
短大での授業記録
1997年:国際学院埼玉短期大学専攻科
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・・・短大専攻科で教えはじめて2年目の授業の記録です。はじめて授業記録集をつくったのがこの「授業」でした。全員に製本して最後に渡してあるのですが、その記録集の中の「手書き」部分を抜いて、ここに収載いたします。この年のテーマはとにかく活発な授業参加でした。それこそ米国式を意識しまして、どんどん課題を与えました。優秀な、また心清いメンバーたちで努力してくれました。全員の共有の思い出用につくったものでもあります。そのため文面が論文調ではないのですがご容赦ください。
はじめに(御挨拶) <担当:古賀 徹>
この小冊子は、国際学院埼玉短期大学・専攻科(幼児教育専攻)1997(平成9)年度入学生(1年生)の必修科目『教育原理特論』(前期)、『幼児教育課程特論』(後期)の講義内容をまとめたものです。私の恩師である小野次男先生(博士、日本大学名誉教授)の代講をつとめさせていただきました。13人の受講者と1年間頑張ってきましたが、そのメンバーを先ず紹介しましょう。
受 講 者 メンバー <氏 名 (ふりがな)>
1、上野 恵子(うえの けいこ)
2、江森 淳子(えもり じゅんこ)
3、大塚 里美(おおつか さとみ)
4、越阪部 恵美(おさかべ えみ)
5、金子 照美(かねこ てるみ)
6、河野 淑子(かわの よしこ)
7、斉藤 恵子(さいとう けいこ)
8、佐藤 絵梨(さとう えり)
9、谷川 美樹子(たにかわ みきこ)
10、 当間 仁子(とうま さとこ)
11、中田 愛子(なかだ あいこ)
12、長谷川 忍(はせがわ しのぶ)
13、山田 織絵(やまだ おりえ)
小野先生からは「学校制度の成立、戦後の教育制度を中心に授業を進めてほしい」とのリクエストをいただきました。そのため前期は「戦後の学制、教育内容」を中心にして「教育の本質」について勉強しました。後期は「日本の学校のはじまり」を長い間しつこく勉強しました。とにかく「教育」は「人間関係であるから難しい」と言い続け、「格好いいことをいっていても矛盾はある」としつこく繰り返しました。これは私の持論です。でも悲観することはありません。「難しくてこわい」ということを知る(意識する)ことで大丈夫なのです。限界を知っておくのが大切なのです。
さて、実は私も多くを学びました。学生さんって本当に若くてすばらしいし、すごく可能性がある。何度かアンケート形式で皆さんから意見をきき、皆さんの関心を学びました。そこからヒントを得て授業を変えたこともかなりあります。授業日(水曜日)の帰り道(約2時間)、いつも「来週からこうしよう」といろいろと作戦を考えていました。いちばん初めにきいたのは各自の研究テーマでした。
教 育 に つ い て、 関 心 を も っ て い る こ と 。
こ れ ま で の 研 究 テ ー マ 。 今 後 の 研 究 テ ー マ 。
上野 恵子 障害児の中の「自閉症」について。保育現場で障害児に出会う時もある。その時に少しでも障害児についての知識の理解や保育のやり方などを知っておきたいと考えた。このテーマを選んだのは、実際に自閉症児に出会ったからで、このような子どもたちを治してあげたいと考え、また一般の人々に差別しない気持ちを教えてあげられたらよいと考えたからである。臨床心理学的に考察したい。卒論ではいじめや不登校を考察した。
江森 淳子 テレビが子どもに与える影響。園児を対象によく見ている番組を調査した。子どもの生活への影響に注目した(例えばキャラクター製品を持つ等)。またテレビを見ることによって、例えば暴力的シーンの多い番組を見た子どもは暴力的になるのだろうか。このような影響についても考えた。
大塚 里美 動物園における親子の関係。動物園で来園者に対してアンケート調査を行い、またゾウの行動調査も行なった。
越阪部 恵美 幼児画とその指導について。幼児の絵は大人では描けない自由さがあり伸び伸びとしていると感じられる。その特徴は何か。また園などではどのような絵画指導をすすめていくべきなのかを考察した。 今後はダイオキシンと母子関係について興味をもっているが、現在は決まったテーマはない。
金子 照美 未熟児保育の実態とその問題点。日本は新生児死亡の最も少ない国である。これは医学の進歩によるものであり、現在の日本の小児医療は最も進んでいるといわれている。その医療の実態を見るために埼玉県小児医療センターの未熟児新生児科を取材した。今、興味をもっているのは共働きや離婚などの母子分離による母子関係(特に子どもの心理)が知りたい。
河野 淑子 日本の童謡の歴史(明治・大正・昭和・平成)。この調査から詞の意味・リズム等の特徴を発見した。次の課題は歌詞の中で動物や昆虫等がでてくる時、その意味や現実を教えるかという問題である。実際にどのように教えるべきか考えていきたい。
斉藤 恵子 子どもの疑問とその対応の仕方。実習時に保育現場において、子どもから投げかけられる疑問の多さや、その内容の面白さを実感し、何よりも「わかりやすく答える」ことの難しさを感じた。将来幼児教育者として役立てるため子どもの疑問について考えていきたい。
佐藤 絵梨 子どもが他人の性格特性をつかめるかどうか、どこまでつかめるのか。方法としては幼稚園・保育所・小学校等で紙芝居等の登場人物の特性をどこまでつかめるのか調査したい。卒論ではラジオ電話相談での子どもの疑問への対応について考察した。
谷川 美樹子 子どものアレルギーについて調査した。アンケートにより母乳・離乳や遺伝・食物らとアレルギーとの関係を調査した。今後の課題は幼稚園等の砂場で大腸菌を調査して、現場で感染予防をどのようにしたらよいか研究していく。
当間 仁子 幼児における痙攣について。子どもがけいれんをおこすのはどんな時で、家庭と園内とでは違いがあるのか。その時の子どもの心理状態を分析していきたい。
中田 愛子 養護施設について調査したい。卒論では臨床心理学を専攻し、登校拒否について考察した。
長谷川 忍 障害児をもつ親の心境や対応の仕方。アンケートをとってより深く考察を進めたい。
山田 織絵 ダウン症児の親からみたダウン症について考えてみた。今後は他の症例も考えていくが、特に難聴児について調査してみたい。
以上の各自の研究テーマについては、前期終了時にレポートとしてまとめてもらいました。本当に各自いろんな研究関心をもっていて、私も考えさせられました。授業中のイメージとは違う様々な表情をもつレポート。これは中程の頁に収録しておきました。また後期授業の初回にディベート(討論会)を行ないましたが、ここでも意外な一面(すばらしい意見やキャラクター)を見ることができました。私も「人間」を勉強させてもらいました。楽しませていただきました。
ただ後期はこのディベートのように「参加・参画」型授業をめざしたために、学生さんにとってはつらく苦しい気持ちをもったことと思います。正直に言いましょう。「ごめんなさい」。負担をおかけしました。でも文句も言わず(ちょっと言っていたのかもしれないが)協力してくれてありがとうございます。それでは、その恐怖の授業内容を次に記します。
講 義 録(前期)
講義1、1997.4/23 ガイダンス。教育の本質・行為・分野。
講義2、1997.5/14 近代化と教育。生理学・解剖学。宗教改革から共和国へ。子どもを発見したのは誰か。
講義3、1997.5/21 学校教育における問題発生の構造・原因。
講義4、1997.5/28 学校教育の問題と人間関係。学力観。理解と創造力。
講義5、1997.6/4 これまでの総括。科学の進歩と歴史の理解。
講義6、1997.6/11 現代の教育はどのように構築されたか。戦後の教育改革と6・3制学校システム。戦前・戦時教育との比較。
講義7、1997.6/18 学習指導要領の成立と変遷。戦後教育の教育内容。
講義8、1997.6/25 近代教育内容の変遷。
講義9、1997.7/2 まとめ。教育は繰り返される。統一・統合・支配のための教育。教育のパラドックス。
講義10、1997.7/9 いじめの構造と臨床心理
講義11、1997.9/3 レポート内容の発表会
講 義 録(後期)
講義1、1997.10/1 ディベート「現代の学校の何が問題か」
講義2、1997.10/8 レポート発表
講義3、1997.10/15 「学校の規則は何のためにあるのか」
講義4、1997.10/22 「ホームルームの制度化=クラス化」
「ホームルーム」(山田) 「学級」(長谷川) 「生徒会」(中田)
講義5、1997.10/29 「日本の学校教育のはじまりはいかにとんちんかんであったか」「明治初期の有名人」(当間) 「明治維新」(谷川)
「文明開化・洋服等」(佐藤) 「和魂洋才」(斉藤)
講義6、1997.11/5 「日本最初の学校法(学制)は学区・学校の種類をどう考えたか」「学制」(河野) 「学区」(金子) 「文部省」(越阪部)
講義7、1997.11/12「日本最初の学校法(学制)は学区・学校の種類をどう考えたか」
講義8、1997.11/19 「日本最初の学校法(学制)は女子・幼児・貧困児をどう扱ったか」「幼稚園」(大塚) 「教育費(補助)」(江森) 「最初の女子教育」(上野)
講義9、1997.11/26 「日本最初の学校制度(学制)は何であったか」(まとめ)
講義10、1997.12/3 発表「アジア、ヨーロッパの教育について」
○長谷川忍 ヨーロッパの男女差別について〜男女平等を重視するEU(欧州連合)〜
○中田愛子 中国の学校教育
○越阪部恵美 モンゴル草原の生活から教育を考える
講義11、1997.12/17 「米国のモラル、非行」「障害児問題」「幼児教育施設」
○金子照美 アメリカの非行問題〜青少年の犯罪について〜
○江森淳子 アメリカの道徳教育について〜
○上野恵子 アメリカの自閉症児の治療法について
○斉藤恵子 アメリカと日本が考える自閉症の違い〜どのようにとらえられているか〜
○大塚里美 アメリカの保育学校・幼稚園の教育目標と教育プログラム
講義12、1998.1/14 「幼児教育施設」「米国の人種差別問題」
○河野 淑子 アメリカの幼児教育施設〜幼稚園などの保育室内の様子など〜
○佐藤絵梨 アメリカの教育における矛盾(特に黒人差別について)
○谷川美樹子 アメリカの人種差別について〜学校における問題〜
○当間仁子 アメリカにおける黒人女性の結婚問題について
○山田織絵 アメリカの人種差別について
講義13、1998.1/21 反省会
後期は発表、発表の連続でした。でもできましたね。やっぱり若いというのはすばらしい。この小冊子だって無理やり「つくろう」って勝手に進めましたが快く協力していただきました。
それでは希望通りにつくっているこの冊子、1年間の講義の内容(の一部)をまとめ、皆さんのレポート等を収録いたします。ディベートや感想、写真も入れました。講義の内容は思い出しながら書きました。あまり面白くはないので次の目次で適当なところを選んで好きに自由に読んで下さい。
目次
はじめに(御挨拶) 1
1 教育の本質−教育はどのようにつくりだされたのか 7
1、「教育」とは 何であるか
2、近代化と教育−子どもを発見したのは誰か 8
(1)「科学」の発展、時代の変化・進歩の中で「教育」はつくられた
(2)科学の進歩によって改革・革命が起こり、世の中が変わる
2 教育の問題、学校教育の問題と人間関係 11
●子どもが「わかる」 創造的思考の発達とは何か
(1)人間関係・交流上の理解と成長
(2)子どもの求める人間関係
(3)現代社会の人間関係
(4)「わかる」、「理解する」ということ
3 現代の教育制度と教育内容の問題 〜 現代の教育はどのように構築されたか〜 16
1、戦後の教育改革と6・3制学校システム
2、戦後の教育課程(教育内容)の変遷 17
(1)学習指導要領の成立と変遷、戦後教育の教育内容
(2)「学習指導要領」をどうとらえるか
(3)「学習指導要領」における矛盾
(4)教育改革推進の社会的背景、臨教審答申の基本的立場
3、近代教育内容の変遷 21
★レポート 23
★ ディベート『現代の学校の何が問題か』 102
4 教育課程と教育による規制 104
1、教育課程の変遷
2、生徒の自治、クラスの制度化とホームルーム 106
(1)類似点(日米のホームルームにおける類似点)
(2)差異(日米のホームルームにおける差異)
(3)米国におけるホームルームの制度化
(4)日本におけるホームルームの制度化
(5)問題点
5 日本教育の近代化、学校教育制度の成立
〜教育史研究の視点・方法から『教育の本質』を考える〜 108
1、近代教育史研究の概要
2、1870 (明治3)年 「大学規則」「中小学規則」公布 109
3、学制の成立過程と内容 111
(1)「学制序文」か「被仰出書」か?
(2)学制における「学校組織・系統図」に表された学校構想
(3)原案と公布文の比較
@学区「大中小学区」の区分.
A地域名称、人民階級などの呼称の違い
B学校名の表記の違いと、「私塾・家塾」の扱い
C女子教育の表記の違いと、教育内容の差
D「幼稚小学」=幼稚園=キンダーガルテンの構想
E学制に規定された「教科目」
F「教師」に関する構想
G学制の特色・・・受益者負担の原則
(4)「学制」があらわしている『時代』
おわりに 124
★レポート 外国の教育制度、教育施設、教育問題、教育内容 127
★感想と反省 197
前 期 の 講 義 の 内 容
1 教育の本質−教育はどのようにつくりだされたのか
1、「教育」とは 何であるか
「教育」ということばの意味を考えてみよう。『広辞苑』によると「教え育てること.人を教えて知能をつけること.人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動」とある。どうも「教育する」面のみが強調され、被教育者側は一方的に需要するのみのようにも読める。また英語の education の原語であるeduceには「潜在する性能を引き出すこと」という意味がある。このことからも真の教育は、人間の内面に潜む能力・可能性を「引き出す行為」といわれ、また実際に『開発教授』などのことばが存在した。
さて教育とは「引き出す行為」であるにしても、そこには「引き出す役目のもの」(教師=教え育てる側)と、「引き出される対象」(生徒=教わり育てられる側)とが存在することになり、この両者の関係を「教育的関係」という。教育とは対人間関係であり、意図的に何かを教えるか、何かを学ぶことにより、何かを引き出され(成長し)ていくことをいう。
以上のことが単純に「正しい」かどうかは別として、教育が現代の社会においても重要であり、また様々な困難な問題を抱えていることは確かである。また実際に人間の成長に大きく影響を及ぼすことも事実である。教育職志望者にも正しい教育の重要さを認識することが必須とされ、例えば我々は「逸話」として「アヴェロンの野性児」や「狼に育てられた子」の物語をテキストとして読むが、そこではいずれも人間としての行動様式を身につけていないことが報告され、人間が人間社会の中で成長していくことがいかに大切かが物語られ「教育が人間の成長に果たす役割の重要さ」が説かれるのである。また、カント(Kant,I.)の「人間は教育されなくてはならない唯一の被造物である」とのことばの引用から、教育は欠くべからざるもの=人間は教育によってのみ人間になることができると教えられるのであった。そしてその根拠・裏付けとして、医学的・生物学的に人間の「生理的早産」が示されるのである。
このように「教育は大切」であり「必要」であると指摘され、また認識されてきたが、この教育を全ての人間に普及(保証)するため「義務教育」「普通教育」「国民教育」が整備されることとなった。ここに平等論がもちこまれ公立学校で平等・均一な教育内容の授業が行われるようになり、教育が「制度化」されるのである。ここには画一的だの詰め込みだの、あるいは受験戦争だのといった、現在問題とされるものが本質的に含まれていた。国民教育の制度は近代以降のものであり、国民個人の権利保証・要求としても重要なものであるが、この「教育」という「必要ですばらしい行為」が平等に保証されることになると、その内包された矛盾(ジレンマ、パラドックス)が出て問題が表面化するのである。その意味では「教育制度」が問題ともいえよう。しかしそもそも教育という行為自体、他人である誰かがある誰かに対して意図的に目標に向かって影響を与えようということ自体が問題であり、難しいことなのである。
これから教育学の原理として、「教育の本質」とはどのようなものか考えていく。その前に「教育学」という学問領域の分野について述べておこう。教育は重大な問題だが、その教育に関するコメンテーターであり研究者であるべき「教育学者」とは存在するのか。実はこれも難しい問題である。教育の領域は多種多様・多大であり、なかなか一個人が全てをカバーできるものではない。教育理論、教育思想、教育史、教育心理学(臨床心理)、教育哲学、教育社会学、教育行政、教育財政、教育法規、社会教育、障害教育、さらには各科教育(例えば道徳・国語・数学など)等々・・・・・。これらの全領域に通じている人物は「教育学者」といえるかもしれないが、実際には望むべくもないであろう。現在ではさらに個別の専門領域に分かれ(自分自身をも含めてだが)、その結果、教育問題に根本的な対処ができにくくなっており、対処療法的な応急処置しか出てこないという構造になっている。また教育問題が起きて社会問題となり、あるいは教育改革が叫ばれてもマスコミにコメントする教育学者がいないという事態になっているのである(コメントするのはジャーナリストや教育問題研究家、評論家や他の分野の人々であることが多い)。このようなことも、教育の本質があきらかにされない、誰もが大前提として疑わない=教育の根本的問題がいつまでも解決されないということの一因となっていると考えられる。
2、近代化と教育−子どもを発見したのは誰か
(生理学・解剖学。宗教改革から共和国へ)
「教育」は児童を対象とする「学校教育」から始まり(現在では)「成人教育」「社会教育」をも包括した生涯教育体系ができている。必然的にあたりまえに対象ごとの、小学校・中学校・高等学校などの過程・年齢ごとの学力段階に教育内容が分けられている。これを教育課程や学科という。
この児童の年齢・発育過程ごとの適した教育内容が準備されるようになったのは近代以降のことであり新しいことであるが、そもそも子どもに教育を受けさせるという「教育の原理」自体、「子どもの発見」(後には児童中心主義も登場)が実現した近代以降になって漸く可能となったのである。子どもの発達や段階(近代教育)は「近代教育の父」たるルソーやペスタロッチが発見し、その後の教授段階らはヘルバルトらによって発展したといわれる。では彼らが子どもを発見したのだろうか? 教育家が子どもを発見したのか?
