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 以下に1999年11月に行なわれた寺崎昌男先生によります講演を収載いたします。この講演の内容を短く編集したものを『教育学雑誌』第34号(2000年)に掲載しておりますが、このホームページには当日録音したテープからおこしたまるまる80分のお話しを載せたいと思います。とてもいいお話しだったと思いますし、基本的に自分が考えていることと一致することも多いと再確認いたしました。ひじょうにお話がうまいかただと思いました。勉強になりました。
 
 
日本大学・文理学部・教育学科50周年記念・シンポジウム
               1999(平成11)年11月13日
               日本大学文理学部4号館412教室
      講演者:寺崎昌男(桜美林大学大学院・教授)
 
 寺崎でございます。
 今日は、本当におめでとうございます。「50年間」、一つの学科が続いたということは、それなりにおめでたいことだと僕は思うのですね。「それなりに」といいますのは、大学や学科とか学部とかで、本来の存在理由をはじめから持っている機関はないと思った方がいいと思います。これは私(わたくし)が言いはじめたことではなくて、中山茂という科学史家が言っていることでございますが、おそらく科学革命以降の大学に強くあてはまることになるでしょう。
 つまり、ある学問やある分野、それを支える組織というものが、はじめから存在理由があるというふうには考えない方がいい。いずれは滅ぶかもしれない。いずれも、また起こるかもしれない。そういうものとして思っておいた方がいいと、基本的にそう考えております。ですから、何々大学百年史とか・・・、私も『東京大学百年史』っていうものの編纂をさせられましたけど、それもおめでたいといえばおめでたいのですが、しかし、いつなくなってもいいのかもしれない。それぐらいの肝(はら)を、おそらく、大学人というのはこれから持っておかなくちゃいけないだろうと思われます。それはおそらく今日お話ししたい「サヴァイバル」ということに連なるテーマだと思うんですね。
 これまで日大の教育学科と、いろいろな関わりをもたせていただきました。考えてみますと、よその大学にも教育学科はございまして、立教大学の教育学科などは、一時、教員を、そこでさせてもらったことがあるんですけれども、日大は、たぶん、その次ぐらいに、いろんな形で関係があったんじゃないかと(思います)。先程、今野先生のお話にありました(寺崎講演の前に今野三郎氏による学科史講演があった)土屋先生がお元気だったころ、たびたび、おじゃまをいたしました。土屋先生は、私が10年間勤めておりました野間教育研究所というところの最初の所員でございまして、その点では大学の先輩であると同時に勤め先の先輩でもあったわけでございます。そういう土屋先生とのつながり、まだ(土屋先生が)お元気だったころに、大学院に集中講義に来させてもらったこともございますし、特別講師ってのによんでいただいたこともあります。さらに、その後は、先程、今野先生がお話しになりましたように、学会の事務局をたびたびひきうけていただきました。代表理事をしておりました教育史学会の事務局を3年間、本当にお世話になったのも、この日大の文理学部教育学科だったわけでございます。最近はまた、学会等々で、この大学院の方たちがひじょうに活発な発表をなさっている、というのをみまして、ずいぶんいろんなかたちで、やはり先程おっしゃった「和(わ)」の中の活性化された、研究・教育の場になっているんだなということを思って、密かに喜んでおるところでございます。
 
 そういうところでお話しをさせていただく今日のテーマは、卒業生の方々には、少し縁遠くなった「大学」の話ということになるかと思います。また、大学院生や、大学の学部の方々にとってみれば、自分が今やっている「教育学」というものの「環境」といいますか、「歴史」を含めた「環境」がどういうものであるか。これを考えていただくことになるかと思います。そういうことで、時間をいただいて、話をさせていただきます。
 
 まずは、今の大学の「危機的状況」ですね。これは、やはり、相当に大きいものがございます。なんといっても18歳人口が減りつつあるという、大学としてはどうしようもない条件が、もう始まっていることはもちろんご存じだと思います。このごろ、やっと新聞も、いろいろいうようになりました。2009年問題ということをいいます。この年に、大学入学定員の総数と、それから、たぶん今の率で大学進学希望者があるとすれば、その年の18歳の人々の中で、大学に進学を希望する学生の数とが一致する。つまり、論理的には、もう大学入試というのは必要なくなる。その時代が「2009年」といわれているというわけですね。これはひと(論者)によってちょっとずつ違いまして、2年ぐらい前までは、2010年ぐらいといわれていました。ところが、最近はそれが1年ぐらい早まって2009年、ひょっとしたらもう一年ぐらい早まるかもしれないですね。そういう、2008〜9年ぐらい、今からつまり9年から10年のちというのには、ほとんど大学というのは、お願いして(志願者に)来てもらうという時代が必ず生まれるわけでございます。それで、その時代までに、いつ分岐点があるか・・・、これがどうやら、玄人の方たちの、今、論議になっているようであります。
 私は今、桜美林大学の大学院で教えておりますが、桜美林大学大学院は社会人を歓迎して受け入れるということで・・・、土曜日に開いております私の「大学教育史」という講座で、約20人ぐらい大学院生が来ますけど、半分が大学のプロの人たちなんですね。職員の人、それから大学関係協会の職員もおられますし、それから、時々は現職の先生も来られる。そういういろんなルートの方たちの話を訊いてますと2005年ぐらいじゃないかって・・・、2005年ぐらいが、一つの分岐点で、その時になると、勝ち組と負け組がはっきりする。もう、私学の間ではそのことははっきりしていて、これから、あと5〜6年ぐらいの間に、必ず、勝ち組と負け組とがのこるということでございます。ちょっと注意して、いろいろな入試の頃の情報をごらんになると、新聞や雑誌は定員割れのことしかいいません。もうちょっとその手前でですね、志願者数対前年度比というのがあるんですが、これをごらんになるとよくわかります。対前年度比90%以上でしたら、それは相当にいいほうです。もう極めていいほうです。100%超えるってことはもう例外でしかありません。大きなタワーが建ったりですね、大学院を急に創ったり、学部を2つばかり増やしたりすると、100%を超えることもちょっとあるんですけど。それ以外の時はもうだいたい、平均して前年度比で80%ぐらいじゃないでしょうか。これは、だんだん、大学によって、その差がはっきりしてくるんですね。要するに、成立するかしないかということは、あんまり高尚な議論のレベルではなくて、物理的におこりつつあるわけです。
 
 大学審議会というところが去年の10月に報告書を出しました。この答申などを見ますと、副題には「競争的環境の中で個性が輝く大学」という立派なことが書いてある。そして、「21世紀に向けての大学の未来像を語る」とも、書いてありますが、しかし中を開けてみると、第一番目に出てくるのは、「21世紀初頭の社会状況の展望と高等教育」・・・、これからはじまる。「21世紀」のというのと「21世紀初頭の」というのは全然違うと僕は思います。これは、相当な、つまり、その点では詐術を含んでいる報告書だと僕は思っているんですね。それで、初頭を議論するこの報告書の中で例えば、うっかりすると見落としますけれど、例えばこんな文章があるんですね。
