は東京女子大学に所蔵されている)。またモルレー夫人が日曜日に聖書講読クラスを開催していて、そこに参加している日本人もいたことからもキリスト教とは無縁ではない。
 モルレー自身、来日以前には積極的なキリスト教活動を展開していた。彼の両親はスコットランドからの移民でありプロテスタント教会・長老派の教会員であったことから、必然的にモルレーも長老派教会に加わり、オーバニー・アカデミー時代にはthe State Street Presbyterian教会の設立に関与したりした。ラトガース大学に移ってからは同大学の教派でもある改革派教会員として活動した。改革派と長老派は教義及び実践で多くの共通点をもつが、彼は改革派教会の長老を務め、また日曜学校主事を来日前まで務めていた。さらに同大ではY.M.C.A.の設立も援助し、自ら初代会長となっていた10)
 また同大学が総合大学・州立大学へと発展していくのに大きく貢献したのが、キャンベル学長(William Henry Campbell,1808-90)、モルレーの先輩であるクック教授(George Hammell Cook,1818-89)、その2人に招かれて同大学へ来たモルレーの3人であった。この3人はオーバニー校長からラトガースへと同じコースを歩んでいて、また3人とも改革派教会員であった。大学の発展は一面で宗派的性格からの脱却でもありこれは自らの信仰・教会活動と抵触するとも思えるが、宗教と大学教育は別と考えていたのであり、キリスト教を軽んじていたのではなかった。また離日後もニューブランズウィック神学校の特別委員会会長を13年間つとめ、1895年には米国改革派教会議長にも選出されていた。以上のように来日前・離日後のモルレーには積極的なクリスチャンとしての活動があった。
 開国後の日本にキリスト教を布教させようという意見は多くの欧米人が持っていた。例えば、森有礼の“Education in Japan”(日本の教育の進路についてアメリカ人有識者にアドバイスを求めた)に回答を送った13人(T.D.Woolsey, W.A.Stearns, P.Cooper, M.Hopkins, O.Perinchief, J.H.Seelye, J.McCosh, J.Henry, D.Murray,  B.G.Northrop, C.W.Eliot, G.S.Boutwell, J.A.Garfield,)のうち(下線部の)5人は日本におけるキリスト教採用を提言していた。モルレーは各国の国民性の違いを尊重して、それに応じた教育制度をつくる必要を指摘し、キリスト教については論じていない。非常に現実的、漸進的な日本改革のとらえかたであったことが先行研究でも指摘されるが、それは「学制」路線を評価し急激な改革を嫌ったことにも示されているし、後に著した日本論著述にも日本独自の文化への高い評価がみられるのであった。 
 ここまで見てきたように、来日前までは宣教師ではないものの積極的な活動のあったモルレーが、来日後は発言力・影響力のあるポストに就いていたにもかかわらずキリスト教活動が見られない。しかしモルレーは「安息日を守る人 (great Sabbatarians)で、滞日中も日曜日には一切娯楽や招待に応じなかった」ことなどから、その信仰の深さをみることができるし、また田中不二麿に「道徳心」(teaching the students morality)のためには何が重要かと問われ「バイブル(聖書)」と答えていたのである11)
 また離日後に米国で行なった「日本の宗教と教育に関する演説」(1880年、“Education and Religion in Japan")で、キリスト教の影響を述べながらも、神道と仏教が日本人の道徳的役割を果たしていると指摘していた。つまり「日本には日本に適したもの」が必要という、現実的・漸進的な考え方であった。これは悲観的であったというよりも、明石紀雄氏が指摘するように、「キリスト教に対する偏見がなくなり日本において信仰の自由が確立するならば、キリスト教はその信者を獲得することができるという希望的観測に示されるように、むしろ彼は楽観的だった」12)といえよう。