私は彼らが独自に発見したのでなく、誰かが発見した成果を受けてその上に近代教育の基礎をつくりあげたと考えている。むしろ彼ら以前に、教育家以外の人物によって先に「子どもの発見」が完成されていたと考える。そもそも子どもの発見される以前とはどのような社会だったのか。何故子どもが理解されなかったかというと、寿命(人生)が短く、そして身分差もあったから、子も一家の一員として成人同様に働く必要があったのであり、教育を受ける時間など考えられなかったのである。私は次のような人類の文化・科学が発展する中で必然的に、「近代社会・国家や教育」が形成されたと考えている。
(1)「科学」の発展、時代の変化・進歩の中で「教育」はつくられた
@「医学」の発展により寿命がのびて、子どもと成人の差が明確になった。「死」の恐怖を克服するために「医学」が発展するが、この時期には特に薬学の他に外科、解剖などの人体を切開しての手術技術が発展・進歩して様々な疾病が克服され、平均寿命年齢が上がっていった。長生きする人物が増えるとともに、子どもと大人の差が明確になった。これをイメージとして理解するならば平均寿命が30才の時代と平均寿命が80才という長寿時代とでは、「子ども時代」のとらえかたが違ってくることは想像がつくであろう。
ここで医学の発達と科学技術の進歩について少し述べる。例えば医学の「医」という文字にも人間の歴史における医療技術の発展が表れている。漢字の「医」は古くは「巫」であったが、これは医術が「巫女」によるまじない・祈祷だよりであったことを示している。大昔の人々は病気を神や悪魔のしわざと考えたのである。死の恐怖・不安から宗教が発生したし、古代国家の政治形態自体が占い・祈祷中心であった。
続いて「巫」は「醫」とかわるが「酉」は「酒」のことであり、「飲み薬」あるいは「麻酔・鎮静・鎮痛剤」として酒が用いられるようになったと考えることができる。「薬」がつくられた。これだけでも十分な科学の進歩である。ちなみに、古来、日本では医者を「クスシ」(薬師)と呼び、これはクサを煎る人という意味であった。英語では魔法使い・まじない師をメディシン・マンというがこれは「薬の人」と訳することもできる。現代の医学をもメディカルというが名残が表れている。古くは、祈りや儀式、薬学が不可分のものであったのである。これが人体解剖という神学的タブーを越え、「巫」や「酉」がとれ、より実証精神が表れたものとして「医」となっているともみることができよう。この「医」への進歩によって人間の寿命が飛躍的にのびたのである。
A「生理学」「解剖学」の発展により年齢差(成長)や男女差が理解されるようになった。近代医学は人体解剖によって飛躍した。各国に解剖が広まり、日本でも幕末にオランダ医学の情報として伝わり実施された。これにより人体内部の構造が理解されるようになり、また男女の差なども生物学的にも明らかになった。またあわせて生体の仕組みを理解する「生理学」も発展して、人間の健康や成長、特に年齢別の成長段階がわかってきた。乳幼児期には頭部が大きく筋肉・骨格や末梢神経まで十分に発達しないので、先ず中枢たる脳を発達させるためリズミカルなことばによる刺激を与えるのが相応しく、続く小学生に相当する時期には心臓・内蔵が発達・完成するので無理な負荷を禁物と考え、思春期以降にホルモン分泌によって骨格筋が安定するのでそれ以降は青年期用の対処をというのは(概括しているが)、ルソーやペスタロッチの年齢区分と同様である。さらにいえば現代の幼稚園でのリズム遊びなどの根拠もこの生理学からきている。当時の科学や医学の発展と長寿化の中で、旧体制への批判として、その教育と機会(権利)を要求する科学的根拠として教育家にとりいれられ、「近代教育」はつくりあげられたと思える。
B神経・脳の理解とともに、心理学、宗教学によって精神世界の理解もすすみ、人権の平等という考えや、「教育における理解の意味(価値)」とがわかって子ども時期の教育の重要さや相応しい教育が注目されるようになった。
さて、以上のように「教育」は独自に発展したものでなく、むしろ科学や医学の発展にともなって形成されたものということができよう。科学の進歩によって国や社会・制度・世界がかわるのかといえば、これが大きく変わるのである。
(2)科学の進歩によって改革・革命が起こり、世の中が変わる
例えば、中世における「宗教改革」である。どこが「科学」といわれるかもしれないが、この旧神学的思想を転覆させた科学者がいる。「地動説」を唱えたガリレオ・ガリレイやコペルニクスであるが、天体観測などから地球が太陽の周囲を周回していると主張した。圧力に屈しないこの主張は大きいインパクトを与えた(今でもこのような驚くべき発言をコペルニクス的発言という)。まずアースが大地でなく球体であるとした点が大きな世界観を変える主張であった。それまで海の果てがあると恐れられたのが、航海による移動と貿易・新大陸の発見などが可能と認識され、大陸(地続き)以外の世界を発見できるような大航海時代となったのである。当然航海・造船技術が発展し、さらに世界の情報が集まりだす。新たに富や力を持つものが現れる。日本にまでも影響を及ぼしている。ザビエル来日によってキリスト教という思想が伝わり、また鉄砲という新兵器が輸入されるようになった。これにより城や町の形態・経済=生活や、戦術・支配者なども大きく変化して時代が革新されたのである。近世への転換の大きな力となった。
さらにヨーロッパでは「市民革命」が起こり国家の体制が大変革を遂げる。続いて科学技術は進歩して「産業革命」が完成し、都市への人口流出という国内での生活転換と、アジアへの原料・市場進出競争がさかんとなり、軍事技術も格段の進歩を遂げた。以上のように脱封建制で共和国が誕生して帝国主義的進出を行なうようになっていく。これが全て科学の進歩の影響を受けていることはいうまでもない。ちなみに日本も同じ道を進んだのであり、その意味で人類史において必然の経過過程であったともいえよう(これは戦争侵略責任回避論ではない)。
さて、以上のように科学が発展する中で社会も変貌を遂げ、近代国家がつくられた。その流れの中で並行して「教育制度」「国民教育システム」もつくられたのである。その「教育」がうまく機能していないというか、もとから矛盾を抱えていたことは前に述べた。歴史的に現在の教育制度の確立を簡単にまとめると次のようになる。
@一面では「全ての者に教育を」の実現過程でもあったといえる。
A教育は個人にとっては「立身出世」の機会であり、ある意味でエリート教育であるが、全人平等のため「統制法」(共通ルールによる画一化)の役目を果たす。「国民教育」が、国民全員へ保証する教育というよりも「国民つくりの教育」となってしまうのである。
B実は古くは(前近代においては)階層・職業ごとの教育であり、各々が実学・必要で役立つ教育であった面もある。現代では公平・平等ながら実生活からかけ離れたものとなってしまっている。これは教育を「権利」として勝ち得てから進歩していないためである。「基礎、実際に役立つ教育内容、ゆとり、無駄か必要か」、これらをあらためて考える必要がある。
2 教育の問題、学校教育の問題と人間関係
「教育問題・学校教育の問題にどのようなものがあるか」とのアンケートに答えてもらったところ、だいたい「いじめ」「不登校」「学力偏重」「受験戦争」などが共通の答えであった。他に少数回答として教員の不祥事とか自殺などの事件もあった。さて、これらの問題は日本独自のものであろうか。もしそうでないのなら、どのようにすれば解決できるのだろうか。そもそもこうした問題の発生要因は何であるのか。このような問題がおこらない『理想の教育』とはどのようなものなのか、そしてそれは可能なのかを少し考えてみよう。
先ず、以上の問題は、『人間関係』(「いじめ」「不登校」)と『学力観』(「学力偏重」「受験戦争」)の問題との二つに大きく分けて考えることができる。もちろんそれぞれが互いに関連する。とくに現在の学校教育においては『学力観』で教育の「意図的作用」(教授によって知識や理解力が増す)の方が「無意図的作用」(友人との関係などで協調性やリーダーシップが形成される)よりも制度上重視されるから、学力偏重となりやすく人間関係を築きにくくなる。「意図的作用」は教材等、定式化しやすく、評価しやすく、どうしても教師もこちら中心となりやすい。「無意図的作用」は人間関係であるから数量で評価する基準がつくりにくい。ここで形成される協調性は「共感」=他者理解であり、集団内でのリーダーシップ形成はアイデンティティや個性の確立過程ともいえ、人間形成に欠くべからざるものである。しかし現実には「無意図的作用」は軽視される、というよりもどうしても評価の関係から「意図的作用」が中心となり、実際の現場ではそれだけで教師は精一杯となり手が足りず、ますます児童の人間関係やそこで形成される人間性を理解することなく時間が経過していくのである。この構造のまま「ゆとり」「新教科(総合)」「新学力観」などといっても、問題は隠されるだけでかえって深刻化するだけである。つまり対処療法的・表面的であり、根本的な解決にはならないのである。
子どもが本当に「わかる」ことや「創造的思考」が発達すること、個性の尊重こそが重要であるといいながら、学校教育の現場では数量評価による一率ランクづけが行なわれるのである。これを克服するには、「ゆとり」「新教科(総合)」「新学力観」などをあげる(新たな評価項目を加える・換える)よりも根本的に「無意図的作用」(=人間関係)からも「科学的思考・認識、創意」らが発達することを明らかにする必要がある。これが認められれば、「無意図的作用」が評価され、学力偏重はなくなり、人間関係が形成されやすく・・・つまり問題も減るはずである。以下に簡単に述べてみよう。
● 子どもが「わかる」 創造的思考の発達とは何か
(1)人間関係・交流上の理解と成長
学校以外に「読書」によって、あるいは対人関係とによって知識を得る(理解する)ことは、学校などで教科書からあるいは教師から知識を得る(理解する)ことと同様に「学ぶ」ということである。人が理解し知識を得るというのは『読書』(読後の感想)を考えると理解しやすい。ある作品を数人が読むと感想が似ている面がでてくる。「わかる」と「共感する」のであり、この部分は多数共通理解の部分である。その一方で(あるいは読み深める中で)「自分だけ」の独自な感想もある。このように「自分だけの個性的、独創的、創造的」な理解もある。この二つは『わかること』と『創造性』であるが、読書だけでなく人間関係における「他者理解」と「自己表現」、つまりは「同一化(identification)」と「自我の形成」でも同じ理解のされかたが作用しているのである。
内田義彦は、その著書『読書と社会科学』(岩波新書)の中で次のように述べている。
(読書会の読み深めについて)「本をくりかえし読んでゆかれると解ることですが、さいしょ各人各様まちま
ちであった印象が、読み深める作業のなかでだんだん一致してくる面が一方で確かにあります。共通理解
への線ですね。しかし同時に、さいしょほぼ共通というか似通っていた認識が、読み深める作業のなかで、
しだいに各人各様の理解に到達してゆく・・・・つまり、恣意的であったものが正確な読みで正されてく
る面と、底の浅い最大公約数的に平板な共通認識が、正確な読みへの読み深めの作業のなかで、次第に個
性的になってくる面が平行して行われている。〔これらは〕ともに、正確な理解に不可欠なのであって、
何れかを欠けば認識の深化はとまる。」
これは人間関係でいうところの共感作用「同一化」(identification)と「自我」の形成とにあてはまる。
(2)子どもの求める人間関係
現代の子どもたちの友達関係は、単に「孤立化」「稀薄」でなく「仲間にこだわりながら、その中で安心できず、不自由になっている。好き嫌いの感情にふりまわされている」ということができよう。常に不安をもち、安心を求め、自由を求める。そんな関係を求めているのである。
では学校において教師が生徒の人間関係をどう考えたら良いか。生徒間の人間関係をみるのにはソシオメトリック・テストやゲス・フー・テストがある。もともと教室内・学校内の人間関係を教師が理解し、把握して、働きかける必要のためにこれらの方法があるが、問題行動を未然に防ぐためにならともかく、評価や管理のために利用すべきではない。グループ化やレッテル、あるいはマイナスとしてのラベル効果が表れる可能性もあるし、何より「不自由」を感じさせることになり、「無意図」とならない。いろいろな人と知り合う機会を用意し、その機会の一部として授業があり、またそこでどう関係を築くかは評価しない。自主的にまかせて、自分で新たな関係、新たな問題、新たな答えをみつけだせる。そのようなことが可能となる「学ぶ場」をつくりあげるべきである。
教師論からいえば、子どもをめぐる人間関係を、大人の側から変えていくという課題を学校の中で考える
必要がある。教師・子どもの人間関係を、教師の側からどう転換していくかという問題である。子どもが
かかえている問題と要求をどう読み取っていくのか、その読み取りの力量をどう高めていくのかが問われ
る。これまでこうした力量は、生まれつきの能力としてすまされてきたところがある。
授業での教材の並べは、比較的定式化しやすい。実はある教材がどういう教師と子どもの関係の中で使
われるかということによって、その教材が子どもの発達に及ぼす影響は変わってくる。その意味で教師と
子どもの関係の質こそが決定的であるといわねばならない。
教師のむき、不むきがいわれ確かに否定できない面もある。しかし今、生活・文化の急速な変化の中で、
子どもの育て方も変化し、今まで子どもをつかめていた先生も、なかなかつかめなくなるという問題が起
こってくる。その中で、子どもと心を通わせる能力・資質がどういうもので、どのような経験や学習を積
み重ねて教師のものとなるのかが、実践、研究、運動の大きなテーマである。これまでは教材の定式化に
よる理解を中心として、人間関係の問題は問われなかった。教育内容・方法の研究があれば、どんな教師
もいい教師になれるというようなもので教師論が抜けていた。
(3)現代社会の人間関係
社会学者のリースマンは、現代社会の人間関係を、他人指向型であると定義し、その主要なモチーフは「不安」であると指摘する。まったく見知らぬ2人の(複数の)人間同士が、初対面の気づまりを乗り越え、次第に打ち解けていくプロセス。知り合うまでは、相手に対する不安がある。だからこそこれを乗り越えて「確認」し、「信頼関係」(安心)を築こうとする。その過程は不安をとりのぞくために「共通項」を探す、あるいはつくるということである。
現代社会での人間の人生経験は驚くほど多様であり、家庭等の背景が違う、まさしく他人である。他人
である二人の人間はどこに経験の接点があるのかさっぱり見当がつかない。はたして「共通項」があるの
かどうかもわからない。
教師・生徒間にも共通項があるべきであり、そのために『共通項を探す立場』(話題の豊かさ)や『共
通項をつくる立場』(協同作業、例えば デューイの手作業、プロジェクト法、発見学習、イベント参
加、等)が意味をもち、重要となる。
他人の集まりである社会の中で、人間は自由と仲間を同時にバランス良く求めるため、拘束的でなく相互に解放しあう関係を理想的(人間改造的な関係)と考えている。子どもの人間関係と同様に、自分で必要な豊かな関係を切り開いていけることにこそ価値をみいださなくてはならない。
人間関係から科学的思考が形成され、発見があることや、テキストや資料から学んで理解する(「わかる」という)ことと同じ認識能力が発達することは、年齢を問わず常に自ら豊かな関係を更新していくことの必要を十分に示唆するであろう。
(4)「わかる」、「理解する」ということ
すでに述べたが、情報を「わかる」というのは心理学でいう「共感」(empathy)と関連し、「同一化」ともいうことができる。一人の人間の内部に発生している状態ときわめてよく似た状態が、もう一人の人間の内部に生ずる過程、それが共感である。共感は同一化の過程と重なり合う。(ミードの、自我形成説とも重なる)
共感が積み重なれば人間関係は深くなる。共感の過程がコミュニケーションである。この共感が「わかる」ことの基本条件である。
他者の考え・話を理解することや、著述を読んでその内容を理解するということは、自分一人(個人)の頭の中における仮想の(つまり主体的・客体的な)会話・シュミレーションにより感じることである。仮想の体験であるともいえる。理解できないということは、その仮想体験を実感することができないということである。また「誤解」とは、その個人内における経験のズレともいえる。これを「同一化」できないと考えれば、「自我の形成過程」ともいえるので、ここから新発見や個性的考えに発展することもある。
読書においても、対話においても、また授業においても、他者(新しい)の情報を理解する(わかる)過程は、「一人の人間の内部での仮想体験における理解(許容)と自我の問題」である。理解や創造的思考とはこのように置き換えることもできる。つまりは一個人内での仮想の「人間関係」であり、多くの複雑で難解なことを理解するということは、たくさんの情報を適応・統合していく力と、それを繰り返していくという過程でもあり忍耐力を必要とする。必要な情報を選んでいくという折衷のプロセスでもある。