 一番目は、「大学・短期大学の規模」というのが最初のチャプターですけど、「高等教育規模の展望」「1、大学・短期大学の規模」と・・・、ずっとづらづらといろんなことが書いてありますが、その一番最後に、例えば、こんな文章がございます。それは、「あわせて、特色あるすぐれた取り組みを行う私学等に対する重点的な助成についてのいっそう適切な配慮」・・・、そこまではわかりますが、次に、「私学経営に関する相談体制のいっそうの充実」、これは困ってない私学は相談する必要はありませんから、こういう私学がでてくるよ、ということなんですね。それから、その次に、「大学等が廃止される時の学生の取り扱いについて、適切な方策を講じること」、こういうのを、私のゼミに来ている、そのプロの大学の職員の人とか、協会の人たちがパッとみるわけです。これは、必ず「つぶれる」ということをもう、はっきり予想している。大事なのは、大学がつぶれても文部省が責任を負うわけではない。「おつくりになったんですから、どうぞつぶれてください」というだけのことですね。文部省が一番好きな言葉は最近、「日本護送船団は崩れた」という言葉です。「誰も助けないよ」ということなんですね。「溺れたって、あなたの自助努力が悪いからだ」という。ただし、文部省が責任もっていることは一つだけあるわけです。それは何かといいますと、「今いる学生が、つぶれたからといってどうなるか」、ここの点についてだけは文部省が責任がございます。それが、この「廃止された場合の学生の取り扱い等」です。一説によれば、もはや文部省の中にそういうプロジェクトチームが、ちゃんとできているということであります。あと5〜6年でこの勝負がついていく。
 さらにいいますと、私は、大学を6年かかって卒業いたしましたが、そのうちの2年間は、実家で商売の手伝いをいたしておりました。呉服屋でしたから、呉服屋の番頭をかわりにやって、つぶれかかったんですが、・・・後では本当につぶれたんですけども、倒産した商店の息子だった。ですから、商店がつぶれるときの様子はよくわかるんです。まず、手形の不渡りですね、これがはじまる。不渡りの後で、仕入れの荷物が来たり来なかったり、助けてくれる卸屋がでてきたりしたら、商売はなんとか続くんです。それでもいよいよ駄目な時には店を閉めるんだけれどもなかなか閉められない。開けておく、しばらくは・・・。この学生との取り扱いと同じです。しばらくは開けておいて近所の迷惑にならないようにしておいて、ある日、逃げ出す。その後はどうなるかっていうと家は競売にふされて、そのお金が債権者にまわる。その間にもう散々に債権者から責めたてられる、というような、なんとか商工ローンじゃありませんが、ああいうふうになる。だいたい筋道は、商店の場合、僕はわかるんですよ。
 しかし大学がつぶれる時って、どういうふうに始まってどういうステップをとるのか僕にはよくわからなかった。この間、訊いてみました。ベースアップが止まるのかと訊いたんですが、「ベースアップぐらい、もう早くから止まってしまいます。そりゃもうなんでもないことで、あとで教員の首切りがはじまる」、それは容易なことじゃありませんから、大分後のことでございますね。それで、はじめにわかるのは何かっていうと、「廊下の電気が暗くなる」のだそうです。経費節減、これが始まるんですね。で、廊下の電気が暗くなっていって、そのうちに気がついてみたら、大学が取引している銀行の質が変わってくる。一流の市中銀行でやってたところが、だんだん高利貸しの方へ移っていって、なんとかローンとかからいっぱい借りるようになったらもうその次は駄目なんです。そうやっていくころにはたいてい定員割れが起こりますから立ち行かなくなる。そのあたりでお手上げ。あと、土地やなんかどうなるのって訊きましたら、学校法人のもっている土地はかってに売買はできないそうですね。裁判所で競売をするわけにはいかない。これはどうなるか、そのへんの方策がまだ立ってないから、今、文部省は検討しているところでしょう、というんですね。今、実際、そういうようなことがもうほとんど現実の問題として起きてきつつあるという時代だと。ですから、その点では大学はかつてないほど、厳しい状況の中に、僕はおかれてくると思うんですね。いくらか、個性の輝く大学は生き残るかもしれないけど、どんな個性が生き残るかっていうことになると、誰もまだよくはわからないわけです。本当にその点では、やはり戦後始まって以来というよりも、明治以後始まって以来ぐらいの厳しい状況が続いていくだろうと思います。絶対にもう、18歳人口の低減は、少なくとも止まらないわけですね。最低のところにいったらちょっと横ばいになるかもしれないですが、これも誰にも読めないということで、ひじょうに厳しい。
 
 一方、国立大学はどうなっているか・・・、これは最近、「独立行政法人化」というのがいわれております。あの「独立行政法人化」にそって、何がおこるかについてあまり読めません。これも、「統廃合がたぶんおきるだろう」ということでありまして、きくところによるといくつかの国立大学の連合の行政法人ができるであろう。四国なら国立大学は4つありますが、高知、徳島、香川、愛媛、この4つの大学を統合することになるかもしれないともいわれますし、他方で、分野によってはもう、今ある大学の中から「ある分野」だけはでていって、よそと統合してしまうということです。この前、中国地方のある大学で、私に一度、大学改革についての、カリキュラム改革についての話をしにきてほしいといわれて、その交渉された先生が獣医学の先生だったんですね。私が講演に行った日は、「誠に申し訳ないけど帯広まで行かなくちゃいけないからいられない・・・、恐縮ですが」って他の先生が接待してくださいました。それで、その方はなんで帯広に行かれたかっていうと、「獣医学」っていうのをもっている大学は全国に6つなんだそうです。それがバラバラにあったんではもうつぶれるというので、あわせて、連合学部をつくる、というので、北は○○大、南は△△大学でしたかね、2つ拠点をつくって、もうそれは「××大学」とは関係ないということで統合するんだっていうんですよ。そういうふうになってくるんじゃないでしょうか。ですから、これ必死です。
 最近発表された、あの「国立5大学」ですね、あれが連合するというニュースがありましたね。東京医科歯科大学、外国語大学、それから芸大、そして一橋と東工大。あれはたいへんなことであります。本当にその統合ができたら、東京大学も危ないと思います。今朝の朝日(新聞)を見たら、東京大学の中に、芸術系学部、融合された文化系学部をつくるといっていた。もう始まっているわけです。食うか食われるかっていうのが国立大学の中で、すでに、進行しつつある。この大きい変化がこれから10年間の間におきていくと僕は思います。どの大学もこの、この大波ってものをさけることはできないんですね。そういう時代に今はなってきている、というふうに考えます。
 
 もう一つはですね、そういうふうに、大きい変化の中にあるわけですけど、それじゃ今ある大学の形というのは、基本的に、システムが悪いのかということになる。私にはそうは思えない。というのは、50年前に日本が選択した形があるわけですね。その形というのはなんであったか。