 またモルレーの著述“An Outline History of Japanese Education" で、日本人が「西洋諸国」に追いつくことを記している箇所の記述は“Western nations "となっている13)が、その草稿段階でのモルレー直筆文では“Christian nations"となっていた14)。さらに“Education in Japan -- With special reference to Missionary Education"では、海外伝道、宣教師たちによって日本の教育が進歩したと述べつつも、「公立学校では宗教教育を除外すべき」で、「近代化推進、達成のためには政府主体で国民教育制度を確立することが第一」15)と考えていたのである。また、アジア諸国へのキリスト教伝道については、福音を広めることは重要であり続けていくべきことであるが、インド、中国、そして日本においては、先ず学校を整備することが重視されるべきとしていた16)。モルレーのキリスト教観は、近代化して西洋の制度・学校制度が普及すれば、必然とChristianizedされるとみていたのではないか。いずれにせよ、モルレーのように「思想」(キリスト教)ではなく「制度」(学校)の移入・設置、その整備・拡充の方を優先すべきという「近代国家の建設と繁栄」を考える、ある意味においてまさに「近代的」な人物がこの時期にはあらわれていたのである。
 宣教師と専門的お雇い外国人教師の活動を、近代化という視点でとらえることで、宗教伝道活動が近代学校づくりの基礎、先兵の役目に制限された(伝道のために近代科学知識を伝えざるをえなかった)ことがわかる。それをのりこえて、近代学校制度が成立する。「宗教=キリスト教」(教会)から「教育」(学校)へと国家のイデオロギー装置の担い手が移り変わり「近代国家」は誕生したと考えると日本の近代化における対外関係にモルレーが果たした役割は大きいと考えられよう。
 
2、対外教育交流によるイデオロギー統制(教育費援助と教育の自立)
(1)返還賠償金による教育費充当
 幕末の長州藩と英・米・仏・蘭4ヵ国とにおける下関戦争の賠償金300万ドルを、政府は1874(明治7)年までかかって4ヵ国に払い終えた。一方、米国内では1868(明治元)年頃から「償金返還論」が出て、数年の論議を経て、1883(明治16)年にほぼ支払い総額分の785'000ドル87セントが日本へ返還された。この下関償金返還論については筆者はかつて論稿をまとめたことがあるので詳細についてはそれに譲り本節では概略を述べることとする17)
 この償金を問題視しはじめたのはキリスト教関係者たちであった。例えば、来日していた宣教師がキリスト教精神にもとづき自国の道義外交に疑問をもち、問題を提起した事例として、マーガレット・バラ(Margaret T.K.Ballaugh,1840-1909)の書簡(1864年)がある。バラは下関償金を生麦事件から薩英戦争(1863年)への動きと同様なものとして、「困苦している弱い国民から不当に金を脅しとった」18)恥ずべき行為と批難していた。これに米国内の宗教家たちが呼応して、人道的な疑問が提示され、これを受けた国務省長官シューアード(W.H.Seward) の指摘によって1868(明治元)年以降、議会で下関償金の処分について審議されることになる。例えば前出のバラも、「アメリカが受け取った賠償金が国会議員の良心を咎め、返却問題が議論されているとのこと。日本が支払った金は現在ワシントンにあり、利息を加えた総額が130万ドルに達している。そのうちのいかほどかが、日本の若者のためのキリスト教大学建設の基金として用いられるなら、きわめて有益なことと思う」19)と論じていたように、返還案として様々な教育費充当論が審議にのぼった時期があった。もちろん返還は米国民の理解・賛成が必要であり、「米国に都合よい」案が審議事項に上っていた。例えば、(1)サンフランシスコのオリエンタル学校設立基金、(2)東京に米国人を統領とする英学大校を建設、(3)在日本公使領事通訳官養成学校を設立、(4)米国学校中に日本学局(Center for Japanese Studies)を設立する基本金とする、(5)ワイオミング号士官(戦争参加者)への賞与、(6)もともと略奪金だから無条件で返還、等が議事にあげられていた。
「教育費充当」に関する案の発言者は在日宣教師(キリスト教者)から、やがて「教育専門家」へと移り変わっていくが、実際に関連した日本の教育関係有力外国人のうち、森有礼公使の書記(通訳及び助手)を務めたランマン(Charles Lanman)や、コネチカット州教育長ノ−スロップ(Birdsey Grant Northrop,1817-1898)、アーモスト大学教授のシーリー(J.H.Seelye)等の論述には、返還の結果(教育の結果)得られる利益が強調されていた。また、森の「帝国の将来のための教育振興」という希望に応えて記したと書かれていたことから、森“Education in Japan"のライン、教育に関する相談役、顧問的役割を果たした人物による提議であったと考えることができる。さらに日本の正式な教育顧問に就いた前出モルレーの意見“Japanese Indemnity Fund"(合衆国議会図書館所蔵モルレー文書中の書簡)は、米国議会議員フリーリングハイザン(Frederick Theodore Frelinghuysen,1817-1885)に影響を与えたが、最後まで返還にむけ議会中で奮戦したのが同議員であったことから考えると、モルレーが大きく貢献したということができる。モルレーはフイラデルフィアでの博覧会時に、この「教育費充当論」の返還要請案を小冊子として議事院に提出し、あるいは新聞紙上に講評した20)のであり、世論傾向を促し、議院の注意を促すのに貢献したのであった。
 