以上のように考えれば、人間関係の力とは理解や発見の力でもあり、多様な人間関係をもつことで多くの知識・情報を理解できるし、また独自の考えや個性も確立することとなる。多様な体験(あるいは多くの仮想体験)をもつことで、理解を深め、創造的な考えを生み出すことも可能となる。対人関係で多くの刺激・情報を受けることは、個人内での仮想人間関係を多くもつこととなり、多くを「学ぶ」トレーニングともなる。
人間関係というのは例えればピストンの上下運動のごときものである。人の心というものは、あるいは
自我というものは、「こちら側の自分」と「もう一人の自分」との間を往復する。「もう一人の自分」は、
具体的な他人からうける刺戟によって形成されることもあろうし、また人間の記憶の中に蓄えられている
ものがふと顔をのぞかせる場合もあろう。この「二人の自分」(二つの側面)のどちらかにかたよれば、
頑固ものとなるし、あるいは自分のない「フライング・ダッチマン」(さまよえる幽霊海賊船)となろう。
このような様々な心の多元性を認めるというのは、とりもなおさず、自分の心の中に多様な自分を併存
させているということである。併存させて常にそれをぶつけあうことから創造が生まれ、より豊かな自我
が形成される。そのためには併存のバランスとりと、自分側の統合力、その繰り返しに堪える能力とが必
要条件となる。
これは科学的思考の形成と同様であり、また創造性を大きくしやすいともいえる。確かに定式化、テキスト化しにくく評価が難しいが、「人間関係によっても知識を得る効果があるし創造性も豊かになりやすい」とその重要なことはうったえることができるであろう。これに対して、「意図的」教育・教科は、テキスト化中心ゆえに受験優先のつめこみ暗記型となりやすく創造性は期待できないし、人間関係も稀薄になる。
では、具体的にはどうすればよいのか。これが次に求められるであろう。従来の「意図的」な教育をやめるのではなく、これを基礎であると認識して内容も評価も変える(減らす)ことでバランスをとり、楽しく有意義な人間関係がもてる学ぶ場つくりが必要となる。結果的には「教科書内容の精選」や「新学力観」の動きと同じようであり「かわりばえのしない」との指摘もあろうが、教授中心の「意図的作用」重視のスタンスとは明らかに違っている。『意識』『認識』することで同じ行為でも意味は違ってくる。現段階では曖昧なままであり、ここで具体案を提示することはできないが、とにかく「人間関係=無意図的作用」にも優れた教育的な効果が期待できることを指摘しておきたい。教育の矛盾である平等からくる平均化や保証という点で困難ではあるが、根本的な問題解決のためには、根本的な発想の転換こそが必要であると考える。「教育」は複数の「教育的関係」によってなりたつものであり、「人間関係」がそもそもそのベースとなっている。先人により築き上げられた文化を継承していくという意味においても、教育の原点とは「人間理解」であることはいうまでもない。また、より多くの人間関係を通して、この継承したものを発展させ、新しいものをつくりだし、後世に伝えていくという「時代を越えた人間関係を結んでいく」という使命をも負っているのである。
我々の現在の生活内容は、人類史が累積してきた『問題発見・解決』の結果物である。人は生活の上で
様々な問題に直面する。古来、人間の直面する物質の問題は次々に解決・蓄積され、進歩が行われてきた
が、人間関係(人間と人間の問題)は人類にとって永遠のテーマといえよう。個人と社会・連体と自由、
平等、人権などの困難な問題であり、同時にきわめて現代的な問題でもある。世論をみれば「散骨」「夫婦
別姓」「脳死」等の社会問題も、人間観と関連したある種の人間関係の問題である。また、犯罪の低年齢
化傾向・残酷性・凶悪性の増加や、大麻・覚醒剤不法所持使用等がジャーナリズムにおいて論じられる時、そ
の背景となる荒れた人間関係・親子関係が必ず問題視される。
家庭では、親たちが子どもたちとどんなふうにつきあっていったらいいのかに苦心している。ある年ご
ろを過ぎると、子どもは自分自身の世界を持ち始める。幼児に対するような保護的態度で子どもを扱うわ
けにもゆかないが、全面的に放りっぱなしにしておくわけにもゆかない。適当に自主性を尊重しながら、
お互いに気持ちの良い親子関係を維持していくためにはどうしたらいいのか。それが家庭における人間関
係の問題である。
家庭中心の生活をしていた幼児は、入学(入園)を境に、今まで経験したことのない未知の世界に入っ
ていく。学校、そして企業・組合・政党等は血縁・地縁によらない人為的人間関係「社縁」によって結び
つく。つまりは、とりまく人間たちは、おおむね「他人」なのである。現代社会は、これほど人間関係が
こみいり、しかも人間関係が社会運営のために決定的に重要になってきているにもかかわらず、お互いに
熟知しあった関係が成立しにくくなっているのである。子どもたちは、その中で、教師との関係や友人と
の関係について、新しい行動様式を学習し、学校生活に適応していかなくてはならない。また児童生徒の
性格は、このような集団活動における適応の過程を通して形成され、変容していく。
このように人間関係は絶対的に重要不可欠なものであり、例えばクルプスカヤも、教育において (1)子ども
に自分を表現する機会を豊富に経験させること、そして (2)他者を理解する能力が必要である、と述べている。
○ 主要参考文献
内田義彦『読書と社会科学』(岩波新書)
田中孝彦『人間としての教師』(新日本新書)
波多野完治・滝沢武久『子どものものの考え方』(岩波新書)
加藤秀俊『人間関係』(中公新書)
3 現代の教育制度と教育内容の問題
〜 現代の教育はどのように構築されたか〜
・・・子どもの成長過程において、様々な人間関係による問題が起こるがそれは一個人の中での「他人理解(他人の考えを創造する)←→ 共感」と「自我の形成(アイデンティテイ)←→ 個性の成長」の過程であるとも考えられる。その理解のズレも新しい発見(独創性)を生む可能性がある。教師としては、ダテに教職科目で「教育心理」等があるのではない。その心理学知識を生かし、臨床に留意しながら、児童生徒の人間関係を見守り、より良い成長を促すことが重要である。教育問題が多く見られるが、それは個人的な対処療法のみではなく、社会的な予防も必要であろう。教育の原理、つまり本質とは何であるか。その本質は正しいのか。正しく機能しているのか。それならば何故問題が無くなることがないのか。・・・人間関係の問題は永遠に解決されることがないかもしれない困難なものである。しかし、知恵の発達にも係わる重要な視点でもある。
その重要な教育の原理、本質が、現在の学校教育体系の中で忠実に実現されているとはいえない。そのため現在の教育制度がどのようにして成立し、どのように展開してきたのかを少し簡単に見ていくこととする。
1、戦後の教育改革と6・3制学校システム
子どもの成長過程には年齢ごとの発達段階での差がある(例:園児と小学校3年生、中学2年生と高校3年生では全然違う)。だから段階ごとの適した内容が必要となり、学年別のカリキュラムや小・中・高校といった学校の段階区分が必要となった。これは理に適ってはいる。
ただこれを制度化すると・・・均一のために定量化・定式化(数や公式のようなもの)されて管理されるようになり、やがて点数・学力や受験重視となっていく。進級・進学するための授業(何かを身につけるということは、進級するということ)になりやすいのである。
制度が発達することが近代化(社会化)であるならばどこの国でも必ずこのような問題が発生するはずである。とにかく「子ども・人間の理解」が「点数・学校レベルの理解」(肩書主義→学歴主義)となっていくのである。教育制度は時間が経過するほど固定化・硬直によって無意味なものとなり、逆に様々な問題、矛盾が表面化するのである。
今、日本ではどこでも小学校6年間、中学校3年間の義務教育があり、その後高校3年間などへ進むという学校システム(6・3制)となっている。国内で統一され制度化されているのである。
1997年の中教審の提案には「飛び級の実現」があった。「一定の学校段階を飛び越えてはどうか」との提案であり、つまり小学校・中学校・高校と続く(6・3・3制)固定化が教育問題の原因だといっているのである。
では本当に6・3制といわれる学校階梯が悪いのか。それがいつできたものなのかを簡単に見てみよう。
この6・3制(あるいは6・3・3制)の単線型学校制度は「19世紀後半から20世紀初めにかけてアメリカで成立し、わが国では戦後教育改革で導入され」たのがはじまりである。
第二次世界大戦は簡単にいうと(一面では)「ファシズム」(ナチスドイツ、ムッソリーニのイタリア、天皇制日本)対「連合国(民主主義・社会主義)」(アメリカ、ソ連ら)との対立戦争であり、結果は日本らの敗戦、米国らの勝利であった。日本は主に米国に占領され、したがって民主主義化がすすめられることとなった。天皇制皇道思想は近代化=民主化にそわないので廃止とされたのである。(下の略図を見てもらいたい)
終戦直後の教育管理政策の問題天皇制のあつかい
(日本側、連合国軍最高司令部<GHQ>の管理政策観)
↓
新教育指針の刊行
○アメリカ対日教育使節団の来日、民間情報局<CIE>
○教育刷新委員会の設置(日本教育家の委員)
↓
新憲法における教育規定制定(日本国憲法・第26条、教育を受ける権利)
↓
○教育基本法の制定(1947・3.31)・・・教育の機会均等
○学校教育法の制定(1947・3.31) ・・・新学制六・三制の実施
ただし単純に占領してすぐに変わったわけではない。簡単にいえば、米国は日本を一時占領したが、全てを強制的に変えるわけにはいかなかった(そのやりかたは『民主的』ではない)。それで「日本側の委員」と「米国側GHQとCIE」という委員との間で民主主義・個人主義的教育理念にもとづく新しい制度がつくられたのである。戦後であるから「平和国家」「軍事教育の廃止」「日本の独立」がはかられるが、先ず占領下つくられた新憲法「日本国憲法」に「すべて国民は能力に応じひとしく教育を受ける権利」が定められたことが大きい。それまでの大日本帝国憲法(明治憲法)には教育規定が欠けていた。その憲法体制の下、「教育基本法」という新しい教育法がつくられ、戦前の教育勅語体制を廃止することとなり、教育の機会均等が設定された。普通教育の普及向上を目指し「学校教育法」が定められ、これにより義務教育の6・3制学制が確立したのである。(ただ、この6・3制によって普通教育の普及向上・機会均等はなったが、これが後に形式化して受験戦争やいじめ、不登校などの教育問題につながっていくともいわれる)
2、戦後の教育課程(教育内容)の変遷
(1)学習指導要領の成立と変遷、戦後教育の教育内容
戦後、新しく6・3制に変わったが、教育内容・教育課程も大きく変えられた。民主的な学校でどのような内容が教えられることとなったのか。どのような内容を全ての学校共通の教育内容と考えたのかを次にみていく。新しい学校教育の内容を規定したものは「学習指導要領」である。また「従軍慰安婦」などの教科書記述の問題も叫ばれるが、こういった内容も教科書検定によって文部省に管理され、日本国内どこでも一定の教科書で、一定の内容のものが、一定の時間内で教えられ、一定のテストによって点数化されるということが可能となった。
「学習指導要領」とは小・中・高等学校の教育課程の基準を示した文部省告示文書である。アメリカ教育使節団の勧告('46)により、47年、従前の教授要目、国定教科書教師用書にかわり、「学習指導要領・一般編」〔試案〕を発行した。その序論には「新しく児童の要求と社会の要求とに応じて生まれた教科課程をどんなふうにして生かして行くかを教師自身が自分で研究して行く手びきとして・・・」とあり、当初の目的は、指針であり、手びきであったことがわかる。当初は各学校ごとの独自性が認められていた。ところが現在では規定内の教授しか認めていない(というよりもそれで精一杯になっている)。その変遷をみていこう。
☆その経緯を略記する。
1947年、「学習指導要領・一般編」〔試案〕を発行(3月)。実施4月〜。
高校「新制高等学校の教科課程に関する件」通達(4月)。
1951年、改訂。(7月)
1955年、高校学習指導要領改訂(実施は56年) 、「試案」の字が削除となる。(12月)
小・中では「社会科編改訂」
1958年、改訂(小・中) 、道徳時間の特設、科学技術教育の重視。(教育内容の現代化)
官報告示。(文部省は学校教育課程の拘束を主張、教科書内容の統制進む)
実施、小(61.4〜) 中(62.4〜) 、道徳は58.10 〜。
1960年、高校学習指導要領改訂(実施は63年) 。
1968〜70年、改訂。教科内容の現代化、小学校から集合、関数など導入。神話教育復活。
実施、小(71.4〜) 中(72.4〜) 、高校(73.4〜) 。
1977〜78年、改訂。教科内容の過密化を改善するとし、授業時間の削減、前回導入の集
合を削除、「ゆとりの時間」設定。高校では「習熟度別学級編成」導入が提示。
実施、小(80.4〜) 中(81.4〜) 、高校(82.4〜) 。
1987年12月、臨時教育審議会答申をうけ、教育課程審議会は、道徳教育の充実、(小) 低
学年の社会科・理科の廃止と生活科の新設、(高) 社会科の「地歴科」「公民科」
への分割等をもりこんだ答申を発表。〔他に「格技」を「武道」に〕
1988〜90年、上答申をうけ、学習指導要領は戦後6度目の改訂。
実施、小(92.4〜) 中(93.4〜) 、高校(94.4〜) 。
(2)「学習指導要領」をどうとらえるか
官報告示方式の学習指導要領が国民教育の水準を支えているとして、その法的拘束性を容認する論理があるが、教職員組合・民間教育研究団体・教育学者等から、その法的拘束力の付与は教育内容・方法における教師の職能的自由を制約し、ひいては国民の教育への権利を制約することにつながると指摘されている。
現在小中高校で施行されている教育内容を記した1989年公示にも、さまざまな新しい提案があるように見えるが、しかしながらよく検討すれば、古典的指導原理、すなわち天皇主義・国家主義への国民(子ども)意識の集約と、能力主義の徹底という旧原則が中心となっていることがわかる。
教育実践の主体的担当者としての教師が本来教育課程を自主編成する権利・義務・責任を持つとすれば、この「学習指導要領」の法的・性格の矛盾を考え、そして対処・つきあい方をみいだすことが重要な課題となる。
(3)「学習指導要領」における矛盾
「学習指導要領」には次のような矛盾がある。
@その成立時と途中からの方針転換による、法的拘束性の矛盾構造。
A憲法、教育基本法に則して作成されたはずだが、根本原理や精神に抵触している。現在、
世界で論争されることに、あえて特定の立場や解釈や価値観を採用している箇所があ
る。(天皇、国歌、国旗、等。もちろん内閣側の影響が強い)
B「指導・助言」文書であるはずが、あたかも、上から命令し忠実な実行を求める「指示
・命令」文書であるかのような表現がみられる。特に具体的内容や取り扱いになれば
なるほど「〜すること」という方向と「〜しないこと」という方向との両面から、事
実上の規制が加えられ、「特性を考慮」したり、「創意工夫を生か」す予知が極めて
狭くなっている。
C個性化・国際化・情報化のキャッチフレーズ強調にもかかわらず、その内容・方法の中
には結果としてねらいにそむく可能性をも含んでいる。
・個性化児童の個性的発達をいうのか、それとも能力差(個人差)にそった分断
的個別指導となるのか。
・国際化地球的レベルでの国際連帯実現の担い手か、それとも日本の国益を最優
先させ、国際経済競争に勝つ日本人の育成をめざすのか。
・情報化情報についての教養と情報機器の使用技術・技能を育てるのか、それと
も受動的なコンピュータ操作にとどまるのか。
以上に加えて、さらに「学習指導要領」で述べていない点を、指導書で補い、両者がセットとなって枠組みに押し込み、これらが教科書検定などにも採用されて、教育現場に決定的な影響を及ぼすことになっている。
また、関連した諸制度・諸問題・諸条件の影響によっての規制も考えられる。(入試制度・偏差値・評価・教科書・教育環境・施設・設備・地域・文化状況など)特に、上級学校への入試制度によって大きく左右される。中学校での選択教科制や習熟度別学習編成が、めぐまれた条件のもと、教育の自由の保証の下で行われなければ、容易に受験体制へのめりこむコース制に転じる可能性が高い。
☆考慮すべき問題点として次のようなことが考えられる。
@法的拘束性、A成立経緯の歴史的考察、B比較対外研究〔各国での国民規模カリキュラムとの比較〕、C各教科ごとに考察〔特にその指針を読む〕、D道徳の項目〔いろいろからむ重要な課題である〕、E総則中の新項目〔新教科も含む〕、Fその存在意義〔というより、むしろ、つきあいかた、対処のしかた〕、G作成権者としての教育委員の役割、「学習指導要領」代案をつくる
(4)教育改革推進の社会的背景、臨教審答申の基本的立場
1982年中曽根内閣成立後(翌年)の教育改革着手には、いくつかの根拠があり、それらの根拠は一つ一つ個別バラバラの出自と性格をもっているが、全体としては時代状況に一つ一つリンクして全体としての統一を生み出しているので、まずそれを示す。
@「行政改革」(いわゆる行革)変革上の新方針延長線上に位置づけられる。
A中曽根個人のイデオロギー性と、保守党内での位置。中教審批判、教育改革を中教審でなく内閣直属の臨時教育審議会でと希望。新産業育成(国家の経済戦略)の教育推進により、世論を操作し依拠する必要、党内での足場作り。
Bマスコミの教育荒廃キャンペーン展開、教育問題の報道。外的条件。