 佐藤先生たちと、一緒に、教育刷新委員会の議事録というものの全13巻の刊行を終わりました。戦後の6・3制を担った、その機関がですね、この大学のありかたについて、1946年の12月に決議をいたしております。その決議の中身は「高等学校に続く機関を大学とする」とあるんですね。「高等学校に続く4年間の学習課程を大学とする」と、4年間であるということが決議の要点です。これは、当時、それがそんなに意味があると誰もわからなかったようです。高等学校というのは旧制中学や高等女学校や実業学校を再編してできて、それが6・3・3のいちばん上になる、というのなら、その上に大学がきておかしくないじゃないか、その大学は、4年間であるから、その前の制度と比べると大卒の年齢は1年下がるので、年限の短縮にもなるであろうというぐらいのことで、皆そう決めたと思うんですね。ところが、あの決議のポイントは何かというと、「高等学校に続く」とあることです。これは大きかったんですね。その高等学校は、どういう高等学校かというと、もちろん旧制高校ではない。新制高校である。当時、文部省もやはり通達を別に出して、「新制高等学校実施準備の案内」というのを出して、その中にすっと一つの文章がすべりこんでおります。そのすべりこんでいる文章は、「高等学校は希望するものがあれば、原則として誰でも行く学校である」、こう書いてあります。旧制中学や高等学校のような絞り方をしなくていい、ということなんですね。この文書は今の決議よりは遅れましたけどちゃんと出た。つまり、ユニバーサル・セカンダリー・エデュケーションの上に、マス・ハイヤー・エデュケーションが乗る、ということの、これは実は宣言だったわけでございます。その事態は現実に進行していったわけですね。今、申しました、47年に出た、「新制高等学校実施準備の案内」というのに載った「高等学校は希望するものは、誰でも入れるところである、そのように運営すべきである」というこの通達は長年忘れ去られておりました。ところが、60年代に入って、「全員が高等学校に行きたい」と言いだした時に高等学校が足りない、つまりこの時に、「高校全入運動」というのが高知県をポイントにして発生したその後で、この通達に皆、気がついたんですね。「高等学校は全入でけっこうだったんだ」ということに気がついて、それで、今、現実にごらんになるように、中学校の高校進学率はもはや90%後半を絶対に割らないわけですね、98%になりつつある。こういう時代になってきている。まさに、ユニバーサル・セカンダリー・エデュケーションは、形として実現しております。この時にですね。高等学校に続く機関が大学であると決めておかなかったらどういうことになったろうかと思います。もし、そう決めておかなかったとしたら、おそらく日本は浪人であふれかえっていただろうと思います。ともかく日本の大学はですね、高等学校の次の機関です。大学入学の基本資格は高校卒業なんだと決めておいたおかげでいちおう、大学の門戸はひらいてきたんですね。これは、よその国と違うところだと思います。アメリカは、今の形を、大学の形を今度は猛烈にバラエティに富ませて対応してきた。ところが、ドイツやフランスはどうだったかというと、そこはしなかった。ヨーロッパ型大学のエリート主義は壊さなかったおかげで、その後、たいへんな困難を強いられているわけでしょう。フランスでフォールの高等教育法が通ったのは紛争以後である。あそこでやっとフランスは、高等教育というのは、マス高等教育なんだ、大衆高等教育なんだということに、やっと対応できた。イギリスも同じ60年代に、それまで、「いや私たちは、高等教育のことはハイヤー・エデュケーションとは言いません。ユニヴァーシティ・エデュケーションならわかるけれども」とイギリスの学者たちは当時そう言っておりました。ところが、60年代のはじめ、「ハイヤー・エデュケーション」ということばを意識的に、この委員会が使うようになったわけですね。やっと今、オックスフォード、ケンブリッジ、ロンドン大学等々だけじゃない、高等教育体制というのができつつあるところというふうになっております。つまり、日本以外のところは、そうとう、この困難をきわめた対応を、ギクシャクしているわけですね。ドイツだってそうです。大学入学資格はとおった。とおったけれども、いく大学がない。この学生たちがたくさんまだいるわけです。日本はそれはありません。ないカタチのものを戦後選んだからです。ですから、日本の場合、大卒の入学資格が高校卒業であるということは、全体としては、大学の水準を下支えしているわけですね。 
 それから第二に、そのことによって、このユニバーサル・セカンダリー・エデュケーションの上にマス・ハイヤー・エデュケーションが乗るという現在の実態に対するキャパシティを持ち得た。受容力を持ち得たと思います。これは、われわれの先輩たちがとった、一つの重要な選択であった。僕はこの選択を今変える必要はないと思っております。むしろそのうえで何ができるかということですね。ちなみに、今おきている大学改革の問題なんかを、よく「戦後最大の改革だ」とか言う人がいます。間違いだと僕は思います。戦後最大の改革は、いま申しました1960年代、昭和46年から49年ぐらいまでの間に終わったと僕はそう思います。いま問われているのは、そのころ本当はしておくべきだったことをやらなかったというツケをいま払わされている。これがいまのかまびすしいですね、Q&Aを生み出している背景だと僕は思います。で、社会人入試しかり、すべて、現在おきている問題は、当時、解決を、実は先送りしてきた問題が、いま問われているんだと思います。だから不思議な倒錯現象があるように思いますね。事態が深刻化している。非常に危機的である。それに対応するにはどうしたらいいかということをいろいろ考え出すけれど、それは50年前の選択の線上の、ある新しい選択、これを僕らは強いられているんだと。しかし、その新しい選択といえども、50年前の大きな選択のやっぱり枠内にある。こういうことだと思います。そういう意味で、戦後50年の大学史というのは僕には、ギクシャクがあるというよりは、やっぱり一繋がりのものとしてみえるというふうに、いつも考えているところでございます。 
 
 いま、いろんなことがいわれますけれども、僕は基本的にはですね、大学にいる人間は「慧い(さとい)目」(慧眼のこと)をもってなくちゃだめだと思うのです。「慧い目」と、それからこの「果敢な決断」というか、これがいまいちばん求められているじゃないかと思います。「果敢な決断」の方は、案外いま皆やるわけです。「果敢」というのは、いろいろありますが、人間必要にせまられればいろいろ思い切ったことをやるわけで、ちょうどスーパーやコンビニが新しい商品を出したりなんだかんだりするのと同じで、やっぱり一生懸命考えますよ。だからいろいろな大学はそれなりに新しい学部を創ったり、それから、もう、「4文字学部」ということばがありますが、いまはもう古くて、6文字があたりまえでございます。そういう「6文字学部」というのを創ったり、いろんなことをやって、なんとか切り抜けようとする。それも、決断の一つです。大事なのは「慧い目」の方だと思いますね。いま、いろいろおきている事柄の中で、やっぱり、問題だと僕は、このごろ、あらためて思うようになりましたけど、例えば、「アメリカ」というのを、たった一つのモデルに考える傾向というのは、特に大学のこのありかたを考える場合には強いですね。それは、学ぶべきことはあります。「シラバス」などというのを本当に充実させてきているか、「学生はクライアントであるか」というような学生を本当に自分たちのクライアント=お得意様と見てきたか、こういうことなどはみんなアメリカの大学の方が先輩ですね。それから、半年ごとのセメスター制度。あの制度をどうやってとるか、とか、いろんなかたちでアメリカから学ぶべきものはすごく多いわけですけど、では例えば、シラバス、セメスターといったような制度自身を、そのままいれて成功するのかということになると、それは逆のこともけっこうあるんですね。ある大学は、いち早く、シラバスをつくりました。それも全学一本のシラバスというのをつくりましたから、もう本当に、ハローページみたいなシラバスになりました。それは半年で学生たちに捨てられました。自分の関係したところだけコピーして持ち歩けばいいんで、毎日毎日電話帳持って学校来ることはないわけですね。それで、ある大学に行くと「遺失物」のところにそのハローページみたいなシラバスがデーッと並んでいるんだそうです。誰もとりに来ない。