(2)教育費援助の意味と日本の近代化・西洋(米国)化
 米国は南北戦争等の国内事情により優勢な軍事力をアジアに配備することができなかったが、対アジア及び対日外交において米国の特徴ともいえるのが、以上述べてきた教育交流(文化交流)支援政策であり、例えば中国へも同様の事例があった。米人宣教師(組合教会派)アーサー・スミス(Arthur Henderson Smith,1845-1932)は義和団事件賠償金返還による留学生教育基金充当をルーズベルト大統領に、「中国の青年を教育することに成功する国は、将来その捧げた努力に対し、道徳的、知的、ならびに経済的影響において最大の報酬を得る国となるだろう」と建議21)し、これによって中国人の米国への官費留学生派遣事業が発足した。
 この対日、対中国の事例は、計画としてはほぼ同様である。教育による対外交流政策で、特に賠償金という特殊な金を基金とする金銭援助による人材育成。そして、その建議には、在地のお雇い米国人教師らの寄与するところが大きかった。彼らは在地の教育の貧困、特に教育財政の貧しさを実感し、その援助によって自国の立場・影響力を強めることが望めると考え、その実現のために公正さ、誠実さ、正義とを世論に訴え、また直接の利益と、親米国家をつくりあげられるという間接的利益をも説いたのであった。これらには「外交策」(日本及び対アジア政策)として捉えていたことが表れている。また第二次世界大戦後のフルブライト奨学金等も戦争を防ぎ親米国家をつくるという点では同じ意味をもつものといえる。
 「教育費充当論」が出た時期(明治5〜11年頃まで)は、ちょうど「学制」期にあたるが、従前とは違うシステムへの転換実施にあたり、その運用金が慢性に不足していたことから、日本の学校教育制度構築を深慮して“Education in Japan”の公刊準備中であった森と米国人協力者たちによって、教育基金不足・日米友好強化の有効策として、この「教育費充当論」が考案・提唱されたのであろう。またその返還論提唱者がキリスト教宣教師から教育専門家にかわっていったことと、日中の比較において、ミッション系教育により思想を統制され(「教育」され)た中国が後の「教育権回収運動」(教育における自立・ナショナリズム高揚)が起きるまで、近代国家としての立ち遅れがあったことをここでは指摘しておきたい。中国において、モルレーと同様の建議をしたA.スミスはユニオン神学校出身で組合派教会牧師であったが、海外伝道教会は長老派・改革派・組合派が主流となっていたことにも注目しておきたい。
 また日本においては返還金が実際に教育のために使われることはなかったが、ただ当時の近代化として、国家が富国強兵により帝国主義的発展をとげていく上で興味深い予想外の影響があった。1882(明治15)年、朝鮮事件の結果、日本は賠償金55万円を5年賦で得ることとなったが、1884(明治17)年、教育費充当を条件に40万円を返還することとした22)。また1924(大正13)年には、特別会計法制定により義和団事件償金に基づいて「対支文化事業」が発足することとなった。日清・日露戦争を経て、日本が東アジアへ進出を開始するのとほぼ同時期に、大陸政策に帝国主義的武断外交だけでなく米国流「道義」外交が採用(模倣)されていたのである。同化政策・文化侵出の一面として教育が機能したのである。
 
3、「学制」にみられる日本近代化の独自性
 本論でここまで、「学制」期の対外関係からみた近代における教育の意味や機能と、キリスト教や西洋の科学導入に関する事例を分析してきた。日本がキリスト教や西洋思想・イデオロギーを排して近代科学のみを移入することを可能にしたのは何が理由であったか(近代化における「国際性と独自性」の独自性の面)については筆者は別稿を記している23)が、幕末維新期の「国学」がナショナリズムとして作用したことによると考えている。本節ではその概略を論じ、日本における近代学校構想と西洋思想排除の動き・姿勢を概観してみたい。