以上から臨教審は、精力的に審議活動をすすめ、85年6月に第1次答申、86年4月に第2次答申、87年4月に第3次答申、同年8月に第4次最終答申を行い解散した。
第1次答申は、受験競争の過熱、いじめ・いびり、青少年非行、登校拒否、校内暴力など教育荒廃現象の原因をあげたが、子ども・親・教師に直接的原因があるとし、「背景」については何も分析していない。常識では背景と直接的原因とは結びあっているものだと考えるのであるが臨教審はそう考えない。むしろ背景(社会経済・都市化らの進展、発展等)を肯定、助長し、さらに進展、発展させ、学校や教育制度をそれに対応させようと主張している。つまり、つきつめればどうしてもある種の結論に行き着いてしまう発想の原理を変えて、むしろ社会・経済の進展、発展の方向に学校や教育制度をいかに適合させるか、そして本当の問題をいかにして技術的問題に転化させるかという点に関心をしぼったのである。子どもや学校の問題状況という当初の議論はこの段階では用ずみであった。
「自由化」か「公教育擁護」か? 「個性尊重」がスローガン、第1次答申の中心概念となる。第2次答申以降では「生涯学習」が中心となる。しかし主体が国家となるジレンマがあった。
「自由化」は国家の国民に対する教育サーヴィス水準の切り下げを意味する「民活導入」を中心とすることとなり、生徒の「自由化」は実現しなかった。
1984年2月の首相ブレーン会議メモ「21世紀のための教育改革の五原則について(案)」では「国際化」「自由化」「多様化」「情報化」「個性尊重」が基本的考えとされていた。ちなみに後の宮沢総理は「創造性、国際性を重んじる教育の普及」を目標にあげていた。
さて、その後、政権は激しく移動を繰り返し、首相・各大臣等の入れ代わり、政党・派閥の入れ代わりが目まぐるしく、一見不安定であるが、その数年間も教育は実施され続けている。何かが決定されても、それが施行されるのは数年の移行過程(時間)が必要であり、その意味では敵対政権(権力)の決定事項が次代に実施され、次代政権はそれを先送りで何も疑わずに擁護する(ことが多い)。その構造自体が大きな問題ともいえる。
現在の政権は、あるいは文部省は、この学習指導要領の問題をどのように把握しているのであろうか。あるいは、現在の首相はどのような教育理念を持っているのであろうか。教育問題の責任は、当事者のみの対処療法だけでなく、また学校や教師、あるいは家庭環境のせいにするだけでなく、「社会」との関連も考えなければ「予防」することは難しいと思う。その社会の責任は、政府や与野党員等の指揮者たちにもあるといえる。様々な困難な問題に対処して解決するという意識と責任感を期待しつつ、我々各人も協力すべきだ
3、近代教育内容の変遷
教育とは文字通り「教え育てる」行為であるが、つまり「何を教えるか」によって「どのように育つか」が決まるのであり、教育内容=カリキュラムが決定的な意味をもつ。ここで小学校教科課程の変遷をみてみる。
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図の左から見ていこう。近代以前の江戸時代には儒教、読み、書きが中心であったが、明治維新を経て「学制」(最初の近代教育法令)では全く違った教育内容となった。一見すると「国語」関係の教科がたくさんある(細かく分けられている)のがわかるが 、これは英語教育の方法、米国の教育課程の影響である。とにかく西洋式・米国風に変えられた。次に明治12年(7年後)には「より日本にあうよう」変えられ、国語科目が整理され少なくなった。さらに翌年には「日本精神」が重視され「修身(天皇制道徳の教科)」が最重要科目(トップ)となった。これ以降、しだいに天皇制重視の内容となっていくのである。明治23年には教育勅語(天皇制)体制も確立し、「日本」的教科のみとなった。そして戦争前には学校の呼び名が「国民学校」となり、体錬科の武道など戦時体制の特徴がでていた。戦後は社会科がつくられ、民主的で総合的な教科となってきた。米国占領の影響である。
さて学習指導要領について学んだが、今、天皇制的な慣習(日の丸、君が代)が復帰傾向にある。これらは戦後20年経過した昭和40年頃から復活してきた。実は明治維新後も約20年間で天皇制が確立した。このことには意味があるのではないか。
「学制」は西洋風・米国風であった。当時の小学生は初めてこれを学んだ世代である。この教育を批判するのは米国風に抵抗のある大人だ。自らにはその教育を受けた経験はない。若者をみて嘆き(なげき)「日本風に」と変える。さらに「軟弱」を嘆き、日本精神の復活を求める。そこで日本精神の根本としてとらえられるのが近代以前の学問での「日本の元首=天皇」である。このようにクレームをつけるのは常に被教育者ではない大人なのである。戦後も新しい民主的・米国風教育を受けるのは子ども・青年であるが、それに「道徳が足りない」などと文句をつけるのは「大人=権力者」(戦前の天皇制教育を受けてきた→つまり批判された教育の被教育者)なのである。ようするに必ず同じように「我慢できない」のである。だから必ず繰り返されるのだ。また日本人とは統一され管理されることに慣れきっている(楽と感じて安心する)ともいえる。
★レポート
卒論や現在興味をもっている教育に関するテーマについてレポートを書き、それを各自が発表した。 (HPには掲載しません)
上野 恵子「自閉症に関しての教育的意味の在り方について」
江森 淳子「テレビが子どもに与える影響」
大塚 里美「動物園をめぐる親子の関係」
越阪部 恵美「ダイオキシンについて」
金子 照美「未熟児保育の実態と問題点」
河野 淑子「児童文化としての子どものうた〜明治から現在までの史的考察〜」
斉藤 恵子「子どもの疑問とその対応の仕方〜子ども電話相談室〜」
佐藤 絵梨「幼児の愛他行動〜愛他行動といじめ〜」
谷川 美樹子「子どものアレルギー」
当間 仁子「先天異常に関する研究」
中田 愛子「登校拒否について」
長谷川 忍「障害児研究」
山田 織絵「ダウン症児について」
後 期 の 講 義 の 内 容
★ ディベート『現代の学校の何が問題か』
前期の講義で「学校教育の問題」について考えてきた。本や新聞で読んだりテレビを見たり、あるいは授業できいてわかることもあるが、本当に理解するためには「自分(や友達)」がどう考えているのか主張できるようになる必要がある。各自が問題視する視点は少しずつ違っているはずだし、だからこそ意見を交換する必要がある。そこで現代の学校の問題について賛成派と反対派の二つに分かれ討論をこころみた。その中で各自必ず何か意見を言う、発言することを決まりとした。その内容の一部を紹介します。
・・・司会者「皆さん自身がこれまで学校教育を受けてきているが・・・反対派の皆さんは学校を批判する立場なので先ず何か問題点をあげてほしい」
学校反対派 「学校は管理の面ばかり強調されていないか。特に内申書・内申点の評価
などによって、脅迫されている」(ともいえる)
→学校擁護派 「内申書・内申点はペーパーテストと違って人格重視といえるのではない
か」
→学校反対派 (内申点のために)「教師の前でだけ『良い子』を演じることになってい
ないか」
→学校擁護派 「『良い子』として教師に評価されることで自信をもつ子どももいる」
→学校反対派 「しかし本当に内気な子どもは行動に出れず評価されない」
→学校擁護派 「そういったことは教師が見抜くべきことである。良い先生、わかる先
生、見ている人はちゃんと見ている」
→学校反対派 「いや、見ていない人は見ていないのであるから問題だ。好き嫌いになっ
ていないか」
→学校擁護派 「では内申点がないとすると、ペーパーテストの点数だけでつけるという
ことになる。それでいいのか」
→学校反対派 「人間性に点数をつけるのはまずい」
・・・司会者「内申点がだめなら、どうすればいいか」
→学校反対派 「点数をつけて人間を評価することが問題。評価しなきゃいい」
→学校擁護派 「進路、就職等の時の基準、目標がわかる。目で見える評価として点数を
つけるのは必要」
→学校反対派 「そんな点数は、実際に就職しても役に立たたない」「もっと、特技や個
性を見て欲しい。資格も選択でとって、それを評価してほしい」
→学校擁護派 「そういうものは内申書に書かれている」
→学校反対派 「内申書に書かれるために活動をするようになる。ボランティアなんかも
実際はそうなっていることもある」
→学校擁護派 「ボランティア活動を最初は点数のためであってもやることによって結果
的に良くなることもあるのでは」
→学校反対派 「実際に点数かせぎであれば、それはボランティアではないから評価すべ
きではない。そういう人はさぼるし、それでも評価されるのか」
→学校擁護派 「強制的にさせるのではないのだから、それはその人の勝手。さぼるのも
勝手」
→学校反対派 「点数をとるためにやる人といっしょにされるのは、真剣な人にとっては
迷惑である」
→学校擁護派 「そういう人は必ずわかる。教師がチェックすることだ」
→学校反対派 「でも先生の前では『良い子』だから、わからない。わかるのなら問題に
ならない」
・・・司会者「教師と生徒の人間関係だけでなく、他に学校の問題点は何かあるか」
→学校反対派 「規則。きまり、しばりつけが強く管理的すぎないか。最低限のルールだ
けでいいのではないか」
→学校擁護派 「なかったらまとまらない。社会に出てから困らないためにもある程度の
規則は学校に必要と思う」
→学校反対派 「例えば服装。制服を着ることは必要か。個性を育てることができにくく
ないか」
→学校擁護派 「その中で個性を発揮。だいたい入学する時に前もってわかっているのだ
から選択できるはず」
→学校反対派 「成績で点数化されることによって、そこにしか入れないという限定の現
実がある」「全ての学校が同じならともかく学校によって差があるから問
題。徹底していない」
→学校擁護派 「学校にだって個性・特色がある」
→学校反対派 「一人一人の個性は服装についてはどうなるのか」
→学校擁護派 「服装とか以外でも個性は判断できる」「学校内で自由にということでな
く、遊ぶ時とかに自由にすればいい」
→学校反対派 「学校では不自由ということ。学校では自分をごまかし、我慢するしかな
いというのが現実」
→学校擁護派 「けじめや我慢というのは身につけておくべきことだ」
・・・以上が主な意見でした。単純な賛成、反対でなく様々な意見があるようですが、時間の関係上、また事前の準備もできなかったため十分議論ができたとはいえません。ただ他人の意見・主張をきき、自分の考えを発言することはとても刺激的なことでした。
4 教育課程と教育による規制
1、教育課程の変遷
「教育課程」とは「教育内容・教科=カリキュラム」をコース・年齢(学年)ごとに配分したもので、この順序によって、望み通りの「教育効果」を得ることを目的とするものである。
人間には規制、ルール、しばりつけが必要なのか・・・。今、「犯罪の低年齢化」や「モラル低下」等の問題から「心の教育」「人間の教育」という名のもと、モラル・道徳の強化が叫ばれる。その一方で児童・生徒側からは時間的拘束による圧迫、受験の重圧、学校規則の硬直性への批判がある。
前回のディベートでも、内申書や点数化によるしばりつけが問題とされた。また校則の不自由さに不満をもち「個性と自由」をうったえる者もいた。しかし実際にはルールがないと「おちる」者もいる。現に評論家は少年法改正を(もっと厳しくと)とうったえる。また勉強も教科書と試験で教師が引っ張らないと・・・人間は怠惰なものだから勉強しない一面があるのも事実であり、その強制によって救われている者もいるだろう。
そもそも規制とは何か・・・。馬の調教を例にあげ、その方法の変化を見てみよう。中世以降、馬は人類の交通手段・武器として重要な意味をもったが、自在に操るために轡(くつわ)という物を口に咬ませそれを手綱で引っ張った。外側を見れば現在の競馬場の風景と同じである。しかし当時は轡に針がついていた。つまり外から見えない口の中で針(刃物)が刺さっているのだ。当然痛い。右に手綱を引けば、右口内に針が刺さり痛いから馬は右を向く。つまり右へ曲がるのである。こうやって操縦していた。ちなみに西部劇に出てくるカウボーイブーツには踵(かかと)に拍車(はくしゃ)という飾りがついている。とてもお洒落である。金属の円形電気のこぎりみたいなクルクル回るやつを見たことがあるであろうか。あれも実は馬の横腹を蹴って刺すことによって「痛み」を与えてコントロールするためにあるのだ。ところが近世から近代にかけて、残酷行為を嫌う風潮から、餌などで飼育する(うまく育てる)ようになっていくのだ。「野蛮な行為をしない」というのが近代人の信条として広まっていった結果である。
動物における心理実験(モチベーション・動機づけ・潜在意識)でも規制の効果を理解することができる。サーカスの巨象は細い紐一本で逃げないが、子象の時に逃げれないように頑丈な鎖で縛っておくから、それに慣らされて暴れなくなる(あきらめる)のである。また犬の首輪に遠隔操作で電流が流れるようにして放し飼いにして、ある地点で必ず電流を流すようにすると、縛っておかなくとも檻がなくともそのテリトリーから出て行かなくなる。パブロフの犬の実験や、池の鯉が餌づけの時に手をたたく音に慣れるのと同じである。「しつけ」られ、「慣らされ」ていくのである。強制から慣習として受け止めてしまう。
親子以外へのしつけ。これらは人間に特有の方法である。野生動物同志の争いと違って、人間は支配・従属を求めた。ナンセンスなことであるが、百獣の王といわれるライオンが(同種の群れのみならず)犬や馬を従えている姿がありえるであろうか。直接の食糧でなく支配を求めるのは人間のみであり、人間は人間をも支配するのである。暴力を繰り返せば、いつか自分の力も衰える。力に生きると力の限界や怖さがわかる。それで「ルール」や「徳」や「知」、「愛」、「慈」を説く。「平和」を説くが、半分以上は自分のためのものである。「政治家」「宗教家」「教育家」が登場し「政治制度」「宗教」「教育制度」として形づくったのである。また他に見えない制度としての「象徴」もある。昔の校庭に見られた二宮金次郎像、乃木夫妻の殉死などの逸話で「理想的な人間の生き方のモデル」をすりこむのである。校門・校庭に桜の樹を植えることによって学期や儀式を意識する効果がある。とにかく人間は慣らされやすくなっている。忙しく、その意味を考えず疑わないので支配しやすいのである。
イヴァン・イリッチが『脱学校論』を説き、「学校で支配が再生産される」と述べた。そして「社会が学校化されてきた」という。これも一面で事実であろう。ただ、あえて言うならば、学校は実際にはもともと「支配の装置」ではなかったか。「立身出世」や「実学」という幻想に操られていたのではないか。その恩恵を実感できない人が今、増えてきているので問題が発生(表面化)したのではないか。学校はそれでも生き抜かなければならないので、無意味な「立身出世」という受験戦争に勝ち抜くしか生きていく道がなくなってしまうというジレンマがある。また学校の個性やセールスポイントが校舎、サービス、制服や自由さだったりするのである。
少し話が遠回りになったが、教育課程とは規制・しつけから始まったことを述べておきたかったのである。古代ギリシャにおいてプラトン、イソクラテス、古くはアイスキュロスらがPaideia(一般教養)というものを提起した。これは教育論のはじまりとされるが内容は「子どもは人前で口をモグモグしない」「座り方は膝を前に置く」「食事は年長者から」等という、むしろ子どもの養育、躾け、作法ともいうべきものであった。
この中で教育課程としてはプラトンは数学を重んじていた。17、18歳まで自由に数学・幾何・天文学らを学び、これに20歳までは強制的な体育訓練を加え、30歳ぐらいまでに全体的に結びつける。その後35歳ぐらいまで哲学問答を経て、50歳まで公務につき、それ以降は国政につき、哲学を説くこととした。これとは違ってイソクラテスは弁論を重んじて、「人間が人間であるため」に言葉、文学、修辞学を教育課程としてふりわけた。
これらの教育内容は科学の発達、生活の向上でより複雑になり・・・、人間が長寿化し知識が増えるにしたがって、効率的にふりわけられた。科学的になったのである。一面で硬直であり、形式的になったともいえる。変化にとぼしいのである。ルールも世の中の変動に伴って硬直化していった。
実際に近世社会において、民衆支配の役目は、多くの国で「宗教」=教会・寺が請け負っていた。これが大抵国の権力者と結託して封建的支配を可能としたのである。この宗教に変わって、国民の受け皿となった(というよりも宗教を排した)のが学校であった。聖書や寺子屋に変わって、全国民を対象に国語・母語を普及させ、国民意識を徹底させることができたのである。
さて現在の教育課程は実学であるのか。その課程を修了して何を得るのかといえば、すでに「ノーマルである安心感」「世間体」ぐらいのものではないか。進学することが実学なのか。就職して生活に役立つのか。これらの大きな問題を抱えている。ただ、他人が集団になっていろんな体験をすることで学べることは貴重である。私はこれだけは学校の存在として「善く」そして「救われる」点だと考えている。
2、生徒の自治、クラスの制度化とホームルーム