 最近よく「インターンシップ」というのがいわれます。文部省も「インターンシップをやれ」とさんざんすすめている。いろいろな分野で、インターンシップをとることという。「インターンシップ」というコトバだけで、日本に入ってきたんですね。そこがまず問題なんですが、それは置いておいても、インターンシップをやれという人に、どうしてしなくちゃいけないのかってききますと、「グローバルにはそうなんだ」というんですよ。「グローバリゼーションの時代です」といいます。「国際的な競争に日本の学士教育が勝つためには、それをとりいれなくてはいけません」とかいうようないいかたをしますけれども、僕にいわせれば、「グローバリゼーション」というふうなことばは、きわめて怪しげなことばだと僕は思っております。「グローバリゼーション」の背景にあるのは何かというと、僕は「世界市場の形成」だと思うんですね。「市場の世界観」というのがあって、その、「世界の市場は一つなんだ、この一つの市場の中で勝ち抜いていくためにはどうしたらいいか、その市場の約束に従う他はない」というのが、「グローバリゼーション」のもっている少なくとも一つの面であります。それと、今度は地球上の人類、あるいは民族、国家の連帯といったようなことばとが結びついているのが「グローバリゼーション」というものだと思うんですね。そういう中で、「グローバリゼーションだからやりなさい」というふうにいわれて、すぐそれにとびつくってのは僕はおかしいと思っているんです。それで、さっきの「インターンシップ」ということばは、文部省が出しました「インターンシップのマニュアル」とかいう薄いパンフレットがあります。それをみるとなんのことはない、教育学科がやってきた教育実習のようなもの、それから工学部の学生がやっている工場見学のようなもの、それから看護学の学生がやっている病院実習、医者がやるインターン、こういうものをみんな含めて「インターンシップ」と称しているだけなんですね。アメリカの様子を実際に事情を知ってる人たちにきいてみますと、「インターンシップ」については、「多くの大学では、まともな大学だったらそれは『医者と教師』、この二つしかありません。他の大学では『コープ・エデュケーション』というところもある−『コーオペレィティブ』の略です−別の大学では、ある学長の話をきいたところ、『コミュニティ・ワーク』といって、学生を半年間、自分の大学のあるコミュニティに行って、なんでもいいからボランティアをやってこいといって、ともかく、カリフォルニア大学、連合大学の一つとして生き残りました」という大学もあるんですね。そういう場合、「インターンシップ」とはいいません。そのへんの商店にインターンにいくなんて誰も考えないわけで、そんなことでなくて「コミュニティ・ワーク」に行くんです。それで、コミュニティの人たちと生活をともにする。ですから「インターンシップ」ということばがあるから、それを使え、それを使ったうえで、これは何故使わなくちゃいけないかというと、これは「グローバリゼーションの時代だから」などというわりと粗雑な議論がですね、大学改革についてはあると思います。僕らは、それをやっぱり「慧い目」で、見抜いておく必要がある。そうしないとどういうふうに動いていくかわからないというぐらい、やっぱりきついところに今大学は立っているというふうに、特に最近、痛感するところでございます。
 
 私は、これまで、いろんな大学で、大学問題についての、この作業に携わってまいりました。今日、およびいただいたのもきっと、これまでのそういう経験も話してほしいということだと思いますので、一つ焦点を置きたいと思います。それは、「これからの大学は、何を目標にするべきか」ということについての、僕らには反省が必要じゃないかということでございます。さっき申しましたように、いまのシステムは50年前に選ばれました。そして、いま、我々は、その中に、大学のシステムの中にいるわけですが、その、そもそも、新制大学−いまの大学が生まれたころに、大学の先生たちや、学生たち、それから世間の中の知識階級といわれた人たち、それからもちろん政府の指導者たち、あるいは産業界の人たち、こういう人たちは当時、大学は何をするところだと思っていたんだろうかというのがあるんですね漠然と。それは、総じていって、こうであったと決めつけることはできないのですが、いまになって思ってみるとですね、おそらく当時の方たちは、新制の大学は、旧制高校をいれた、大学予科も抱き込んだ、そして一般教育を置かなくちゃいけなくなった、で、その上に専門があるんだと、・・・こういうカリキュラムの構造を、どの大学も、否応なしに受け入れたわけでございますね。やがて、その一般教育課程の中はだんだん細かくなっていって、体育も必修となり−これは発足する前から必修になっていたんですが−保健体育は必修となり、そして、教養教育だけではだめだからと、外国語をそこから独立させたりして、だんだん細かくはなっていったんですが、構造はやっぱり「一般教育修了後、専門教育を受ける」、で「4年間で終わる」、この構造だったと思う。そうすると、当時の方たちはですね、みんな一様に、「大卒の人たちっていうのは、専門の学力をもってる人たちだ」と、こう思っていたと思います。「専門の学力」というのは、法学部の学生だったら法学の知識、工学部の卒業生だったら工学に関する知識、もちろんそれ以外の人たちだって、大卒の名にあたいする学識をもっているものだと、こう思っていたと思うんですね。これは、短いことばでいいますと、「教養ある専門人」というのが、新しい大学の卒業生像だと、こう思っていたと思います。それを別のいいかたでいうと、一般教育のところに重点を置く方は「民主的社会の市民育成が大学だ」とかですね。いろんなことをおっしゃっていた−バラエティはありますけど−つきつめていくと僕はそういうことだったと思うんです。
 それでいいかという問題ですね。これはやっぱり50年後の今日(こんにち)、ひじょうな再検討を迫られていると僕は思っております。私は立教大学で、全学共通カリキュラム運営センターというところで従来と違うカリキュラムを発足させるために、たくさんの学内の先生方と話を重ねさせられました。そのころに、僕が申しておりましたのは、この先生方に話して度々言ったのは、「目標を変えましょう」と言ったんです。立教大学4年の卒業の時に、どういう人間(ひと)を送り出すか。この目標を僕たちは「教養ある専門人を送り出す」と考えてきたんじゃないでしょうか、と。「これをひっくり返しましょう」と言ったんですね。ひっくり返して、「専門性に立つ、新しい教養人を育成する」、こういうふうに思いさだめましょう、こういうふうに度々申しました。これは、いってみると、意外にですね、多くの先生方が「あぁ、そうだなぁ」と「ハッ」とした顔をされるんですね。僕は、これは、これから、きわめて重要だと思っておるんです。いちばんその重要さを、いちばん痛感しているのは誰かというと、産業界の人たちですね。産業界の人たちがこの数年間、日経連だの、それから経済同友会とか−経団連はあまり出しませんが−、特に日経連と経済同友会、これが次々にこのところ、大学に意見を出しておりますが、その意見をみると驚きます。彼らは、新制大学の卒業生が出始めた、1953年になんていったかというと、「旧制大学の卒業生に比べて、新制の卒業生は学識がない」と言ってました。「専門の学力が低い。