 先ず「学制」に先がけて文部省設立以前(東京遷都後)に全国を対象とした学校制度として構想、1870(明治3)年に(「中小学規則」とともに)制定され、「全国的な実施をみるにはいたらなかったけれども、府県や諸藩の学校行政には、かなりな影響をおよぼしている」24)ものである「大学規則」について概括する。その学科は「教科」(神教学、修身学)、「法科」(国法、民法、商法、刑法、詞訟法、万国公法、利用厚生学、典礼学、 政治学〔あるいは施政学〕、国勢学)、「理科」(格致学、星学、地質学、化学、重学、数学、等)、「医科」(予科と、本科として、解剖学、薬物学、病屍剖験学(医科断訟法)、内科外科及雑科治療学兼摂生法、等)、「文科」( 紀伝学、文章学、性理学)の5科が構想されていたが、一見して西洋風の新学科が計画されていたことがわかる。教育内容構想については、通説では、「洋学の急激な進出が、従来の大学における皇道主義的な学風を一新する」25)とされ、また「「大学規則」によって、教育機関としての大学校は、その方針も教育課程も、したがって教育内容も、洋学中心のものに改められ、伝統的な漢学・国学はいちじるしく縮小された」26)と述べられるが、しかし「教科」「法科」「文科」で使用する教科書名が記された「三科必読書目」を見ると実際のテキストは、「教科」では、「古事記」「日本紀」「万葉集」「宣命」「祝詞」などの国学系や(以上を神教学で教えようとしたと思われる)、「論語」「大學」「中庸」「禮記」などの儒学・漢学系の書籍(修身で用いることを想定したと思われる)、「法科」では、「令」「残律」「延喜式」「三代格」などの古代律令、「文科」では、「五國史」「大日本史」「枕草子」「源氏物語」「史記」「前後漢書」等が教科書として指定されていた。教科目は西洋に範をとり、洋学の影響を受けて新しい科目が設定されたが、三科については、内容は教科書や教授方法の問題(不足)もあってか、既成の書物のうち多くは、国学系の古典ともいえる「復古精神」の書物を用いることとした。神辺靖光氏はこの必読書から「学科は国漢洋学派抗争の中でつくられた折衷案であった」27)と述べているが、理科・医科を省いた中では数量的には国学塾で用いられた教科書が主要であった。開化路線、欧米科学輸入路線がその中心であったが、その中に精神として天皇制復古の精神が同居して「和魂洋才」の体をなしていたのである。以上のことは前節でヘボンが証言する当時の近代化の様相そのものといえよう。西洋の科学技術のみを導入して、イデオロギーの面は受け入れず、その面は日本国独特の「国学」思想で占めたことが、独自性を保つことを可能にしたと考える。
 この独立意識は「学制」にも表れている。「学制」原案に付された「学校系統図」(進学過程)では、幼稚小学→小学→中学→大学と進む上で、幼稚小学と貧人学校を除いて、《外国語(と日本語)で教授するコース》と《日本語で教授するコース》の2系統に分けられていた。当時、南校・洋学校等では外国語で教授する方を「正則」と呼び、日本語で教授する学校は「変則」と呼ばれたが、日本には、近代的な教育科目や教科書すらなかったのであるから、西洋のテキストを使用し、外国人教師による外国語の授業によってでしか、最新の情報を学ぶことができなかったのである。近代教育を輸入する際、西洋のテキストを翻訳したり、外国人を招いて教わったり、あるいは留学生を送ったり視察したりするのは基本的手法であり、日本以外でも中国(清)や韓国(朝鮮)も同様であったが、一早く近代国家(強国)の仲間入りを果たしたのは日本のみであり、清や朝鮮は教育においても外国勢力からの独立を遂げるのに長期間かかったのであった。もちろん直接占領支配を受けたかどうかの違いもあるが、筆者は日本は開国当初から教育やイデオロギーの独立を意識していたと考えている。実際にも明治10年代〜20年代と進むにつれて、外人教師の数は減り、また植民地主義的侵略・対外戦争をも展開するようになるが、その海外進出の際には、かつて日本が受けた通りに「強制的開国」及び「不平等条約」の強要などを行なったのは周知のとおりである。日本の開国後のスローガンは、文明開化、富国強兵、殖産興業であり、当初から西洋に追いつき、追い越せという国家目標があって、それが植民地奪取へと結びついていく28)と考える。「学制」にもこの国家目標(つまり教育の独立を目指すこと)が表れ、学校設立計画において二重系統に分けられたのも、当面は外国語で教授するも、いずれは《日本語による学校教育》の方を中心とすると構想していたと考えられる。それは、「学制」原案に付され提出された文書「後来ノ目的ヲ期シ当今着手之順序」の中に「反譯ノ事業ヲ急ニスル事」として、「人ヲ率ヒテ學ニ就カシム悉ク洋語ヲ以テ之ヲ教ユヘカラス反譯ノ業亦尤急ナルモノトス」と記された箇所にも表れている。いずれは日本語教授を目指し、翻訳完成を目指したのであり、先ずは学校の設置及び就学が第一とされたのである。