「いじめ」「登校拒否」などの人間関係に起因することの多い問題はどのようにすれば解決するのだろうか。何が問題・障害となっているのであろうか。授業以外に学校内において人間関係・交流が行なわれることがなければ、問題は解決されるなずもない。学級において教師はこれらに手をつけ、目を向けることは不可能なのであろうか。カリキュラム上では、これらの問題を避けるために、人間関係・他者理解・相互理解の機会があらかじめ設定されている。それが「学級会」あるいは「ホームルーム」である。では何故実際の問題を防げないのか。ここで、「ホームルーム」について日米との比較を試みる。比較によって日本教育の特色と、現在の日本教育の問題とは何かがみえてくると考えられる。
ホームルーム(home room)は、小・中学校では学級会活動と呼ばれる。教科指導以外の特別活動を担う重要な基礎集団とされている。学習指導要領では、『学校における生徒の基礎的な生活集団』と規定し、そこでは「@集団生活の充実に関すること、A学業生活の在り方に関すること、B進路の適切な選択決定に関すること、C健康で安全な生活に関すること、D人間としての望ましい生き方に関すること」を取り扱う、となっている。
「ホームルーム」の発祥はアメリカ合衆国である。もともと米国の中等学校では教科担任制を主としていたが、1920年代以降、生活指導に責任をもつ仕組みとして、「ホームルームとその担当教師」という組織が普及し、それが45年以後、日本の学校にもとり入れられた。学級とホームルームを場とする活動は、現代の教育実践の重要な局面の1つとして中心となっており、民主主義と人間的連帯をめざした実践が積み重ねられている。以下に簡単にその概略を記す。
(1)類似点(日米のホームルームにおける類似点)
@ほぼ中等教育の大衆化と同時に制度化された。
Aガイダンスの場として利用される。
B生徒の自主的活動の場か、それとも管理の場かという曖昧な性格を備えている。
C生徒に関する資料収集の場となっている。
(2)差異(日米のホームルームにおける差異)
@日本は、学級即ホームルーム。米国は、選択教科制度に基づく生徒の移動を前提として制度化した。
A日本は生徒(生活)指導の場として固定され、ガイダンスの機能を維持してきた。担任教師に多くの期待がかけられる。米国は制度化からおよそ30年程して、担任ではジェネラリストたり得ないとして専門家(カウンセラー等)を導入した。
B日本は予め生徒に関する詳細な資料を獲得し、それによってガイダンスを行なう方法を堅持している。
C日本は週に1時間分のLHR が確保されている。米国は情報伝達の場に徹している学校やホームルームをもたない学校もある。当初から長い時間は確保されなかった。
(3)米国におけるホームルームの制度化
米国のホームルームの原形は、教室を1つしかもたない伝統的小規模学校において、1日のはじめに行われていたrecord room などと呼ばれる「出席をとったり、報告事項の伝達や講和がされた」時間であった。やがて今世紀初頭に中等教育改革が起きて公立ハイスクールが飛躍的に普及すると、都市の大規模な学校ではカリキュラムを改造し多様な選択教科が発足、生徒が教室を移動することで学校運営の効率化を図った。その生徒の教室移動が常態化するようになると、出席、スケジュール、成績の管理・処理が必要となってくる。これが組織形態としてのホームルームの起源である。選択移動制のもとでは生徒と教師、生徒同志の個人的触れ合いは希薄となるので、これにガイダンス的機能が付け加えられ、ほぼ現在いうホームルームとなり、名称も変化していった。
このころのホームルームは、学年ごとにアルファベット順、異学年混合、学力別、出身学校別といった様々な構成があり、毎朝10分から20分、授業前に行われることが多かったようである。ホームルーム内には委員長、副委員長、秘書(書記)、会計などが設置され校長の助言の元、学校経営に関与していった。生徒会(student council)のもととなったとも考えられる。また、朝5分間の点呼以外に、昼、午後などにホームルームを数分間もうけて、生徒の学校脱出の監視としている学校すら存在していた。
以上のように、当初から、生徒による学校経営参加の母体、自主的活動の場としての側面と、ガイダンス(いわゆる生徒指導)、生徒管理の場としての側面を兼ね備えた曖昧な存在であった。(日本はそれを強調している)
(4)日本におけるホームルームの制度化
日本も新制中学校・高等学校創設期の昭和20年代末までは、米国をモデルに生徒の移動システムの採用が文部省によって支持されていた。(戦後、直訳の時代)しかしそうはならなかった。背景には戦前からの学級中心主義や、戦後の教員・教室不足等があったと考えられる。また、特に(1) 道徳教育の場、生徒のガイダンスのためという基本的性格が維持された。さらに、学級集団の固定性(生活指導論や学級づくり論)を高めるための(2)集団主義教育の場、として貢献した。その発想からは米国式の移動性には行き着かない。 もちろん、例えば「いじめ行為」などにも有効な、人間関係づくりも、学級づくりと一緒のものと考えられた。生徒が教師に「この先生になら、なんでも打ち明けられる」というような、真に親密な(at home)信頼感をつくりあげることが目標であった。その意味で当初の構想としては悪いものではない。ただし、現在では逆にこの固定化された集団の中での信頼感のなさから、「いじめ行為」などが深刻化してきているのだ。まるで村落共同体のように構成員全員の信頼関係を築こうとしてきた、学級を団結と競争の場としてきたことの1つの帰結であるのではないか。
(5)問題点
米国は1950年代にはガイダンスとしての限界を認識し、個別のガイダンス、カウンセリングへと問題処理、対応の重心を移動させている。ホームルームそのものをもたない学校もある。
日本はこの1・2年でスクール・カウンセラーが注目され、学校に設置されようとしているが、実態はお寒い状況でしかない。単純にカウンセラーを制度化すれば解決されるのだろうか。
また、ホームルーム担任=学級担任の職務と責任は過多である。これでは、十分に親密な人間関係など望めないし、また分業確立の米国とは異なる。さらに生徒の資料収集に引きつけられすぎて、一般に各学校単位でプライバシーへの配慮を欠いたといわざるを得ないような調査が近年にまで行われてきたことも指摘しておく。
米国と日本との違いから、「米国の方法の良い点を採用する」ことが解決方法と言われている。しかし、単純ではない。できるなら、もっと早期にできていたはず。・・・
5 日本教育の近代化、学校教育制度の成立
〜教育史研究の視点・方法から『教育の本質』を考える〜
1、近代教育史研究の概要
日本の教育が近代化され発展・変化してきたその過程は、主に「教育制度史」の研究に多くの成果が蓄積されている。あくまでも「学校制度」つまり「学制」の史的研究=明治以降の近代学校制度の考察が中心となり、民衆の実情、生活、文化などを読み取りにくいものではある。が、しかし、「制度史」の研究は、大きな変化をとらえ、日本の近代化の基礎を理解するためには必要であり、「つまらない制度史」としてではなく、資料を活用して「面白く興味深い制度史」として学ぶことでこそ、「教育とは何か」「何であったか」を理解することも可能であると考える。
先ず、明治期の近代学校制度の重要項目をいくつかあげ、略年表を記す。
1868(慶応4) 年 維新政府、旧幕府の学問所を昌平学校と改称、開成学校の設置
(明治元)年 皇学所、漢学所の設置
1869 (明治2)年 小学校設立の奨励
1870 (明治3)年 「大学規則」「中小学規則」公布
1871 (明治4)年 文部省の設立(学校制度の監督、教科書類の編纂、教則の編成)
1872 (明治5)年 「学制」の制定。事前に、師範学校設立、教員養成を開始
1877 (明治10)年 東京大学(官立大学)
1879 (明治12)年 「教育令」公布(「学制」の廃止・自由教育令)
1880 (明治13)年 「教育令」の改正(改正教育令・第2次教育令・統制の強化)
1885 (明治18)年 「教育令」の再改正(再改正教育令・第3次教育令・経済対策)
森有礼、初代文部大臣に就任
1886 (明治19)年 「帝国大学令」「小学校令」「中学校令」「師範学校令」公布
「教科用図書検定条例」(教科書検定制度)
1890 (明治23)年 「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)発布
1893 (明治26)年 祝日・大祭日儀式規定(天皇写真、国歌等の問題)
1894 (明治27)年 「高等学校令」公布
1899 (明治32)年 「私立学校令」公布
1903 (明治36)年 国定教科書制度の成立 ※ 学校教育制度に関する法令・布告類には下線を付した。
さて、いくつかの「教育関係年表」には、前掲の年表のうちの項目中から欠けているものもある。例えば『日本史年表の基礎知識』(新人物往来社・1993年) の「教育史年表」においても1870年「大学規則」「中小学規則」の公布は欠けているし、さらに一連の「教育令」についても1879年の公布、1880年の改正(干渉教育令)はあるものの、再改正された1885年教育令は省かれている。実施状況の詳細はともかく、その布告の制定過程や、その構造(原文)の意味を考察するためには、なるべく漏れなく一つ一つの制度を抑えておく必要があろう。本稿では、1870年「大学規則」「中小学規則」の内容の考察を行う。以下、「学制」へと考察を続けていく。
2、1870 (明治3)年 「大学規則」「中小学規則」公布
「教育史上の明治維新の開始宣言」つまり「近代学校設立計画」であった重要な宣言として評価されるものであるが、その内容についての研究は少なく、また通史書(代表的研究書籍)のほとんどで間違われている。「大学規則及び中小学規則」などと一緒にされる例もあるが、正確には「大学規則」「中小学規則」と分かれるべきもので、別個の法令である。特に「大学規則」については、佐藤秀夫氏の『文研ジャーナル』での論考「史料批判の現状と問題性」に詳しく、「2種類あり、案止まりでなく、実際に施行されたものであり明治3年3月(2月ではない)に公布された」という指摘は、従来の誤りを修正したものである。
従来の著名な研究者も、綿密に資料収集及び読み込みをしていないための誤りがあることを知り、「資料(史料)扱いの重要さ」を感じることができるが、誤謬や誤り、その理由(根拠とされた史料)については佐藤氏の書を参照されたい。本稿では、先ず「大学規則」に記された内容を『公文録』資料等から概観する。
「太政官公文・記録課」罫紙に記された『公文録』資料は、佐藤氏によれば「正定本」つまり実際に布告された完成版とされる。その(2種のうちの残り1種)原案版は『明治以降教育制度発達史』『法令全書』などに収められたものである。その学科をしめし、修正布告された箇所(『公文録』資料)を下線と〔・〕「」で示すと次のとおりである。
〔大学規則〕 学 科
教科神教学 修身学
法科国法 民法 商法 刑法 詞訟法 万国公法
利用厚生学 典礼学 政治学〔施政学〕 国勢学
理科格致学 星学 地質学 金石学 動物学 植物学
化学 重学 数学 器械学 度量学 築造学
医科 予 科数学(度量) 格致学 化学(鉱土 植物学)〔金石動植学〕
本 科解剖学 薬物学 原病学 病屍剖験学(医科断訟法)
〔解剖学 「原生学」 原病学 薬物学 「毒物学」 病屍剖験学〕 内科外科及雑科治療学兼摂生法
文科紀伝学 文章学 性理学
※〔 〕は語の置き換え、「 」は新たに加わった部分
さて、「教科」として「神教学」「修身学」があげられたのは一見してミッション系の学校の影響と思える。また「法科」の「詞訟法」とは「訴訟法」のことであるし、「利用厚生学」とは「経済学」、「典礼学」は「儀式についての方式」を学び、「国勢学」では「国家のありようを調査」することを構想していたのであろう。「理科」の「格致学」は「物理」に近いもの、「星学」は「天文学」、「金石学」は「鉱物学」である。また「化学」については当時大阪に「舎密局」という機関があった。続けて「重学」とは「力学」「器械学」とは「工学の原理」、「築造学」は「土木建築学」である。「医科」本科にある「病屍剖験学」は「死体解剖」のことで「医科断訟法」とはそれの応用の「法医学」と考えることができる。また、当時から医学が「内科・外科」と分類されていたこともわかる。「文科」の「性理学」とは「心理学」のことである。
当時の構想の中で、「大学」で何を教えようとしていたのか? また、大学とはどのような学問を修得する所なのかがわかる。ほとんどは(新しい)ヨーロッパの学科であり、つまり洋学の影響下にあり、ミッション系の学科過程を模倣したものと考えられる。
次に「中小学規則」についても同じく「教育内容」をみてみる。
「小学」では「凡八歳ニシテ小学ニ入リ普通学ヲ修メ兼テ大学専門五科ノ大意ヲ知ル」とされ、また「子弟凡ソ十五歳ニシテ小学ノ事訖リ中学ニ入ル」とあるから、8才から15才までの8年間が学齢であり、「普通学」を習得するのが主たる目的であった。それが大学の「専門五科」(教・法・医・理・文)習得の基礎としてとらえられていた。教科内容として「句読」「習字」「算術」(いわゆる「読み」「書き」「算」の3R'S)と「語学」(外国語)、「地理学」、「五科大意」であった。どの程度を教えることと構想していたかは不明であるが、学齢に比して難しい新教科であったと考えられる。
「中学」は「凡ソ十五歳ニシテ小学ノ事訖リ十六歳ニ至リ中学ニ入リ専門学ヲ修ム科目五アリ大学五科ト一般」とあるように小学を卒業したものが入学し、「凡ソ二十二歳ニシテ中学ノ事訖リ」とあることから16才から22才までの6年間の課程が構想されていた。その課程終了後「俊秀ヲ選ヒ之ヲ大学ニ貢ス」と、優秀者を選考して大学に入れる(貢進)とあった。学科課程は前掲の「大学五科」と同科目である。このことから中学は大学への進学機関・専門学術取得機関・受験機関・予備機関としての性格も持ち合わせていたと考えられる。
以上のように「大学規則」「中小学規則」とも計画され、中央体制が完成していないものの、実際に地方(京都など)で参考とされた例もあった。(そのことからも、この規則が公布されたという事実がわかる)
また『公文録』資料には「三科必読書目」として「教科」「法科」「文科」で使用する「教科書名」が数点あげられている(理科・医科については「南校・東校」に管するので略された)。例えば「教科」では「古事記」「日本紀」「万葉集」「宣命」「祝詞」などの「国学系」や、「論語」「大學」「中庸」「禮記」などの「儒学系」「漢学系」の書籍が指定された。同じく「法科」では「令」「残律」「延喜式」「三代格」などの「国学」が、「文科」でも「五國史」「大日本史」「枕草子」「源氏物語」「史記」「前後漢書」などの国家の歴史書類、「国学」的書籍が指定されていた。つまり、教科目は西洋に範をとり、洋学の影響を受けて新しい科目が設定されたが、その実、内容は教科書や教授方法の問題(不足)もあってか、既成の書物のうち「国学系の古典」ともいえる「復古精神」の書物を用いることとしたのである。この「器は洋風で、中身は復古」「外見は西洋を模しても、内実の精神は天皇制(王制)復古」といえるものは、まさに「明治維新」そのものであり、あるいはその一端を強く示すものといえるのではないか。その意味において、この「大学規則及び、中小学規則」は教育における明治維新の先駆けと評価できよう。
学制以前の学校では、このような教育内容が模索されていたのである。日本最初の近代教育法令は、この後の明治5年「学制」公布によってなるが、維新期最初の模索段階がこの「大学規則」「中小学規則」であり、この時期の性格をあらわし、一見して開化路線、欧米科学輸入路線がその中心にあったことがみてとれる。そしてその中に精神として天皇制復古の精神が同居していたのである。
3、学制の成立過程と内容
日本の近代教育成立過程と、その内容を学ぶ上で最も重要とされるのが明治5年に制定された全国規模での実施を前提とした日本最初の近代的学校制度に関する基本法令である「学制」である。
「学制」が、わが国最初の全国的教育法制であることは周知のことである。「文部省」の設置とともに「学制」制定が企図されたことは「教育史」のみならず「日本史」通史上の常識事項となっている。しかしここで気をつけなければいけないことは、「学制」とはいつ、どこで、何の影響を受けて作られ、そしてどのような内容のものであったか、どのような影響を与えるものであったか、を考えなければいけないということである。ある法令が「作成されるという状況」「改正されるという状況」を考えるべきだし、また法令が出されたから「すぐ施行されたのか」どうか、常に留意する必要がある。通史の常識的な結論を単純に信じてしまうと、間違った理解をしかねないのである。
日本近代教育史に詳しい佐藤秀夫氏によると「1872年9月4日(明治5年8月2日)教育に関する基本方針を示した学制序文(学事奨励に関する被仰出)が交付され、その翌日文部省布達第14号別冊により学制本文全 109章(条)が制定された。その後1873(明治6)年3月学制二編、1873(明治6)年4月学制追加および学制二編追加がそれぞれ制定され、また誤謬訂正・改正も加えられて最終的には全 213章(条)をもって構成された」ものまでを含めて、これを「学制」というとされる。
つまり単純に年表のように、明治5年8月3日に公布された全 109章のみが学制ではないのである。また、いわゆる「学制序文(学事奨励に関する被仰出)」についても従来の通説の多くでは「学事奨励に関する被仰出書」という文書が本文に付されたとされていたが、これは誤りである。まずこの件についてみてみよう。
(1)「学制序文」か「被仰出書」か?