これはまことに問題だ」と彼らは言ってました。そして、これをなおすためには「先ず4年間という限られた期間の中で、無駄な学習をするという努力をやめた方がいい」、ポイントは「一般教育」、「あれがなんにもなってない」し、「むしろ、専門3年間の教育を保証していた旧制専門学校の方がよかった」という意見が、私が調べたかぎり、1950年代から60年代初めまでの、日経連要望書のポイントです。これしかいわなかったです。時には、さらに、60年からの貿易自由化が始まるっていうことを前提にして科学技術時代が始まるという時に、「上田繊維専門学校とか、秋田鉱山専門学校とか、九州の工業専門学校(明治専門学校)とか、昔の、私立のユニークな専門教育機関が多様に存在していた時代の方がよかったという声すら、我々の間にはある」と書いてありまして、つまり、専門の勉強をさせるというのが、彼らが大学に要求した唯一の要求でした。これがいま、ぜんぜん変わってきています。4年前に日経連が出した報告書「新時代に挑戦する大学教育と企業のありかた」という報告書をみますと、そこに表れているキーワードは驚くべきものでございます。「問題発見・解決能力を有する学生」、これを送り出してくれと。それから「異文化に対する理解」、これをもつ学生がほしい。それから「現実の課題をみきわめ、これに対処しうる能力」をつくって、「リーダーシップ」をもたしてくれ、「決断力のある学生」を育てろ、こういうことばで、全部、報告・要望がなりたっております。そして、多文化の理解、異文化の理解を育てるために、あるいは現実に対する感覚を養うために、「例えば」といって、「歴史、哲学、文化、(それから)人類学等々の学習も必須である」と書いてあるんですよ。昔、それはやめろって言っていたんですが、いまは、「絶対にほしい」と言っているんですね。その後の方を見ますと「偏差値型の学校体制はけしからん」と書いてある。私はあれをみて、驚きました。驚いてその次に頭にきました。「昔、彼らはなんと言ったか」と僕は思いましたね。私は東京大学に13年半おりましたが、いまでも忘れられない。13年半の後半はバブルの真っ最中でしたけど、あのころ、私どものような教育学部の、「教育哲学・教育史」の部屋ですよ、そこに、ある在京、某有名科学メーカーの人事の人が訪ねて来た。そこの会社の重役を私の従兄弟がやってましたので、その従兄弟の紹介で来まして、何を言うかと思っていたら、「誰でもけっこうです」といいます。「ここは教育学部ですよ」と言ったら「いいえ。先生のところの学生はもうどんな人でもいいから」と言って菓子折りをもって来たんですね。そういう時代で、彼らこそですね、大学のブランドで学生を選ぶ、誰でもいい、東大に入った者ならもうそこまででいい、というふうに言ってた人たちなんです。それから「どうせ先生方や大学には期待していません」と言ってまして、「大学では遊ばしておいてください」「あと、入ったら私たちが教育しますから」、こう言い放っていたんです。本当に肉声で聞いたことがあります。それがいま、なんて言っているか。「教養のある人間を出してくれ」と、今頃になって言っているわけです。「偏差値体制」をつくり出したのは誰だって僕は言いたかったですね。そういう時代でしたが、頭にきたんですけど、頭にきただけじゃだめだと思いなおしました。21世紀、日本を含む経済活動はもう、絶対にさっきいったようにグローバルにならざるをえない−いや、もうなっている−その中で、どうやってその経済的ヘゲモニーというものをとりつづけていくことができるか。このことに対して、いちばん危機感をもっている団体の発言だと、こう思って読めなくはないんですね。逆に、そういう人たちが考えていることの中には真理もあるかもしれないと僕は思いました。
 いろんなところでみてみましたら、他の資料でもそうです。札幌大学というところがございますが、札幌大学の先生が、「企業と学生は大学になにを要望しているか」、「教職員はそれを知っているか」という調査をしたんです。本式の調査でございますが、その調査の結果もまったく同じことで、ほとんど、例外を除いて企業は、「即戦力が欲しい」とは言ってないんですね。そうではなくって、やっぱり「広い視野」というのを必ず求めるようになってきております。それでなければつかえないと思っているんですね。それから「外国語能力」、これをもう絶対に欲しいというようになってきて、もう大学をめぐる期待の「地図」というのは、様変わりしつつあると思います。僕は、こういう動向は、そのポイントをきちんとみればですね、やっぱり、かなりきくべきものはあると思っているんです。「21世紀に向けて大学は何をやるか」、私はやはり「新しい教養人をつくる」という、本来の線に戻ってよかったと思います。戦後の新制大学は、本当はそこに転移すべきだったんじゃないかと、いまにして思うんですね。新制高等学校を卒業して、それに続く教養教育を4年やる、そして、本当の専門教育は大学院でやる、これがいまのシステムの僕はポイントだったと思います。ところが、そうはいかなかった。いかないで、いわば、いろんなものを我々は抱き込んだ。ということで、その中で、これまでの、「教養と専門」のたいへんな角逐がおきて、それでその角逐ももう解決できなくなった時代に、大学の様子は変わりつつあり、世界情勢も変わりつつあるということだと思うんですね。
 いま、僕たちは、本当に「慧い目」で、大学の50年後というのを考えておく必要があると思います。そういうふうに考えまして、いまやれることは大学の中の教養教育をなんとか確実にしておくことだと思って、改革をやりました。やってて気がついたことがいくつかございます。本当に勉強になりました。もう2年半、その部長をやっておりました間に、うち(自宅)でご飯、夕御飯食べたのは週に1回あったかないかというぐらいの、厳しい会議をいろいろ続けたんですけど、それをやっています間に、わからなかったことがいろいろわかってきたんですね。
 一つは「外国語教育」という問題。これは弱いです。日本の大学はいちばんウィークポイントだと思います。特に、「英語教育」の問題というのがこれは大きくあるんですね。二番目は、多くの言語を教えるべきであるか否か、この問題が次に出てまいります。その仕分けがなかなか難しいのですが、僕らは、とりあえず「英語教育」の改革のところに絞ってみました。そして、英語専門の先生方にいろいろ訊いてみたのであります。あの手この手でいろいろ調査もし、インタビューもし、それから、学会に来て話していただいて間接的にこう知るということもやったんですが、やっぱりわかりましたね。僕らは、学生たちに、124単位の中の、少なくとも20単位近くは「外国語」をとらせているわけですよね。他の単位と比べて、あれは算定の基準が厳しいですから、長い時間をかけてやる、時間の割りには取れる単位が少ないです。ですから、学生の大学のアンダー・グラデュエートの期間のかなりの部分は外国語の学習に費やされておるわけで、ところが、それがイフェクティブであったかということになると、甚だ怪しいし、イフェクティブではまったくなかったんじゃないかと思われるんですね。原因を確かめてみると、例えば「語学の先生」といわれる先生方は、もともと「出」は「語学」ではなかったということですね。大学院で、シェークスピアの専門であったり、ミルトンの中世英語が専門だったりですね、それからナサニエル・ホーソンが中心だったり−アメリカ文学ですね、フォークナーやってますとか、作家の専門家たち、大部分の方がですね。それから、もう一つはシンタックスという語学、語学論・文法論の専門家たち、この方たちは語学教育の専門家では、最低ないということがひじょうに多かった。語学教育の専門家に与えられるポストはもうほとんどなかった。