 また、宗教から学校へ、前制度からの転換の事例として、特に維新期の国学が統合イデオロギーとして働いた面については、前掲拙稿では「学制」の布告文と原案段階との記述の差異を指摘して天皇制(国家神道)推進のために国学者により行なわれた「神仏分離」の影響があったのではないかと仮説を提示している。「学制」期には維新期当初の神祇官から神祇省、つづいて教部省へと名称変更(事実上降格)、また文部省との合併としだいに「教化」政策が教育に吸収されていく。また同時期に神仏分離から神仏合同布教へと変容、いわば、廃仏から排仏へとかわっていき、仏教もキリスト教に対する人心対策として吸収されていったと考えている。ここにも日本の近代化の独自性が表れているのではないか。前節で紹介したヘボンの書簡にも、「この国に展開しつつある変革はほんとうに驚嘆すべきものです。彼らは実際に風俗習慣その他外国文化のあらゆる道具だてを一括して採用しつつあるのです。日本人がキリスト教を受けいれるのも遠い先のことではありますまい。彼らはすでに古来の宗教制度を破壊し、その偶像を捨てました。わたしの言う意味は政府自身がこれをおこなっているというのです。一つの驚くべき進展が達成された後、次に何が来るかを知らずに、国民一般はぼう然として見ているばかりです。彼らは笑うべきか、泣くべきかを知らない。けれど全般的には不思議なほどこの変革を受け容れています」29)と記されていたが(ヘボンの思惑どおりにキリスト教は受け入れられなかったが)、古来の仏教をも乗り越え、神道を対西洋思想ナショナリズムとして、上からの政策を断行したのではなかったか。
 いくつかの部分に焦点を置いてみてきたが、本節でみてきた「学制」等は計画・構想の部分のみであるとしても、当時の理想や時代の風潮が読み取れるのであるから詳細に検討する意義があるだろう。維新期直後の和洋折衷的・和魂洋才的なものから、表面的には洋学・科学中心へと移行し直訳的摂取が試みられたが、日本側は和訳・吸収しての自立を構想し、技術的側面を模倣して日本的なものとして消化しようと考えていた。その際にキリスト教や西洋思想は排除されたが、学校は国家のイデオロギー装置として、「宗教」にもかわるものであったといえよう。
 
おわりに
 本論文は近代化過程において《「教会」→「学校」》というシステム転換があったことと、この過程を経て「近代化」成立条件ともなるという一つの仮説を提示することを目的とした。そのために考察の中に筆者のこれまでの検討を踏まえて整理することも加え、より体系的研究のための仮説提示を試みた。もちろん「教育(学校)制度」の確立=システム化の整備・拡充を「近代」の指標ととらえる考え方は筆者だけのものではない。入江宏氏は「幕末・維新期の学校論、学制構想が、それ以前のそれと比較した時で、際立って目立つ特色は、多様なschoolを相互に関係づけ、しかもそれらを全体として一つのsystemとしてとらえ、構想する考え方があらわれている点である。そこには「夷情探索」あるいは「見聞」によってもたらされた西欧社会の教育情報の影響が明らかに看取される」と述べ、教育史における近代とは、このようにSchool Systemが成立し、機能した社会であると論じている30)。明治維新期、「学制」期以降、従前の寺社制度や民衆教育機関を超えて、まさに入江氏の論じるように《教育は制度化=近代化された》のである。
 ただし筆者はこれにつけ加えて、そのSchool Systemの前提条件として「教会」(宗教伝道)が果たした役割を指摘しておきたい。比較教育史的・世界史的にみた時、その学校System化はまず第一段階として「教会」の克服、のりこえ、転換というものがあったと考えられ、これは非キリスト教国であったアジアの国々でも基本的には同じステップを踏んでいくと考える。もちろん自律的に克服する時間には差異がみられるが、宗教社会学者ウェーバーのプロテスタンティズム論とは単純に重ねることはしないが、特にプロテスタント伝道と科学技術・知識伝播31)とに注目した。日本においてはこの「教会」の克服を、国内の状況や国学等による建国(政治的な)イデオロギーによって(もちろん国際関係上からも)、早くクリアすることができたと考えることもできる。従来の「連続性か断絶か」と論じられるうちの連続性の一面として国内にある程度の前提条件・整備ができていたとみることもできよう。さらに「学制二編追加」によって教導職と学校職員兼務の禁止や学校での宗教教育の禁止規定は国内における「宗教→学校」への転換ともとらえられる。