現在でいう法令クラスである「太政官布告」は、「天皇のもとから」「天皇の命によるのだからありがたい(というおごった考え)」という形式であった。この「序文」は文部省でなく「太政官」名により「天皇」の意志を示すものであった。その文体は「天皇のコトバ」として書かれているので(欠字などもある)「締めのコトバ」として「右之通被□仰出候」と記される。これが決まりである。(□部は空欄=欠字、天皇への尊敬を示す)この「天皇がおっしゃられたことを受ける」という形式であるから、教育史研究家の誰れかが「被仰出書」と示したのに始まり、しばらくは通説的になった。
しかし正式にはタイトルはないのである。その性格を正確に表すにふさわしい表現は、「学制序文」ではないか。後に「教育令」を制定(つまり「学制」を廃止し改正)する際に日本の文部省最高顧問であったDavid Murrayの「教育令の1つの案」ともいえる文書、「学監考案日本教育法説明書 全」の中で学制を評価している部分でも「学制序文」として記されていた。またその原文(英文)“Report upon a Draft Revision of the Code of Education" にも「the introduction to the code」(つまり「学制序文」)と表現されていたのである。
かなり一般化された旧表記もいかし「学制序文(学事奨励に関する被仰出)」とする動きが主張となりつつあったが佐藤氏によれば文部省が「御布告書」という名称を付していたので「学制布告書」とするのが正しいという。このように、その前文の扱いからして混乱があったのである。
以下、本講義によって、その原文を読み、草案と公布文や、そのモデル原案を比較対照して、「学制の知られざる本質」を発見できるようにする。
(2)学制における「学校組織・系統図」に表された学校構想
学制における学校構想が示された「学校系統図」をみると、先ず進学(縦の区分け)過程は、(A)「幼稚小学」(B)「小学(下等小学〜上等小学、別に貧人学校)」(C)「中学(下等中学〜上等中学、別に農学校、商売学校、諸民学校、諸術学校)」(D)「大学」と進むこととされている。また幼稚小学と貧人学校を除いて、「外国語(と日本語)にて教授するコース」と「日本語にて教授するコース」の2種に分けられていた。当時、「外国語にて教授」する方を「正則」と呼び「日本語にて教授」する学校を「変則」と呼んだ。さらに、例えば「変則」の大学へは「十八.九歳ヨリ此ニ入ル」のに対して、「正則」の大学は「二十歳位ヨリ此ニ入ル」と年齢が引き上げられていた。日本には、近代教育科目や教科書すらなかったのであるから、「西洋のテキスト」を使用し、「外国人教師」による「外国語」の授業によってでしか、最新の情報を学ぶことができなかったのである。
つまり初期の構想は「高尚な学問=高等教育=科学」中心であったともいえよう。
近代教育を輸入する際、「西洋のテキスト」を翻訳したり、「外国人を招いて教わったり」、あるいは「留学生を送ったり視察したり」するのは基本的手法であり、日本以外でも中国(清)や韓国(朝鮮)も同様であった。しかし、一早く近代国家(強国)の仲間入りを果たしたのは日本のみであり、清や朝鮮は教育においても外国勢力からの独立を遂げるのに長期間かかったのであった。これは直接占領支配を受けたかどうかの違いでもあるが、私は日本は「開国当初」から教育やイデオロギーの独立を意識して、外国との関係を考えていたと思う。「キリスト教布教」をなかなか認めなかったことや、「外人教師」との「雇用関係(給料等)」を厳格にしていたことからも、いずれ「日本人のみで独立して西洋に追いつく」ことを企図していたと考える。実際にも明治10年代〜20年代と進むにつれて、外人教師の数は減るし、また「植民地主義的侵略」「対外戦争」にも出るようになっていく。その海外進出の際には、かつて日本が受けた通りに「強制的開国」及び「不平等条約」の強要などを行なったのであった。他にもこのような例はいくつかあるが、普通このような日本の近代化における西洋化を「脱亜入欧」等ということもある(古い表現であり正しいとは言えないが)。日本の開国後のスローガンは、「文明開化」「富国強兵」「殖産興業」であり、それが植民地奪取へと結びついた。とにかく当初から西洋に追いつき、追い越せという国家目標があったのである。
話しが横道にそれてしまったようにも思えるが、実は「学制」にもこの日本の国家目標(つまり教育の独立を目指すこと)が表れているのである。「学校系統図」で設立が計画される学校が「正則」「変則」の2種に分けられたのは、当初当面は「正則」(外国語)で教授するも、いずれは「日本語による学校教育」の方を中心とすると構想していたと考えられる。具体的に資料を見てみよう。「学制」の原案に付され提出された文書「後来ノ目的ヲ期シ当今着手之順序」によれば、「学制」の施行に際して大切なのは一に「小学に力を注ぐこと」であり、次に「その小学の教師を養成する」必要があり、また「小学では男女共学」の原則をあげていた。とにかく小学教育が重要とされたのである。「高等教育中心主義」とはいえないものである。さて「当今着手之順序」の最後に「反譯ノ事業ヲ急ニスル事」とあり「人ヲ率ヒテ學ニ就カシム悉ク洋語ヲ以テ之ヲ教ユヘカラス反譯ノ業亦尤急ナルモノトス」とあった。いずれは日本語教授を目指し、翻訳完成を目指したのであり、就学率上昇・普及が第一とされたのである。(外国語を日本語として受けとめることが可能、つまり翻訳語が完成して初めて日本語による文化が完成するのである)
(3)原案と公布文の比較
@学区「大中小学区」の区分.
学制は全国を学区で区分して大学・中学・小学を各学区内に設備し、「系統図」や「本文」内で示す各学校への就学を促して近代学校制度を根づかせることを目的としていた。この点は原案段階(「公文録」収録)も実際の公布された学制(『明治以降教育制度発達史』収録)も一貫しているが、両者の中には布告までの1〜数ケ月という短い期間に変えられた、又は入れ替わった箇所等がみられる。そこに時代の流れが表れている部分を比較対照するが、先ず第三章にある「大中小学区」の区分についてみていく。
原案と公布文とも「全国を一般行政区画とは異なる大学・中学・小学の学区に区分して各学区に学校1校を設立させ、全国に8大学、 256中学、53760 小学を実現させる」という計画である点に違いはない。だが大きく異なるのは「原案」には各県(大学区)に「石高」(例えば東京府は十五万石)が記されていたが、「公布文」には削除されていた。これは学制の基本精神たる受益者負担の原則からいえば府県の財力が関係ないとされたか、それとも翌年発布される「地租改正」による税制改革の影響であろうか。いずれにしても大蔵省は財政難に悩んでおり、この学制発布の財源についてももめて、具体的金額等は不定のまま発布されたのであった。(他に布告文第99章=原案 104章でも、府県委託金の具体的金額部分が墨塗りで削除されて公布されていた。例えば「人員男女共1萬人ニ付高十万石ニ付三千両ノ割」「金九十三万八千七百両 三府七十二県」等の下線部分が消されていた。石高が地租条例で農地収穫高から地税・金納に変えられ、財政の混乱があったためであろう。)
また「県名」が原案と公布文との間に変化したものもある。第二大区の「名古屋縣」は公布時には「愛知縣」と変わっていたし同区「安濃津縣」も「三重縣」と変わった。同様に第五大区「深津縣」が「小田縣」、「宇和島縣」が「神山縣」に、第六大区の「伊万里縣」が「佐賀縣」、「熊本縣」が「白川縣」となった。「版籍奉還」から「廃藩置県」と旧地域制度の整備・変革が行われている時期であったことを示す。
また所属管轄区(大学区)が変わった県もある。原案では第五大区にあった「高知縣」は公布時には第四大区に変わっていた。「高知」や「香川」「名東」は四国ながら第四大区へ、「神山」「石鉄」は同じ四国ながら第五大区にと分けられた。まるで地図上で直線(斜め)に線を引いたかのような区分である。ちなみに第一大区は今の「関東近県(一部東海及び甲州)」、第二大区は「東海地方〜中部」、第三大区は「北信、北越地方」、第四大区は「近畿・中国及び四国の一部」、第五大区は「中国・四国の一部」、第六大区は「九州」、第七大区は「越後〜北陸近辺」、第八大区は「東北地方・奥州」といえよう。 さて総計75府県(3府72県)であり、ほとんど旧藩がそのまま県となっているが、この学区に沖縄と北海道が入っていないことに気づくだろう。沖縄は「琉球藩」として鹿児島県に編入されたが、国家領土上の争いは絶えなかった。「沖縄県」として設置されたのは1879(明治12) 年のことである。北海道は「函館」「根室」「札幌」の3県があったが、この時期は開拓使省の管轄にあることもあってか削られた。蝦夷・アイヌ等様々な問題を含んでいた。第4章に、「北海道ハ当分第八大区ヨリ之ヲ管ス他日別ニ区分スヘシ」とあるごとく、先送りされたのであった。
ここで筆者は一つ疑問を持ったことがある。大学本部(帝国大学の設立場所=地方教育行政のセンター)がどのようにして決定されたかということである。原案では第八大区の本部は「宮城縣」であったが、これは改正され布告では「青森縣」となった。この変化はどこに理由があるのであろうか。第一大区の「東京府」は行政の中心地である。第二大区の「愛知縣」も尾張家に代表される大藩であった。第三大区の「石川縣」は加賀百万石ともいわれた名藩で、第四大区「大阪府」も経済の中心地であり同区のかつての朝廷の本拠「京都府」が戦火で荒れたことからも選ばれたかもしれない。第五大区の「広島縣」も備後・安芸と呼ばれた名藩で、第六大区「長崎縣」が出島以来の開明の地であったことも理解できる。第七大区「新潟縣」も上杉家以来の強藩であった。第八大区の宮城から青森への入れ替わりも、幕府滅亡以前の東北雄藩会津が、敗退後に斗南藩として津軽に配置がえされたことに関係しているのかもしれないし、佐竹藩もあった。このように、「大学本部」となった県のみを考えるとなんとなく納得はできる。しかし他県と比べてどのような理由で選ばれたかを考えると説得力のある答えを見出せない。
逆の考え方をしてみよう。権力のある県(旧藩)、大藩だった府県が「大学本部」となっていたといえるだろうか。それでは何故最大最強の雄藩「薩摩・長州・土佐・肥前」の4つが「大学本部」とならなかったのだろうか。「薩長土肥」4藩は藩閥を形成し中央政府の要職を占めていた。その4藩が何故、「大学本部」とならなかったのか。「薩摩藩」は「鹿児島縣」、「肥前藩」は「佐賀縣」、「土佐藩」は「高知縣」、「長州藩」は「山口縣」となったが「大学本部」とならなかった。これは学制起草者の意図があったのであろうか。しかし意図があったとしても実政職にあった4藩が修正すればすむのである。やはり4藩にも「大学本部」となる意志が強くはなかったと考えられよう(もちろん当時内閣官僚こぞって岩倉使節団として海外を廻っており、留守政府であった西郷・大隈重信・板垣退助らの反官僚派が独断で「四民平等」「徴兵令」等の封建制を刷新する政策を行ったことが指摘されるが、「学制」の「学区」に不満があれば帰朝後に改正できたのではないか)。「薩長土肥」4藩は地方地元ではなく中央政権での権力・権威を目指したのであり、その地方との乖離から、後の西郷らによる内乱・西南戦争らが起こったと考えられよう。政商から財閥等が4藩から登場しても、中央政権への進出をもくろむのである。そのようなことから4藩は「大学本部」とならなかったのではないか。かえって旧幕府系地域が「大学本部」となり、教育の地方における中心地となったのである。(「薩長土肥」4藩は「東京」で日本の中心=「日本教育のセンター」を担えばことたりたのではなかったか?)
このことの答えは、地図上でみると、「青森」を除いて他の本部は大学区地域の中心辺りに位置するという共通点があるとも考えられる。北海道との関係をみると「青森」も中心ともいえる。地理上の利点からではなかったろうか。区分け、地域区分自体が旧習からのものであるから、旧幕府系要地がそこに位置するのも当然であったといえよう。
A 地域名称、人民階級などの呼称の違い
第七章では、中小学区の区分については地方官が「土地ノ広狭人口ノ疎密ヲ計リ便宜ヲ以テ郡区村市等ニヨリ区分」するとされた。この「郡区村市」という地域名称は原案段階では「郡郷町村」となっていた。「区」はwardかdistrict、「市」はcityという欧米の行政区画地域名の影響であろう。
また布告文第十二章では、「一般人民」のことを「華士族農工商及婦女」と表現しているが、原案の同部分(第十三章)では「華士僧農工商婦子女」となっていた。江戸封建制度下の「士農工商」の階級差が明治になり「四民平等」政策で「華族・士族・卒族」「平民(農工商)」となったことに対応している。特に「婦子女」あるいは「婦女」と女子教育の必要が説かれたことは新しいことであった。(女子教育については後述する)
ここで原案に「華士僧」とあったことに注目してみたい。布告時は「華士族」となる。単なる誤記であろうか。「僧」を「族」と間違えやすいとは考えられない。私は維新当時に旧幕時代の寺子制を改めて天皇制(国家神道)を進めるために行われた「神仏分離」の影響があるのではないかと推察する。「神仏判然令」によって従来の神仏習合を改め、仏教寺社と神社の違いを明らかにして、日本古来の神道を普及する一種の信仰宗教統制でもあったが、多くの藩・地方では「仏像破壊」「寺焼き払い」等の過激な対応がなされた。これを「廃仏毀釈」「排仏棄釈」というが、これは幕末まで寺僧が権力・権勢を誇っていたことへの反発もあったのであろう。多くの「僧」は「還俗」して蓄髪結婚を許され一般民衆化したのであった。以前の特権階級から還俗したこと、これが原案に表されたのではなかろうか。この学制の起草者の数名や、当時の日本は、王制復古=国学=神道学の思想が中心であったから、仏教僧をあえて「一般人民化」したのではなかろうか。
ただ原案である「公文録」本の「学制序文」には、「一般ノ臣民人民」は「華族士族農工商及婦女子」とあった(布告文では「華士族卒農工商及婦女子」と「卒族」が加わっていた)ので、このことは私の推論にすぎないとことわっておく。(原案一部や、京都では私論のとおり)
B 学校名の表記の違いと、「私塾・家塾」の扱い
すでに述べたように、学制の構想する学校は、幼稚小学、各小学、各中学、大学であったが、それらをさらに細かくみてみよう。先ず「小学」〔初等教育課程〕は布告第二十一章に、「尋常小学」「女児小学」「村落小学」「貧人小学」「小学私塾」「幼稚小学」をを「小学」と称するとあり、これらは第二十七章に示された「下等小学教科」「上等小学教科」及び「付け加え可能な教科」に(基本的には)従って授業が行われるものと規定された。この教科に準拠しないものを「変則小学」といい、また「私宅」で「小学」教育をするものを「家塾」と規定して「正式な小学」とは分けている。(第二十八章)
原案第二十二章では「貧人小学」が「窮人小学」となっていたが、原案第二十五章では「貧人小学」となっていた。原案には記名が不統一な箇所がいくつか見られる。「尋常小学」は普通の小学校、「女児小学」は女子校、「村落小学」は僻地の学校、「貧人小学」は生活貧困家庭の児童のための学校、「幼稚小学」は幼稚園・保育園にあたるものでありそれぞれ独特の教科や意味をもつものであったが、各学校については後述する。
第二十三章に「小学私塾ハ小学教科ノ免状アルモノ私宅ニ於テ教ル」とあり、教員免許所持者による塾(私立)のことをいう。すると前述の「家塾」は「教員免許を所持しない者」の塾のことであろうか。第二十三章の原案部分(第二十四章)には「即チ家塾ノ類」とあったのが布告時には削除されていた。つまり原案では「小学私塾」=「家塾」と規定されていた。ここにも不定・不統一がみられる。ただ、「中学」を見ると、第三十二章に「私塾」で中学教科を教える者が免許所持者であれば「中学私塾」、免状のない者が教える場合は「家塾」とあった。この部分は原案では「私塾で免許有り」なら「中学校」、それが「正則免状」なら「正則中学」、「変則免状」なら「変則中学」と称するとされていた。原案段階では小中学とも、「私塾」には「正則・変則」とがあるとされた。この規定は布告文にはないものである。布告第三十章には「変則中学」を「テキスト、内容、教材が揃わず、順序を正規に異なって外国語や医術を教えるもの」で、同じような内容・方法であっても「私宅ニ於テ教ルモノハ之ヲ家塾トス」と但し書きがあった。これによれば変則免状の教師が私宅に開くものが「家塾」と考えられていたともいえよう。この但し書きは原案にはない。しかし、布告文には「変則免状」という規定が記されていないのでありまた「教員免許」自体がまだなかったのであるから、この変則中学とは「地方の私立」や「外国語学校」のことといえよう。一般教養を含まない専門学校ともいえようか。つまり正式な規定(学校制度)以外の「学校」としてとりあえず認めたものであり、その中で学校以外(規定外)のものを「家塾」と分類していたのであった。
以上のように見てみると「家塾」は「免状のない者が教える」「私宅で行われる教育のことをいう」と「整理」されていったことがわかる。「寺子屋」程度の教育を否定し、教員養成(免許制)と学校就学義務を構想していたが、原案段階は「私塾」「家塾」が根強くあったのだろう。福沢諭吉の慶応義塾に代表される「私塾」全盛時代でもあった幕末から維新期の影響であろう。有名・高名な学者の塾は「私塾」あるいは「家塾」であった。それを「私塾」と分類し、後にこれが「私立学校」として整理されていく。「家塾」は小規模で不十分なもの、「寺子屋」程度の教育として整理されたと考えられる。ちなみに、第十二章(原案第十三章でも内容は同じ)では「私塾家塾ニ入リ及ヒ已ムヲ得サル事アリテ師ヲ其家ニ招キ稽古セシムルモ皆就学ト云フ」とあり、最低限の就学普及の手段としてこれらを完全には削除できなかったことがわかる。