そういうのをやるぐらいなら、どうぞどうぞ、どこか会話学校で教えてくださいということだった。で、その方たちがドクターをおわって、あるいはマスターをおわって、たまたまあった口が、立教だった。で、行ってみればそこは文学英文科ではなくて、教養課程であった。そしてもつべきコマは「英語」であったと、こうなった時に、いきなり教育的情熱に燃えてくださいというのは僕は無理なことだと思います。私がその立場であってもね。しかし「仕方がない、語学はやらなくちゃいけない」、これでやっぱり、ずっともってきたのじゃないでしょうか。それを支える、また大量の非常勤講師という方たちがおられますけれど、これもこれで、あらってみれば、誰も「語学教育」の専門家はいらっしゃらなくて、英文学の専門家であったり、英語文章論の専門家であったりするわけで、これはすぐに役に立つ集団ではもともとなかったんだということがわかりましたですね。これで僕はわかりました。私、昭和26年、1951年に駒場の東大教養学部に入学して、どのような英語の授業があるかと思って僕なりに胸をはずませて九州から来た田舎の大学生でしたけどね、出てみたら、「ドリアン・グレイの画像」というのがテキストでした。先生は、発音は普通より少しは上手だったんでしょうけど、ただただ当てて、読ませていくだけなんですね、その間に僕は一度だって発音を直された経験はありません。それから、これはこういうものだって、う〜んとうならされた経験は一度もなくて、途中でなんちゅう面白くない英語だろうと思って「ドリアン・グレイの画像」オスカー・ワイルド作というのを読んでみたら、訳の、小説の方はなかなか面白かった。その次の時間、これは、英語の先生でしたけど、英文学、いやいまから思えば米文学の専門だったんですね。「評論」ですよ、全部、アメリカのブックレビュー、要するにアメリカ文学史の本なんです。それをテキストにした。ですから、それはアメリカの現在のですね、小説の名前、作家の名前、評論集ですから出てくるわけで、何にも読んだことないわけで、わずかにちょっとわかるかなぁというのがフォークナーって、あのころ訳が出てたかなぁってぐらいで、あとはきいたこともない作家とはじめてみる小説の題名がズラーっと並んでいて、これを一学期間やらされたわけですからね。もう、本当に、多くの学生がいうのがよくわかりました。英語はいつが力があったの、ときいたら、「受験のあくる朝でした」というんです。あの時がいちばんよく覚えていました、あとはおちる一方ですという。そうだと思う。なんにも役に立っていなかったんですよ。それはどうしたらいいかっていったら、もう大問題ですね、大学としては。これは本当に大きい問題だ。英語の、手紙の一枚も書かされなかった、一般教養外国語とはなんだったのか?と、あらためて思いました。同じことがいま、立教の学生にも続いていたわけです。これは、もう、徹底的に変えました。それで、いまや、最高35人、原則として30人以下のクラスというのをつくる、1年生の午前中は全部「外国語」にふりむける、そして、一つのクラスに二人の先生が担当、一人の先生が2回ずつ、必ずそのクラスに行くシステムを確保する。これで、学生の進度がわかりますね。そして、その中の中身は、コミュニカティブを中心にするけれども、他方で、文献を通じての学習ももちろんあっていい。「いきた英語」、つまり「発信力のある英語」ですね、これをやるというシステムを、やっと実現いたしました。本当にたいへんでしたけれども、なんとか滑り出しました。そういうことをやっていく中で僕ははじめてですね、こんな広大なる、この大学教育の領域を、やっぱり戦後考えてこなかったんだなと思ったんですね。旧制高校のための「外国語」はわかります。あれは、受容のための外国語です。あくまで受け身でした。最近、「日本人はなぜ英語ができないか」という本を鈴木孝夫さんという方が岩波新書で書いておられます。あれは面白い本です。あの方は僕好きで、まえからよく本を読んでいて、「言語としての文化」とか「武器としての言語」とか、面白いので読んでいて、今度のは特に、面白うございます。あの方が例えば指摘しているのもまったくそのことで、つまり、「追いつき、追い越せのための外国語学習」と、今後の外国語学習はそのままでいいのかといえば絶対にそんなことはないというのが彼の主張なんですね。今後の外国語学習というのがどうあったらいいのか、なかなか創建に富んだ意見が書かれておりました。あれは痛快な本です。あそこに書かれているように、学生たちは、「つかえる外国語」というのをもっていません。「つかえる外国語」をもっていないから、世界をわかろうと思ったって、なかなかわからないし、ましてや、ディスカッションやコミュニケーションもできないわけですよね。そういうのが、例えば、中南米かなんかに派遣されて、あるいは、中近東に派遣されて行って、そこの国の宗教はなんであるかなんてぜんぜんわからないで、歴史も知らず、人々が何を大事と考えているかという価値観も知らず、売りまくってきたというのが、やっぱり、日本経済だったんじゃないでしょうか。それじゃとてもだめだと思っているから、産業界は反省しているんですね、いま。鐘(警鐘)を鳴らしているんだと思います。やっぱり理由はあると僕は思います。そういう点で、「外国語教育」一つとってみても、変えなくちゃいけない点というのは、いっぱいあります。ちなみに、私はその「英語教育」を、全部の「外国語教育」も変わりましたけど、その時に、新しい形で、大学の先生たちを雇う制度に賛成しました。それは、言語教育だけの「嘱託講師」という制度でございます。さっきいいましたように、たくさんクラスをつくって、30人クラスですと、3000人の入学生だったら100クラスいりますね。これが、一度に開くっていうときに、非常勤講師にそれをお願いするというのは、無理なわけです。非常勤講師で1週間で2回も来てくれる方はほとんどありませんから。どうしても専門の先生が必要ということで、嘱託講師という方をお願いすることにいたしました。いまは、米・中・フランス・ドイツ・スペインの5つの領域の言語の先生方で、もはや40人以上ぐらいの嘱託講師をお願いいたしております。僕は、実は、大学教員としては、任期制というものに反対でした。その点で、反対の論をいろいろ出しました。ところが、いまの嘱託講師というのは1年契約を4回繰り返すことができて、最高5年間なんですね。いわば期限つきなんです。で、私は部長会議などで総長に言いました。「私は世にかくれもない、任期制反対論者です。その僕が嘱託に賛成しています。僕は理論的にはほとんど刑務所の塀の上を歩いています。それで僕をどっちに落とすかは、総長が嘱託講師をどれぐらい優遇してくれるかにかかっています」と脅かしたんですよ。本当にそれからよくしてくれました。研究も、仕事もちゃんとできるとかね、いろんなことでずいぶんよくなって、実現をして、私は一年間そのランゲージ・センター長という、その役割をして、その先生方のお世話をやって、それで、立教の定年を迎えたんでございます。あの忙しかった経験をみて、やっぱり思いますね。日本の大学で本当に変えられなくちゃいけないことがどんなに多いかということ。