 また、「近代化」の現実をみると、「資本主義化された近代国家」=西洋が、「未だ近代化されていない後進国家」=主にアジアを「近代化」する時、教育が「支配の装置」として明確に機能した。その際に最初に進出するのはキリスト教(ミッション)各派の宣教師たちであった。例えば日本・中国・韓国の近代化において、欧米諸国はミッションが進出し、外人教師となり、あるいはミッションスクールをつくり、教育の成立と欧米の近代文化の伝達に貢献した。また留学生を多く受け入れ、その最初の被教育者は後の近代化過程においてエリートとして重大な役割を果たした。また彼らは必然的に、親欧米派となることが多かった。特に中国・韓国は直接支配を受け、キリスト教伝道が許容されたので進出の度合いが濃く、自立が後れて結果的に「近代国家」としての独立が遅れた。後に教育権回収運動などが起こり、ナショナリズムが高揚して漸く取り戻すことができるのである。日本は開国後、教育の独立を保ち、それだけではなく米国の真似をして、戦勝賠償金を留学受け入れ金として使い、恩を売り親日派をつくるようにした。大戦後の奨学金留学も同じだが、これらは(ある意味では)洗脳、思想統制の一面をあわせ持つことは言うまでもない事実である。ただしミッション(教会)は近代国家の中でもその普及の限界と公教育からの排除という制限もあり、自ら海外伝道に目を向けるしかなく、いわば国内を追われて使命感をもちながら未開の地へと渡るという面があった。しかし時期の違いはあってもやがて近代化が成立するや国民教育の立場から退かなければならず「近代化の先兵」たる役割にならざるをえないのであった。この点については日中に関連したヘボン(長老派)、スミス(組合派)、フルベッキ(改革派)を含むカルヴァン派プロテスタント(米国)32)の一団が、特に「第二の覚醒」(リヴァイバル)運動を経て海外伝道(特にアジア)へと活動を広めたことに始まる。その同教派のモルレー等が教育専門のお雇い外国人として招聘されるということによって米国以外の先進諸国との関係の中で「日米関係」という教育交流を中心とした「特有」の関わりが深まっていったと考える。この「教育」支援・交流という外交関係から、日・中・韓というそれぞれの近代化及び国民国家成立の独自性の違いの一因を探ることが可能となるのではないか33)。もちろんミッションの影響についても、特に中国・韓国についての先行研究は数多くあるが、今後は本稿仮説のように日米との比較を加え充実させていくことが必要となるであろう。
 本稿考察は対外交流に視点を置いたために、主に国家間の関係を対象としているともいえ、それを国民・民衆一人一人の教育へと結びつけるのは短絡的すぎるとの批判も予想される。しかし筆者は、浅田彰の「プロセスではなく最終的結果を見る限りは、共同体の関係が共同体に浸透し尽くした社会を近代社会と考えることができる」34)との論述にも注目したい。もちろん浅田が論じるのは、貨幣・資本等の交換、経済流通が国家対国家であっても手続きが制限されていたがこの限定が解除されていったことを「近代化」と述べているのであるが、交流において権力・軍事力による上下関係ではなく、教育的・イデオロギー的関係への転換という方向があって、その関係も国家間での限定から国内すみずみ(国民統治)へと変化していったと評価することはできるであろう。これは先進諸国における一国内のシステムが、他国間という国家同士の関係においてもなりたち、それが非西洋諸国にも伝わって国内で同様な適応反応がおきるという意味において、本稿が提示する伝道システム転換と同じと考えることができよう。その中で初期にはキリスト教者が、そして、その後を継いで専門的教育者が近代文化を伝えるというシフトチェンジがあったと考えるのである。もちろん本論の叙述は仮説であるから、今後より詳細な資料・実態調査を行ない、以上の仮説検証を続けていく必要がある。
 
 註
(1)教育史学会40周年記念シンポジウム「教育史研究の課題と方法」『教育史学会40周年記念誌』1997年、所収、18頁。従来の教育史研究について羽田貴史氏は、「日本の社会そのものに向かって近代化の問題、それに対して教育の果たした役割を正面切って論じてこなかったのではないかとさえ思われ」ると評しているが、本研究はこの指摘と問題意識を同じくするものであり、「近代化」を考察するために日米2国のみならず東アジア(中国・韓国)についても視点に含めておきたいと考える。