さて、「中学」については、「下等中学〜上等中学」の二等の課程があるが、別に「工業学校」「商業学校」「通辨学校」「農業学校」「諸民学校」と他に「廃人学校」があるとされた(第二十九章)。原案では「工業学校」が「諸術学校」、「商業学校」が「商売学校」、「農業学校」が「農学校」であった。これは原案時に「工業」というほどの産業はなく、手工業や諸技術・手作業中心であったから「諸術」であったが、「殖産興業」の政策もあってか「工業」という概念・用語が完成したのであろう。全て「業」という産業として概念化がされたということであった。ちなみに原案で「商売学校」が「商法学校」となっている箇所(原案第三十七章)もあったが、「商売=商いの方法」と考えられたのである。言葉=日本語の表記(翻訳)が段々と統一されていく過程であった。
「諸民学校」は「生業ノ間」、つまり仕事を持つ生徒を教える「定時制」的性格を持ち「夜学」をともなうものであった(第三十三章)。「通辨学校」は「通訳官」を養成する外国語専門の学校であり、語学習得のみを目的とした学校である。また「廃人学校」については布告文・原案ともにその内容が記されていないので詳細は不明である。
以上の「小学」「中学」の他に、「大学」、「師範学校」(原案では「師表学校」)が企画されていた。
C 女子教育の表記の違いと、教育内容の差
前述のように「学制」で「男女共学」が想定され、義務就学の対象となる「一般人民」に「婦子女」あるいは「婦女」として「女子」が入ったことは、日本女子教育史上において重要な出来事であった。「学制」が「四民平等」の思想を反映していることは既に見てきたとおりである。「学制序文」に「男女ノ別ナク小学ニ従事セシ」とあり、「着手之順序」に「一般ノ女子男子ト均シク教育」する必要が強調されていたことが、従前の日本教育にはなかったことであり、「女子の教育」が取り上げられた最初のことであった。「人間ノ道男女ノ差アルコトナシ男子巳ニ有学女子学フ事ナカル不可」(「着手之順序」)という文面に開明的構想が示されているとともに、従前の封建制度下での女性の身分の低さが読み取れよう。
女子教育の必要は、学制に先立つ明治4年12月23日文部省布達13号「東京府下小学校ヲ設ケ子弟ヲ入学セシム」の中の「小学校入門之心得」には「男子」に並んで「女子生徒ハ八歳ヨリ十二歳迄ノ事」と「男子の8〜15歳」と「年齢」こそ違うものの「就学」が規定されたし、さらに「女学校入門之心得」も付された。女子学校の必要を説いたものだがこれによって翌明治5年2月、官立の女学校が開校し、11月には改名して「東京女学校」と称した。またそれ以前に、明治4年12月文部省布達10号「共立女学校ヲ開キ志願ノ者ヲシテ申請セシム」と達されたように「私立」の女学校は存在していたし、その多くはミッション系(キリスト教系)の宣教師によるものであった。日本では、男子の学校は政府がつくり、外国人男子(宣教師ら)が教師に雇われたが、女子の学校は女性宣教師が教師としてだけでなく、その経営・組織化に乗り出していたことが大きな特徴といえる。主要な学校名をあげれば、明治3(1870)年には、フェリス女学院の前身であるキダーが教えたヘボン塾の女子コース、女子学院の前身である築地A6番女学校(カロザース塾)、明治4年の横浜ミッションホーム(後の横浜共立女学園)などがその最も初期のものである。 また「東京女学校」以外に、官立として「開拓使」の人材養成政策の一環として「開拓使女学校」が構想され、開拓使次官黒田清隆は明治4年に森有礼のすすめにより5名の女子を米国留学させている。この5人は岩倉使節団とともに渡米した。学制に先駆けて女子留学が実現していたのである。さらに「女子師範学校」もつくられた。
こうしてみると、学制直前の私立の女子教育は、主に中等教育に当たるものや私塾的であったといえよう。学制は「国民教育」の普及=小学校の就学を広めることを目的としているから、「小学校における男女共学」と絞ったところにその特色がある。「女児小学」があげられたことから「男女別学」ともとれるが、「共学」の事実はあったのである。それは「学制」が後に廃止され「教育令」とかわるが、その中に「凡学校ニ於テ男女教場ヲ同シクスルコトヲ得ス 但小学校ニ於テハ男女教場ヲ同シクスルモ妨ケナシ」とあったことは、逆説的に学制時には「小学」、場合によっては「中学」などにも「共学」の事実があったと見ることができよう。
さて学制第二十六章には「女児小学ハ尋常小学教科ノ外ニ女子ノ手芸ヲ教フ」とあり、女子独特の教科を示した。これが原案第二十七章では「女子小学」では「中学ノ概略ヲ授ク」とあり、布告文との間に「教える内容」に差があった。当初は高度な構想であったがこれは前述のように女学校が中等レベルの塾があるのみだったためと考える。原案にはさらに「但シ当分上等ノミヲ設ク中下等ニ入ルヘキモノハ中下等小学ニ入ラシム」とあったがこれは削除された。この原案当時、竹橋の官立女学校が念頭にあったのであろう。また第四十六章(原案第四十七章)に教員について「小学教員ハ男女ノ差別ナシ其才ニヨリ之ヲ用フヘシ」とあることからも、学制では「小学校」に「共学」を限定(設定)していたと思える。教員や就学を初等教育に限定されたことは、「女子差別」ともいえるが、従来と比較して飛躍的(制度的)に女性の進出が図られたといえるものであった。
D 「幼稚小学」=幼稚園=キンダーガルテンの構想
「幼稚小学」については、第二十二章に「男女ノ子弟六歳迄ノモノ小学ニ入ル前ノ端緒ヲ教ル」所と規定され、「小学校前教育」であるとわかる。現在の幼稚園や保育園に当たる就学前教育施設のことである。原案第二十三章では付言として「未タ学校トハ云ヒカタシ」とあり「学校」とは違うものと認識されていた。この付言は布告では削除されたが、これは翻訳原本が「学校」Schoolではなく、ヨーロッパや米国のキンダーガルテン(幼稚園)Kindergartenであったからと考えられる。欧米でも幼稚園をスクール「学校」とは言わなかったので、このような但し書きが加わったが、布告に際して、「学制」は「学校制度」であったから、「幼稚小学」と名付けたと思われる。日本で「幼稚園」が創設されるのは1876(明治9)年の東京女子師範学校付属幼稚園が最初である。保育・幼児教育との関連からか、以後は「保母」=「女子」中心となった。
キンダーガルテンはフレーベルにより創立され、世界中へと普及したが、日本へも欧米諸国を経由して入ってきたのである。
E 学制に規定された「教科目」
学制第二十七章には「下等小学教科」「上等小学教科」及び「地の形情により加える教科」が列記されたが、これらは原案段階にはなかった。学制成立過程においては具体的な教科・内容を設定することができず、このような状態では「学制」の全国実施において小学校の敷設、普及、運用が困難であるから、明治5年3.4月から6.7月までの数ヵ月間で急遽、教科が定められたのである。なお「教則別冊アリ」と付記があったが、同時期に文部省は「小学教則」(カリキュラム.細則)を作成(教則には明治5年7月の日付あり)中であり、明治5年9月に公布されたのであった。
「教科目」は、「綴字」「習字」「単語」「会話」「読本」「修身」「書牘」「文法」「算術」「養生法」「地学大意」「理学大意」「体術」「唱歌」の14科目が下等小学教科であり、これに「史学大意」「幾何学罫画大意」「博物学大意」「化学大意」を加えたのが上等小学教科、さらに地域によっては「外国語ノ一二」「記簿法」「画学」「天球学」を加えてよいとされた。この教育課程がどのような経緯で成立したかは明らかではない。しかし一見して従前の庶民教育の内容と異なったものが目指されていたことがわかる。
その特色を整理してみると、(A) 地学・理学・博物学など「自然科学関係科目」が入っていること、(B) 数学の内容が「洋法」に、つまり和算から洋算に変えられたこと、(C)「国語」の教授が、綴字・習字・単語・会話・読本・書牘・文法の7教科に分けられていること、(D) 記簿法・罫画・養生法らの新しい教科が入っていること、などがある。また(E) 史学が上等小学のみに置かれ、地理・理科に比べ後で学ぶとされたこと(軽視か)、(F) 修身も置かれたものの、知育偏重・道徳軽視がみられることも注目されよう。
その系譜として先行研究では「主として米国のカリキュラムを模していることは、一見してあきらかであろう」とされ、当時文部省に影響を与えたであろう米国人フルベッキやスコットらの外人教師の意見をとり入れて、当時の米国の小学校カリキュラムを参考にしたと推察されている。この「学制教科目」は (C)のように「国語」という教育内容を7つの教育方法別に分けているものと、他の教科のようにそのまま教育内容を示すものが同位に並べられ、いわば教育方法と教育内容とが未整理の状態となっている。もちろん米国でも国語教育に力が入れられ Spelling (綴字)や Writing(習字)、単語、会話、文法などがあったので、確かにその影響をみることができよう。ただ即、米国からの輸入とはいえない。なぜなら幕末からの洋学塾での授業の仕方やカリキュラムに近い内容であったからである。1870(明治3)年の「大学南校規則」に示された普通科の教科や、師範学校設立起案書であった「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」に示された「教授ノ目」(学制に先立ち明治5年4月22日=1872年5月28日に正院に提出された)はよく似た教科目があげられていた。後者では「綴字・習字・単語・会話・読本・修身・文法・算術・養生・地学・理学・史学・幾何学・博物・化学・生理・墨画」の17教科であり、かなり一致する。また洋学校の教科目も似ているが、これらは福沢諭吉などの洋学者=開明派によるものが先駆であった。その内容は洋学を中心とする実利実益の学問への転換、特に窮理学や化学など科学の導入がもり込まれたものであった。この風潮は当時の時代の要求でもあり、またそれが「学制」にも「文明開化」「近代科学」の精神として強く影響を与えたと考えることができる。
また中学では第二十九章にあるように「国語」は「国語学」と「習字」の2つ(プラスして「古言学」ぐらい)になったが、このことから「小学」では「基本として母国語」をみっちりと学習することが目標となっていたことがわかる。(実際の細則である文部省創定「小学教則」や、広く普及した師範学校制定の「附属小学教則」の考察や、それぞれの比較が重要だが、それについては後述する予定である)
F「教師」に関する構想
学制第四十章から第四十七章までは「教員ノ事」となっている。「着手之順序」で教員養成の急務が説かれ、また「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」などによって具体的建議がされ、それに従って学制とほぼ同時期1872年9月17日(明治5年8月15日)、東京に官立師範学校が開設となった。日本では、この学制制定過程の中で初めて教員を意識的、計画的に養成するという考え方が出されたのであった。教育という仕事を一つの独立した職業と見て、そのために必要な特別の教育を施すということは、江戸時代まで通してなかったことである。例えば近世の諸学校のうちで昌平坂学問所では19世紀初頭から、藩の指導者藩校の教員を養成する機関となったが、昌平校の教育は本来、林家その他の学問上の弟子の育成を目的としている。また庶民の教育機関である寺子屋についてみると、寺子屋師匠は寺子屋という教育機関の経営者であり同時に教師であるところにその特質があり、そのような寺子屋師匠を意識的、計画的に養成しようとする機関は全く存在しなかった。教育を一つの専業とした人、世襲的に師家となった家もあったが、そのような人・家を継ぐため教育職としての特別な養成課程で学ぶということはなかったといってよい。教員養成、教員をつくるという考え方は、日本、あるいは東洋の伝統にはなかった考え方であった。つまり「教員養成」という考え方自身、欧米からの影響であり、この時期(「学制」期)の性格を強く表すものである。
学制では学校教育普及のため欧米先進諸国に範をとり、一定の計画のもと組織的・継続的教育を行うこととして、従来の個別的教授の仕方を学年別の集団(学級)教授に切り替えることに関連して種々の工夫がされるようになった。そのような近代学校の性格と方法とを理解するためには、差し当たって資格の必ずしも充分でなかった当時の教員を再教育すること、教員を養成することとが必要となったのであった。
学制第四十章では「小学教員」は「男女関係なく年齢20歳以上で、師範学校の卒業免状か、あるいは中学卒業免状を所有する者」がなると定めた(原案では18歳以上) 。ちなみに第四十一章「中学校教員」は「25歳以上で大学卒業免状を得た者」と規定されているが当時はまだ「中学校や大学の卒業者も出していなかったので、小・中学校とも従来教師の職にあった者または所要教科について教養のある者を採用した」(玖村敏雄「教員養成八十年」『文部時報』第908 号、45頁)のであった。
また「大学校教員」については第四十二章「学士」の称号を持ったものでなければならないとされたが、ここでいう「学士」は今でいう大学卒業者の学士とはイメージを異にするもので、原案第四十三章では「学士ノ爵ヲ得名ノモノ」と表現されているのをみても、現在の「博士号」をイメージするものである。
以上から「学制の教員観」をみることができる。小学校教員は、「師範学校」か「中学校」の卒業を必要とし、中学校教員は「大学卒業」、大学の教員は「学士の称号(今でいう博士)」の資格が必要だというように、各学校で教員となるためには、その上級学校の卒業者でなくてはならないのである。つまり当時の教職という職業資格は、学校卒業主義がとられていた(後に資格経験主義へと変わっていく)。また第四十二章に「以上三章ハ其目的ヲ示ス数年ノ後ヲ待テ之ヲ行フヘシ後章ハ現今ノ位ニ応シテ之ヲ許スモノトス」とあったが、こういう注記は「学制」の中でめずらしいものである。前述のように当時、中学や大学はもちろん、師範学校も卒業者を出していなかったが、こういう注記のない他の規定も多くは実際机上案と終わったことに対して、いかに長期的展望をもって構想され、学制起草上に教員養成がいかに重要視されていたかをリアルに示しているといえよう。
また第四十五章では「師範学校ニ於テ教授ヲ受ケタル教員ハ他ノ職務ヲ兼ネ及他ニ転スヘカラサルヲ法トス」と定められ、師範学校卒業生は教員以外の職を兼任、もしくは他の職業に就くことを禁止し、一面において師範学校の閉鎖性を意味するものであった。
G 学制の特色・・・受益者負担の原則
学制第二十四章(原案二十五章)には、既に述べた小学校の種類のうち、「貧人小学」について示された。「貧人小学ハ貧人子弟ノ自活シ難キモノヲ入学セシメン為ニ設ク」とあり、生活窮乏家庭のための小学校であった。「其費用ハ富者ノ寄進金ヲ以テス」とあった。なお原案ではこれは「学区ノ便利ニ随ヒ」と学区で賄うか、「或ハ地方官ノ定額金」を費用に充てるとあったが、これは削除されていた。「公」「官」は教育費を負担しないという考え方、つまり「官」にたよらないという考え方であり、確かにつめたい一面に思えるかもしれない。義務教育が無償でないということである。学制期が財政難であったことは周知の事実であるが、普通このように有償となったことも、「財政難であった」からと説明されることが多い。確かに大蔵省との折り合いがつかずに学制は制定され、そのために第九十九章(原案百四章)では「教育普及費用としての委託金」=「国庫補助金」の金額部分を黒塗り〔欠字〕としたまま公布されたという事実もあった(これは1873年1月に人口1人当たり9厘とする基準が定められた)。
しかし、けして「財政的理由」だけでなく、「自立」=「受益者負担」という考え方がとられたのではないか。
『○学費ノ事』として第八十九章から記されている部分に注目してみよう。第八十九章の但書き部分は原案では九十四章にあたる部分であったが、次のようなことが書かれている。「教育ノ設ハ人々自ラ其身ヲ立ルノ基」と、人はひとりでにではなく、自分で身を立てるという『立身出世』が説かれ、「其費用」は「政府の正租」(税金)に「仰クヘカラサル」として政府にたよらず受益者自身が負担するべきとしていた。ただ急なことであるからこそ「民費ニ委スルハ時勢未タ然ル可カラサルモノアリ」と現状では難しいことも認めある程度は政府が補助するとしたのであった。また『官費』「官金」を用いて学費とすることを「従来ノ弊」(弊害)と述べていた。これは第九十一章に「生徒衣食ノ費用或ハは官金ヲ以テ之ニ給シ以テ当然トス」ることをいう。これは前代の藩校の制度を指す。藩校の制度、方法を実学でなく、近代的でないと批判をしてなりたったのが、この学制期の教育構想であった。全てを政府が負担するのはあまえにつながる。だから『自立』するためにも自らが負担するのが好ましいという思想であった。個人の自立があって、国家への貢献があり得るという、封建制度批判ともいえるものであった。外国人教師給与や大学、留学生費用など、生徒で負担できないものは、この時期から国費で賄うと逆に明確に示していたのである。この受益者負担の原則は学制の特色であった。
(4)「学制」があらわしている『時代』
日本最初の近代的学校教育制度(法令)が「学制」であったが、従前の教育を「否定」(完全なる否定ではなく、継承されたものもあり、連続・否連続の評価は難しいが、完全なる否定を期待していたのではないか)して、改革するために、準備不足で、財源難などの諸々の問題があり、原案作成から実際の公布までにも(つまり計画段階でも)揺れ動きがあったことをみてきた。当時のダイナミックな変革、スケールの大きい計画であったと評価することができよう。
いくつかの部分に焦点を置いてみてきたが、ここで学制全構成を示してみよう。
○文部省布達第十四号〔別冊〕学制
大中小学区之事 1〜19
学校之事 20〜39(小学21〜28, 中学29〜37, 大学38〜39)