 いま、もう一つうかんでいるのは「体育」ですね。「保健体育」、これも一時期は、91年にあの大綱化がおきたころは、いちばん日本の大学の先生の中で、いちばん危機感をもっておられたのは「保健体育」の先生、必修がはずれたわけでしょう。どうでもけっこうと、もちろん置かなくてもいいことになった。あの当時、保健体育の先生方の危機感はそうとうなものでした。私のところにですら、電話がかかってきました。「ちょっと先生、私は東大の医学部の何年の卒業ですけれども、うちの大学で、みんなもう保健体育はいらなくなったんだといわれています」と、私立の女子大学の先生でしたけどね。「私としてはどうしても大学教育には体育は必要だといわなくちゃいけませんが、どういうことをいったらいいんでしょうか」と、こういう電話ですよ。でも一生懸命応対したんですけどね。いまはどうか。いまは、いちばん領域のなかで僕のみるところ、そうとうに内部の改革がすすんでいるのは「体育」です。この前、日本体育学会と日本体育連合という大きな組織が一緒になった学会がありました。そこのレポートを読んで、あっと驚きました。やっぱりすごく努力していらっしゃるんですね。例えば、内容でいいますと、「生涯学習の基礎となる体育の方法と内容の開発」とかですね、それからカウンセリングの内容を含めた「カウンセリング的性格を含めた保健体育授業の内容開発」とか、それから「様々な能力に対応する体育授業の創造」、これは特に障害者の人たちを頭においた創造ですが、こういうのをされていて、たいへんな熱気でした。訊いてみると、全国に渡って、保健体育の選択科目履修者は約70%ぐらいにのぼっているんですね。70%ぐらいということは心配することはない、絶対にある、というふうに思います。そういう点では、いろいろと学んでいる。
 
 さて、私は、これから何が大事かといいますと、4つの領域をいつもあげることにしているわけで、それが「環境」と、「人権」、「生命」と「宇宙」この4つでございます。この4つの知的領域は絶対に、これからの、この、総合的教育の中に加えなくちゃいけないと思っているんですね。細かくは、時間がないので申しませんけども、「環境」も「人権」も「生命」も「宇宙」も、全部、50年前にいまの制度を選択した先輩たちはわからなかった部分なんでございます。「環境」は1970年代でしょうか。「人権」は、もちろん70年代〜60年代に始まり、80年代〜90年代の今日、もう昔の人が思ってもみないぐらいの、ひろがりをもっているわけですね、「人権」に関する考え方というのは。「生命」、これはもういま、ご承知のとおりです。これだけの遺伝子操作が行なわれるようになったというのは、基本的には生科学が基本にあります。驚異的発展があります。それから「宇宙」論。宇宙論は追っかけていくと「神学」に近いですね。本当に宇宙論の本を読みますと、宇宙の起源とか意味とかいうものになってくると、話はもうものすごく哲学的・神学的なものです。そういう点で、この4つの領域はですね、学生たちに、この4つの領域をおさえて、科目を編成し、講義をしていけば、学生たちに「生き方」というものについての、この勉強にせまることができる。これこそ、まさに「教養教育」なんですね。自分と世界のありかた、自分と自然の関わり、自分と社会の関わり、これを考えるというのが、僕は新しい教養人の姿だと思っておるわけです。まぁ、こういう点で、これから、このあたりに力を注ぎうるかどうかというのがきわめて大事で、平明にいえば「現代のリベラル・アーツを大学教育の中にいかしていけるかどうか」、これがこれからの大学の本当の生死を分けると僕は思っております。私の我田引水的ないいかたをしますと、そういう「リベラル・アーツ」と「資格制度」、この二つが、今後大学が教学の面で生き残っていく2つの領域だと思います。それ以外のものはそうとう変わると思いますね。変わらざるをえないと思います。いちばん危機的なのはご承知のように経済学部ですね。経済学部は、もう全国的に志願者の大激減領域であります。それは、疑ってなかった、ある知的領域がいまや学生の目にはそうみえなくなってきているという正直な表れだと思うのです。
 さて、時間が少しずつせまってきましたので、次に「教育学」の問題に移りたいと思います。この「教育学研究」というのは、戦後に、研究と教育とがどういうふうになってきたか。かつて、さっき名前が出ました海後先生とご一緒に『教員養成』という本を、共同研究をまとめたことがございます。その時に調べていろいろわかったんですが、他の領域に比べてですね、教育学ぐらい、「戦後、急激にマーケットのひろがった学問はない」、これはもう一つはっきりといえることです。それは、さっき申しました教育刷新委員会がうちたてた、他のもう一つの原則、つまり、「教員養成は大学で行なう」という原則ですね。この原則のおかげで各大学に教職課程が生まれ、教育学科ができ、そしてまた、国立大学には教員養成を主たる目的とすることは初めは避けていたんですが、次第にそうなってきた教育学部が生まれる。これは、まさに、教育学の市場がですね、あっという間にひろがったことを意味しております。日本教育学会というのは、1941年に、たしか180人ぐらいの人数ではじまったんですが、いま、3000名ですよね。その3000名の会員の働く場所の、そうとうたくさん大きい比率が「教職課程」、ないしは国立大学の「教育学部」です。そういう中で、ひろがっていったんですけど、その当時はですね、「教育学をやった人は羽根がはえて売れた」といわれています。大学は全国にたくさんできる。それから、そこに必ず教職課程が置かれる、ということになってきまして、特に、最初は東京帝大を卒業したような人たち、旧制で大学院にいったような方たちらは、もう本当にあっちこっちの大学に行けた。その次になりますと、東京文理科大学、東京高等師範といったような教育大系の方、これもまた次々に羽根がはえて売れていったのが僕らのちょっと上の先輩、まででした。僕らのころになると全部それがなくなって、佐藤さん(佐藤秀夫氏)も私も長い長い浪人生活を強いられたんですけど、その当時はですね、すごい市場が増えたんですよ。それで、増えた分だけ水準は上がったかというと、それは怪しいと思います。やっぱりひろがりと水準は概ね反することが多いですね。ただ、この当時ですね、教育学部はめちゃめちゃに忙しかった。発足当初の頃の教育学部の先生方の様子をですね、ずっと、いろんな記録を読んでみたところ、びっくりするような仕事をさせられているんですよ。例えば、教育学部ができたころに、世の中には、ごまんと旧制の小学校、あるいは旧制の中学校の免許状しかもたない人たちが、先生たちがいっぱいいた。これを新制の免許に切り換えなくちゃいけないと認定講習というのが始まるわけですね。いまはよく教育委員会などがやっているのですが、この認定講習の講師なんていうのは、ほとんど新しい教育学部の先生がやっていました。夏休みでもなんでも猛烈に働かされている。ですから教育学部の教授はいちばん大学の中で最も新しい学部の教授であるのに最も外に忙しい人たちだった。こういうのが普通だったといわれています。何人もの方から、これは証言を得て、そのとおりだったっておっしゃいます。忙しい先生たちが、つくって、いきなり市場がひろがったんですから中身はやっぱり薄まるんですね。これはしかたがなかったんだと思う。その中でただ、私学はそうとう大きい働きをしたと思います。それはこちらの教育学科も同じことだと思います。それはなんだったかというと旧制の師範学校ががっちりともっていた義務教育学校ですね、特に新制中学校も含む義務教育学校。この学校の教員供給は、国立大学がそうとうな力を発揮したんです。しかし中・高校はそうはいきませんでした。これは私学の卒業生が行って、そこで働く他なかったんですね。中・高等学校の先生方の供給といいますか、これは大きな働きをしたと思います。いまはもう想像もできないでしょうが、1948年から占領が終わる52〜3年、さらにその直後まで、それから高度経済成長が始まったらもっと大きくなるんですが、教員の受容っていうのは、ずっと、ものすごく高かったわけです。それに対して供給側のこの対応というのは、ひじょうに遅れたというわけです。両方の供給の数と受容の数とはつねにこういうふうになりながら、一致しない、どうしたものか、といいながら今日を迎えてると思いますが、あの当時ははっきりと、受容の方が多かったわけです。そこに、私学は教員を派遣することができた、送り出すことができた。これがあの当時の私学のやっぱり大きい役割だと思います。その不可欠なリクルート源になっていきました。