(2)もちろん結果を招いた要因として、地理的条件、文化的条件として民族や従前の教育の普及や科学等、歴史的条件として封建制政治体制・社会体制や適応性、あるいは、思想・宗教的条件等、様々な差異や条件が考えられるが、「教育の近代化に関する移入様式」に注目・焦点を置いた。一つの要因と結果が単純に同一の対応関係にあるとは考えていないが「近代化」過程としての段階には一致する視座が与えられると考える。この中での差異は歴史の発展法則的に大きく抽象的であることと、様々な因果・結果の中の一つの適応反応としてとらえている。近代化のモデルとしては唯物論的なもの(経済史観)や、日本近代化に関するライシャワー等の近代化論、ウォラーステインの近代世界システム論からポストモダン論等までいくつかあるが、筆者の理解は近代世界システム論に近い。世界史的視野の中で、近代化の形式・様式は大きくは3つに区分け(簡単にいえば先進諸国、遅れてその仲間入りを果たしたグループ、被植民地・半植民地)して考えていくべきと思っているが、その中で相互の比較関係を併置的・関係的に論証していくべきと思う。
(3)ヘボンの書簡類の多くは横浜開港資料館に所蔵されている(Presbyterian とReformed Churchの宣教師書簡類)が、故高谷道男訳の書簡集の訳文をあげることとする。高谷道男『ヘボンの手紙』<増補版>有隣新書、1976年、42頁、1859年8月31日付の書簡(上海から、スレーター宛)。
(4)前同書、63頁、1860年5月5日付の書簡(ヘボン→スレーター宛)。
(5)前同書、76頁、1861年4月15日付の書簡(ヘボン→スレーター宛)。
(6)前同書、118頁、1874年9月25日付の書簡(ヘボン→スレーター宛)。
(7)前同書、84頁、1863年11月27日付の書簡(ヘボン→スレーター宛)。
(8)前同書、196頁、1884年11月1日付の書簡(ヘボン→スレーター宛)。
(9)拙稿「David Murrayの研究−教育の近代化とキリスト教、文化交流を中心として−」(日本大学文理学部人文科学研究所『研究紀要』第54号、1997年)においてキリスト教の影響や社会活動について論じてある。また、ダビッド、ディビッド、デビッド、あるいはモルレー、モーレー、マレー、マーリ等様々な表記が用いられるが、筆者は通常これを紹介したうえでDavid Murrayと原語で記しているが、本稿では他のフルベッキ、ヘボンらと同様に慣例的表記にならい、公文書で多く使われる「ダビッド・モルレー」の表記を用いることとする。
(10)William I. Chamberlain“In Memoriam , David Murray,"1915 p.2
(11)ibid., pp.5-6
(12)明石紀雄「米国からの教育使節〜デビッド・マレー〜」筑波大学『地域研究』1、1983年、116頁。
(13)“An Outline History of Japanese Education" p.26
(14)“Japanese Education -- Ancient and Modern" p.44
(15)“Education in Japan -- With special reference to Missionary Education" p.12
(16)ibid., p.29
(17)拙稿「下関償金返還における教育費充当論」教育史学会編『日本の教育史学』第36集、1993年。
(18)マーガレット・バラ著 川久保とくお訳『古き日本の瞥見 Glimpses of Old Japan 1861〜1866』有隣新書、1992年、163〜165頁。
(19)前同書、 163〜165頁 *出版に際して(1908年に)書簡の補註として書き加えられた(「充当論」の時期に書かれたものと考えられる)。
(20)「本省雇米人モルレー氏下ノ関償金ノ件陳述書進達」(「公文録」文部省の部・1877(明治10)年2月8日)。博覧会時の教育会議やモルレーの活動については平田諭治「1876年フィラデルフィア国際教育会議と日本」『広島大学教育学部紀要』第1部(教育学)第47号、1998年、に詳しい。
(21)阿部洋『中国の近代教育と明治日本』1990年、福村出版、227頁。留学政策や対支文化事業等についても阿部洋の研究蓄積に学ぶところが多い。
(22)P.J.Treat,“Diplomatic Relations Between The United States And Japan",1963.  P.559。旧韓末の海外留学に関する研究は多数あるが、古くは阿部洋訳・鄭玉子「紳士遊覧団考」『韓』第29号(第3巻第5号)、1974年5月、阿部洋「『解放』前韓国における日本留学」『韓』第59号(第5巻第12号)、1976年、がある。
(23)「明治維新期における学校教育と神仏分離−廃仏毀釈と国学思想、教育の近代化との関係に注目して−」日本大学人文科学研究所『研究紀要』第59号、2000年1月。