教員ノ事 40〜47
生徒及試業ノ事 48〜57
海外留学生規則ノ事 58〜87
学費ノ事 88〜104
〔雑則〕 105〜109
○文部省布達第三十号 学制二編・・・明治6年3月18日
海外留学生規則 110〜153
神官僧侶学校ノ事 154〜158
学科卒業證書ノ事 159
○文部省布達第五十一号 学制追加・・・明治6年4月17日
貸費生規則 160〜176
〔官私学校設立方〕 177〜180
〔学事報告〕 181
〔学士称号〕 182〜188
○文部省布達第五十七号 学制二編追加・・・明治6年4月28日
〔専門学校・外国語学校規定〕 189〜209
〔学事寄付〕 210
○文部省布達第七十七号・・・明治6年5月20日
〔就学児童種痘天然痘接種方〕 211
○文部省布達第九十九号・・・明治6年7月9日
〔外国語学校規定追加〕 212
○文部省布達第百二号・・・明治6年7月12日
〔貸費生規則追加〕 213
以上の全体の構想、項目や数量的なことを考えても、当時の『時代』をあらわす特徴を指摘することができるであろう。「文明開化」から「富国強兵」「殖産興業」と欧米化路線を進む、近代化されていく日本の姿をみることができよう。他の国内政策との関連で、すでに述べたように変更を迫られたものもあった。例えば廃藩置県によって大学区などの構想も変化した。また、これはさらに実際の施行時においても、さらなる県制度改革に従って変化したのであった。明治6年4月、八つの大学区が次のように七つに整理された。 例えば、第一大区は、東京府、神奈川県、埼玉県、入間県、木更津県、足柄県、印旛県新治県、茨城県、群馬県、栃木県、宇都宮県、山梨県となり、布告文から静岡が欠けた。 第二大区は、愛知県、浜松県、岐阜県、三重県、度会県に静岡県(第1から)、石川県と敦賀県、筑摩県(以上3つは第3から)が加わった。
第三大区は計画時の第四大区が主である(以下も同じ)。大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、堺県、和歌山県、飾磨県、豊岡県、高知県、名東県、岡山県、滋賀県であった。
第四大区は、広島県、鳥取県、島根県、北条県、愛媛県(旧名は神山)、山口県、浜田県となった。
第五大区は、長崎県、佐賀県、白川県、鹿児島県、小倉県、大分県、福岡県、三潴県、宮崎県(旧名は都城)。
第六大区は、新潟県、柏崎県、置賜県、酒田県、若松県、長野県、相川県、新川県(第3から入った)。
第七大区は、宮城県、青森県、福島県、磐前県、水沢県、岩手県、秋田県、山形県。
以上のように変えられた。ここで削除された県名は、新しく近県に吸収されたか、新しい名に変更されたかの変化である。実際に学制期から教育令期まで、学事報告や県勢調査などでも同様の廃合がみられるのであった。
つまり、本講義でみてきた学制は計画「構想」の部分のみであり、実際の場面についてはみていないのである。実際と計画案とは違うことを認識する必要がある。ただし構想はその時の理想や時代の風潮が読み取れるのであるから詳細に検討する余地がある。
はじめにも言ったように「制度史」は面白いものが少ない。なぜなら「構想」「計画」として文面で残っているものを再現して、順番で並べることのみに精一杯であり、それがどのような意味や意義をもつかに着目しきれないものが多いからである。
確かに「こうではなかったか」などと解説を加えた研究もいくつか見られるが、「自分の意見をザッと述べただけ」に感じられるものが多い。独論・私論にはしり過ぎて実証があまいままである。不明なものは「よくわかっていない」と示すべきであるし、細かなごまかしが「後進のさらなる誤解」を招くもととなる。これは研究の立場として必ず注意しておきたいことである。本稿も私論・推論が多いと自覚している。仮定が多くなって、まとまりが足りないかもしれない。しかし、本論は「学制」という「制度・法令」を「実際に細かに読んで考察する」ために、「時代」「歴史観」をプラスして「展開」したものである。その意味で試論としての可能性をためす「たたきだい」ともいえる。「ノート」や「メモ」類として今後の研究に発展させていこうと思う。
おわりに
ここまでのことから言えば、「教育」とは「人間の成長・人生に不可欠」のもので、具体的には「学校教育」を必ず受け、そこでは「画一的な内容が教授される」という、今、教育問題といわれる問題を本質的に含んでいるのである。言葉を変えれば、そもそも教育問題とは起こるべくして起こるものであり、はっきり言えば「ここにいう教育とは、それ自体が問題なのである」と私は考えている。
人間が集まった社会とは、共通の法で制度化され、運営される。どうしても重要だと思われる問題は法律化されやすい。今考えると何故こんなことまで規定されるのか、もっと重要なことがあるだろうにと思える法もある。そのような傾向の中で、この「教育」も、世界各国で「文明国」という逆説的強制の中で法律化・法規定され、制度化がとり行われたのである。本講義でみてきたように、「教育制度」特に義務制公教育の整備は、歴史的に新しく、近代以降のことなのであり、急速に発展したのであった。
ここで疑問というか「ズレ」を感じるであろう。「教育」は新しいものだとしたら、それ以前(近世以前)には「教育行為」はなかったのであろうか。考えるまでもない。あったに決まっている。文化も伝承されたし、文明も築かれたし、大学者や天才も生まれ育ち登場していた。ソクラテスやプラトンなどの師弟関係だってあった。「教育」は古くからあり、人間は成長してきたのである。
つまり、今いうところの、語られるところの「教育」とは「教育制度」のことであり、これは整備されたのが人類史的にはつい最近のことであった。これを正当化する時の理論として前近代の教育が持ち出されるが、その「教育」は「個人の成長のための教育」と本来語られたものであったから、「制度化」し「一般化」され普及のために「画一・統制」されると、「矛盾」してしまうのである。つまり「教育」の本質として対象にされるのは「個人」であるが、実際に行うのは「集団統制」であるから「矛盾を内包」しているのである。問題が表面化すると、必ず「個性を尊重しない現代の教育」あるいは「集団になじまないではみ出した問題児」などと言われるのであるが、これらは問題ではなく、本来のそのものなのである。
私は本稿においてここまで何度か「語られた」という表現をしてきた。実はこの「語られた」ということに大きな意味があると考えている。「教育」という個人的行為を集団的行為として「教育制度化」する必要があった人たちがいたと仮定する。この人たちはあたかも布教・伝導のように、「教育」を普及し、最初の定義のごとく「(ある)意図をもって働きかけ、(自分の)望ましい姿に変化させ、(希望どおりの)価値を実現する」ために「引き出す」(というより「知識を与え」てつくる)必要があったと考える。つまり、国民をつくる必要があったのである。国民統制・支配である。もちろん「文字を理解しなければ法律も理解できない」ということもあるが、それよりも法やそれ以外の暗黙まで含む規制でしばり、愛国心をもって行政に服従し、自らは立身出世ができる自由の身であると思いこんで行政に不満をもたない「国民」をつくろうとしたと考えられる。「国策」であると考えれば、他の諸領域と結びつきやすい。例えば、就職、産業・企業との関係である。学歴社会、学閥、受験中心の教育・・・それらの問題が発生するのも当然である。もともとそのようなものなのである。
いや、仮定した人たちは、現在の諸問題がこれほど表面化するとは思っていなかったかもしれない。しかし、新しい「支配」の方法であったことは確かだ。その役目を果たしてきたことには違いがない。そして、「教育」とは、このような人たちによって、あるいはその社会のうちにいて気づかない人たちによって、「語られてきた」のである。
「歴史的な叙述」について J.W. ダワーは「歴史家が書いたことを研究する以前に、まず『歴史家』を研究せよ」と述べている。〔『思想』855 1995年9月〕
また、誰が書いたかということだけでなく、いつ、何のためにそれを書いたのかという知識とともに読まなければならないと指摘し、「学問的著述は、一般に時代の支配的な政治的空気を反映する」と記している。私たちは本講義で、明治の学制期を考察した。それは新政府の意図が反映され、前提として従前の江戸時代封建制度を批判していた。これが進展し、やがて西洋化の風潮が批判され天皇制中央集権国家が確立する。ところが、大戦後の米国(連合国)占領下に起草され確立された(今の)教育は、この天皇制中央集権国家を批判して国民主権の立場から模索されたものである。また、前回見たが、教科書記述の内容が、政治方針にそって修正された例もあった。これらは、それぞれの時代に「語られた」のである。
われわれは、かなり後の時代の人間である。歴史的評価も、直後の記述だけでなく、かなり総合的に判断するチャンスをもっている。ところが、「教育」という「装置」については、全世界的に巨大すぎるためか、問題について具体的に論争はあるが、「存在」そのものが問われることは少ない。最近になって、フーコーの論述などから説かれるようになってきた。
さて私は「教育の支配者」とでもいうような、制度化した最初の人たちがいたと仮定した。この仮定の人が誰かはわからないが、仮定の人物が存在していたとはいえる。では、いついたのか。これは近世と近代との転換期に存在したとしておこう。これは封建後期に権力をにぎりつつあった層の人物である。新しくそしてグローバルな主従関係が必要であった時期。産業革命によって共同体の解体・再編成が行われる時期。新しい支配と結びつきが必要となる時期。世界間の交際のため生まれる国家意識、国民意識、富国強兵の必要と近代国家の仲間いりというスローガンを掲げた人々。他国があるからこそ、武力でない文明あるいは「教育」という装置での統制。また他国があるからこそ、自由貿易により資本(富)を増やすことも可能だと考えた。この「資本主義思想」という、「封建主義」にかわって成り立ったものたち。この中に「教育」を「支配」の装置として「制度化」(少なくとも認識していたのではないか)した人たちがいたと考えている。
また、「近代化」の現実をみても明らかである。「資本主義化された近代国家」=西洋が「未だ近代化されていない後進国家」=主にアジアを「近代化」する時、教育が「支配の装置」として明確に機能した。例えば日本・中国・韓国の近代化において、西洋や米国はミッションが進出し、外人教師となり、あるいはミッションスクールをつくり、教育の成立と欧米の近代文化の伝達に貢献した。また留学生を多く受け入れ、その最初の被教育者(生徒)は後の近代化過程においてエリートとして重大な役割を果たした。また彼らは必然的に、親欧米派となることが多かった。特に中国・韓国は直接支配を受け、キリスト教伝道が条約で指定されたので進出の度合いが濃く、自立が後れて結果的に「近代国家」としての独立が遅れた。後に教育権回収運動などが起こり、ナショナリズムが高揚して漸く取り戻すことができるのである。日本は開国後上手くつきあい、教育の独立を保った。それだけではなく米国の真似をして、戦勝賠償金を留学受け入れ金として使い、恩を売り親日派をつくるようにした。大戦後の奨学金留学も同じだが、これらは洗脳、思想統制の一面をあわせ持つことは言うまでもない事実である。
今現在、噴出している教育問題。そして問われる教育制度の盲点と学校教育批判。これらを、「教育による支配」を企図した者たちは予想していなかったかもしれないと、前に述べた。なぜなら、これらの問題はその社会「資本主義社会」がゆらいでいるから表面化するのである。彼らはこの社会統制がゆらぐとは思っていなかったのではないか。現在、「ゆとり」「生きる力」などと新課題があがり、自由化が叫ばれてきた。受験主義が批判されだす。それは新しい価値の模索である。社会の不安、経済不況などによって、いわゆる「国民」が学校教育制度のありかたを疑い始めたのである。このことからも「語ってきた者」が「資本主義という社会」の人であったといえる。もちろん単純に「資本主義」といいきると、語弊がある。ここは「資本主義」という新しい制度に変わる時にいた支配者のことを示すと付け加えてことわっておこう。また「社会主義」「共産主義」社会には、「資本主義」批判からの成立であるから「教育による支配」がないのかと問われれば、そうではない。考えたのはどこであれ、「教育は制度化された」のである。
教育行財政研究者の羽田貴史氏は次のように述べている。
○教育は、次代形成の営為=種の保存として自然的基礎を持ちつつ、社会的に行なわれてきた。どのような人間
が形成されるか、どのように形成されるかは、特定の社会=歴史段階に固有な社会的編成によって決定されてき
た。それは、第1に、人間の生活がどのような形態で営まれるか とりわけ家族と労働の形態によって規定され、
第2に労働を離れて目的意識的に知識・技能を継受する教育形態(=学校)の成立とその組織形態は、生産力の
発達と剰余生産物の水準によって規定され、第3に、これらの内容は社会的に剰余生産物を配分する形態、社会
的共同機能の処理の形態の変化によって規定されてきた。
特に、公教育の成立は、資本主義と近代市民国家の成立を契機とし、その理念と実態に深くかかわっている。
成立した公教育制度は、複雑に社会の生産・消費・再生産の網の目にくくりこまれ、かつ、肥大化して、人間の
形成過程を覆っている。(以下略)
〔羽田貴史「戦後教育学の再検討 −『教育的価値論』と教育研究の課題」〕
さて、まとめに入ろう。「教育」とは、何であるか。「教え育てる」「教わり育つ」、「教えられ育つ」「教わり育てられる」全てが教育であると考える。「学んで成長する」ならば「教育的行為」であり、教師や大人、友人、書物であっても、それらとの間に「教育的関係」があるといえよう。ただ問題となる「教育制度」は「教え育てる」、つまり、「何かを誰れかが教えて、育てる」という大人あるいは教師側からのベクトルである。児童尊重・中心とはいっても、根本の制度がそうであるから、対処的にしか問題が語られず大きな変化のないまま継続していく危険性があるのである。
★レポート 外国の教育制度、教育施設、教育問題 (このHPには掲載しません)
長谷川 『ヨーロッパでの女性問題』
中田『中国の教育について』
越阪部『モンゴル国の遊牧生活と教育〜知恵の伝承に注目して〜
金子『アメリカの非行問題〜青少年の犯罪について〜』
江森『アメリカの道徳教育について』
上野『自閉症児に対する診断および治療について
〜アメリカの考えに基づいた自閉症研究の動向〜』
斉藤『アメリカと日本が考える自閉症について
〜どのようにとらえられているか〜』
大塚『保育学校・幼稚園の教育目標と教育プログラム〜アメリカを対象にして〜』
河野『アメリカの幼児教育施設〜幼稚園などの保育室内の様子 他〜』
佐藤『アメリカの教育における矛盾〜特に黒人差別について〜』
谷川『アメリカの人種差別について〜学校における問題〜』
当間『アメリカにおける黒人女性の結婚問題について』
山田『アメリカの人種差別について』
★感想と反省 メンバーの感想は手書きなので掲載しません
古賀 徹
第一印象が優等生っぽくて、おとなしそうだと思った上野さん。出席番号1番のため、いろんなことでイケニエにしてしまいました。でも討論の時は、言うことは言う人間だとわかりました。 一見おとなしそうで、ちょっとゆっくりと話すイントネーションに特徴がある江森さん。他人の会話を聞いている姿にただ者ではないするどさを感じました。しっかりものですね。皆があなたの意見・発言に期待していました。 いつも河野さんと仲良かった大塚さん。「動物園」の発表がとても面白かったです。今後は精神薄弱児の勉強ですね。頑張って下さい。 越阪部さんはユニークでした。ダイオキシンにモンゴルと、視点が面白い。日本人の精神(天皇)について話したのが印象的です。 金子さんは組長でしたか。カンロクがあるというか、風格があるというか。時々寝てましたね。でもしっかりとしきってくれました。たよりにしています。 河野さんはテーマ的に興味がありました(僕も明治教育史研究が専攻です)が、意外におとなしい子だなと感じました。でも討論での発言はしっかりと覚えています。 斉藤さんは真ん前に座っていて、ノートをとっている時の姿(というよりも『目』)が印象的でした。私の板書の字がきたないので悩ませてしまいましたね。 佐藤さんは、理解する力、発想の能力がすごいと思います。最初の授業の時から遠慮なく目立っていて、「何者だ」と思いましたが、とても純粋ないい子だとわかりました。 谷川さんは発表の時に長すぎるほど内容ビッチリと調べてくるのですごいと思います。レポートもビッチリです。これからもこのように頑張るのでしょうね。 当間さんは外部出身なので、たいへんだろうなと思いましたが、ちゃんと溶け込んでますね。おとなしく引っ込み思案のところがありますが、これからも頑張っていきましょう。クッキーおいしかったです。ルーシェによろしく。 中田さんもおとなしいんだろうなと思っていましたが、発表や討論では活躍しましたね。しっかりとした授業態度が印象的です。腕の怪我、どうぞお大事に。 長谷川君は男一人で不利かもしれないけれど、これからも頑張ってください。大沼先生もいつもハセガワ君のことをほめていました。
山田さんは、最初はまじめでこわいのかなと思ったし、何とか発言させようといつも思っていました。でもいい味のキャラクターだったと思います。ひそかにあなたのリアクションを楽しみにしていました。
以上、皆さんの愛すべきキャラクターに感謝します。楽しい一年間でした。これからもお互いに頑張りましょう。
自身の反省としては、まだまだ努力が足りないことです。まだ楽をしてしまっているように思います。もっと授業でたくさんのことをやりたかったのですが・・・。
まぁ、今後もまた頑張ります。ありがとうございました。