(24)『日本近代教育百年史』第3巻(学校教育1)、1974年、38頁。「太政官公文・記録課」罫紙に記された『公文録』資料は、佐藤秀夫によれば「正定本」つまり実際に布告された完成版とされる。その(2種のうちの残り1種)原案版は『明治以降教育制度発達史』『法令全書』などに収められたものである。大久保利謙「「大学規則」の制定と大学の崩壊」(大久保利謙歴史著作集4『明治維新と教育』1987年、吉川弘文館)等では原案版を布告版と誤っている。この二種の別本については、前掲『日本近代教育百年史』第3巻、第4章の注記、381〜382頁参照、あるいは佐藤秀夫「教育史研究の検証〜教育史像の改築をめざして〜」『<教育学年報6>教育史像の再構築』(1997年、世織書房、85〜116頁)に詳しく論じられている。
(25)井上久雄『学制論考』、風間書房、1963年、24頁。
(26)前掲『日本近代教育百年史』第3巻、38頁。
(27)神辺靖光『日本における中学校形成史の研究[明治初期編]』多賀出版、1993年、73頁。
(28)天皇制教育体制は教育勅語によって完成されると考えられるが、植民地支配との関連については教育史学会第41会大会シンポジウム「植民地教育史研究の再検討」での駒込武の提言が新しい。「近代天皇制もナショナリズムの表現であると同時に、レイシズムの一つの形態とみなすべき」で、また「「自由・平等・友愛」の理念とレイシズムとは同居可能である」とその本質を論じている(教育史学会編『日本の教育史学』第41集、1998年、256頁)。
(29)前掲『ヘボンの手紙』、112頁、1872年8月5日付の書簡(ヘボン→スレーター宛)。
(30)教育史学会第34回大会シンポジウム記録<第二提案>入江宏「教育史における時期区分試論」、前掲『日本の教育史学』第34集、214頁。
(31)M.ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理観(精神的雰囲気)が経済・資本主義の成長(営利、生産力の増強)にマッチするという優位性の論については現代社会の実状からは必ずしも正論であるとはいえないが(部分的真理として段階論として理解すべき)、筆者はプロテスタント諸派の海外伝道、とくに非近代化の国家への伝道が果たす近代科学・近代資本主義という情報伝達については評価をしたい。
(32)米国の宗教思想と教育、政治との関わりは注目されるべきテーマと考える。米国の経済・技術・軍事力等の諸科学の発展・進歩性や、革新的な教育、あるいはマイノリティ問題等の国内人権問題が従来の米国研究の主要なテーマとなっているが、それらの矛盾や多様性を含めて国家としてなりたたせる「力」は何かを問うことが肝要ではないか。田中智志・北野秋男・鈴木清稔『ペダゴジーの誕生−アメリカにおける教育の言説とテクノロジー』(多賀出版、1999年)では、自己統治等の概念がどのように形成され、共通の認識として社会統制の装置として広められていったかが論じられている。特に同書所収の北野論文は米国の宗派、プロテスタントの言説と教育との関わり、その変容に着目している点が新しい。筆者としては、教育による「規律の内在化」は近代以前においては宗教機関が担っていたが、国家(国際関係における)の社会組織(システム)の変化にともなって国民として求められる規律も変わり、その内在化を可能とする装置も変わって(環境もシステム化して)いくと考えている。
(33)日・中・韓以外に台湾・ベトナムまでをも視点に含めて、東アジア諸国における「米国」観、歴史教育の記述等を検討しているものとして、比較史・比較歴史教育研究会(編)『黒船と日清戦争−歴史認識をめぐる対話』(未来社、1996年)がある。「国民国家」成立という視点から欧米先進諸国に対する東アジアの近代化の様相を論じている。書名のとおり日清戦争期(及び以降)を扱った「帝国主義」体制の確立期についての考察であって、本稿とは対象とする時期が異なるが基本的な視点(東アジア近代化から「近代」をとらえなおすこと)は共通する。ナショナリズムと日本的国民(文化)の形成については、同書所収、宮地正人「日本的国民国家の確立と日清戦争」がその分析項目が詳細に整備されていて参考になる。日露戦争よりも日清戦争の方がその後の日本社会の質を規程する上で重要な転機となったとの指摘が注目される。また、米国との特有な関係としては米国が「意図的」に教育によって日本に影響を及ぼそうとしたと考えられるなら、米国は「どのようにしようと考えていた」のかを明らかにする必要があるだろう。教育を「統制」として考える時にこの視点・整理が重要となる。
(34)浅田彰『構造と力〜記号論を超えて』勁草書房 1983年、103頁。また蛇足ではあるが、この近代的な関係は国家・個人から現代では生活文化、商品等にまでマルチメディア化の波という形式で実体化(教育される)しつつあるのではないかと考える。
<付記>本稿考察は平成11年度科学研究費奨励研究Aの補助を受けて収集した資料を試用したものである。