 ただしですね、戦後の改革のプロセスをたどってみますと、足りなかった問題があったと僕はいまにして思います。それは、旧師範学校は、これは廃止する。これは、ひじょうに早くから始まった意見で、これが南原さんらの申し入れによるものであるらしいっていうのは、土持さんという方が、文書の中で言ってることでございます。たぶんそうだと思うんですね。「アボーリッション・オブ・ノーマルスクールズ」というのは、ちゃんと文書の中にのこっている。で、師範学校は廃止したんだけれども、その次に何が生まれるか、この構想は貧しかったと僕は思います。そこをリードしたのはアカデミズムでした。アカデミズムの中心は、南原東大総長とか、務台理作さんとか、その他、やっぱり旧来の大学人が中学校の教師のことを頭において戦後改革を導いたわけである。ですから、どこかの総合大学から教員が出てくればそれでいい、できれば小・中学校も同じでけっこう、これが出てきたと思います。つまり、それはアカデミズムだったわけで、頭の中にあったのは、旧制中学校や高等女学校の教員供給の様子でした。それが、ある大きなものを生み出すとこだったんですね。ある大きなものとはなにかというと、教師としてのプロフェッショナルな中身はなんなのか、ここです。アメリカの占領軍たちは、ちょうど、そのころまでに自信をもっていた。ティーチャーズ・トレーニング・スクールからティーチャーズ・カレッジへの変化、特にコロンビアなどが典型的ですよね。ああいう大学が築きあげてきたプロフェッショナルなトレーニングというのに彼らは自信をもっていましたから、同じように日本の大学でも、教育大学と名がつくところなら、あるいは学芸大学という名がつくところなら、それが実現すると思っていたんですが、そうはならなかった。そこもまた、アカデミズムの中で動いてきた、ということがあります。ですから、この問題は、現在にもつらなってきているわけですね。
 その後、例えば、僕の記憶でいいますと、70年代のはじめに、このところに果敢に挑戦したのが宮城教育大学でした。宮城教育大学は「『教授学』の教育こそ、わが大学のつとめである」というので先頭を切ってやったんですね。ところが別の大学は、「いやリベラルアーツの教育こそ教師の基本だ」といって、この二つの路線はつながって、そしていまどうなっているかというと不思議なかっこうで教職教育が圧倒的な比重をもつような教員免許法がいまできているわけでしょう。あの圧倒的な比重というのは、ある意味ではリバイバルだし、別の意味でいえば空虚な、空虚さを含む、教職教育の復権だと思いますね。これは、やはり僕らの場合、大きい課題としてございます。やっぱり僕たちには、教師とはなんなのかということを軸においた、そしてプロフェッショナルな教育はどうあったらいいかということ、課題はせまっていると思います。これについて僕は、今まで申してきましたような、大学のありかたとの関係でいうと、次のように考えるんですね。
 一つは、「居直り」ですけれど、僕は居直っていいと思います。僕が立教の教職課程の教授として立教に戻りました時に、廊下であった昔からよく知っている先生が、「いやぁ、寺崎さん、たいへんですねぇ。どうですか、盲腸に戻った気分は、盲腸はたいへんでしょう」っていうんですよ。なんのことですかってきいたら「教職課程のことだ」ってね。僕も売り言葉に買い言葉で「そうですよねぇ。あってもなくてもいいですよねぇ。でも痛みだしたら時々、本当に怖いですよ」と、わざと言ったりして、盲腸なんですよ。
 だから、大部分の先生が、教職課程はなくていいんですよ。ただ、時々文部省がいろんなことをいってきたりして、痛むから、なんとか置いておこうということですね。経営者はどうか。今時、教職課程のない大学で学生集められないというのはわかってますから、置いておこうと。しかし、最小限の人数でやってくださいよ、というし、ひどい総長になると、「この金食い虫に、なんとかかんとか」って、やっぱり言われるんですね。そういう場所なんです。
 ところがですね、一方で、僕たちは何を要望されているかというと、自分できめたこともない科目を開くことを要望されています。アカデミック・フリーダムも何もあったもんじゃないですね。あの、教育職員免許法の改正に、大学は最小限の介入しかできません。全部、外で決まるわけです。外で決まったものにそったカリキュラムを僕たちは受け入れて、やらざるを得ない。それは、教育実習を最終目標とする一連のカリキュラムなんですね。この教育実習を最終目標とする一連のカリキュラムは、まぁ、善い言いかたをすると、体系的・系統的、そして資格適合的な水準をもっていなくちゃいけません。別の言いかたをすると、やっぱり自動車学校という性格をひじょうに強くもっている。ですから、教職課程とは何かっていわれたら、僕は、「盲腸と自動車学校の間にあるカリキュラムだ」ということにしているんです。
 それでもやっていけばいいんですけど、一方で居直る必要もあるんじゃないかって思っているんです。先程申したように、学部の教育はこれから、絶対に「教養教育」というのの探究が必要になってきます。我田引水のようで恐縮ですが、先程の立教の例で申しますと、立教大学の、この春の対前年度比・志願者率は、98.5%でした。その前の年が120%でした。これは、かなり成功したことを意味します。いちばん大きい売り物になっているのは、全カリなんです。その中の特に「語学教育」のところは、すごく大きい売り物になっておりますね。どうやって売れるのかといいますと、それが不思議なんです。別に、新聞に載せるのも意味はあるけれど、新聞にはどの大学も載せますからあんまり意味がない。いちばん大きいのは、予備校なんですね。予備校のアドバイザーという人たちがいますけど、これが、大学のことをたくさんいま調べている、おそらく彼らがいちばん知っているんじゃないかと思います。河合塾でも駿台でも全部、アドバイザーという人たちが必ずいるんですが、この人たちの仕事は、二つ合格してきた、三つ合格してきたっていう学生が悩んできた時に、ここへ行きなさいと言う仕事なんですね。「経営学でA大学、B大学、C大学に合格しました、どうしましょうか」、最後にたよってくるのはアドバイザーの人たちにです。これはルートを持っているんです。どういうルートかっていうと、アルバイターというルートなんですね。いろんな大学の現役の学生たちがそういうところのアドバイザーの助手をやっている。学生たちの世話役、助手をやっている。予備校は、こういうアルバイターの学生たちを特定の大学からなんてよばないであっちこっちからよんで、その人たちがちゃんと調査をしている。これは、さっきのようなゼミを大学院でやっているとよくわかります。そのあたりがいちばん怖い大学のメディアなんですよ。その人たちがちゃんと知っているんですね。あそこにいったらここまでやれる、ここへいったらこうやれる、同じ経営学をやって、一橋とどことどこの三つ合格したのなら、きみはここの方がいいよ、最後にだいたい大きな影響力を与える。そういう時に、リベラルアーツというのは役に立つというのは僕の立教の頃からの通じてみての経験でした。そういう目からみますとね、「教職教育」というのは、僕、「一般教育」じゃないのかって思います。だって人間を扱うわけですよね。教養教育の基本は人間を扱うということで、その「教養教育」の中身として、例えば僕らのやっている「教育学概論」というのは、一般教育じゃないのか。そんなことはないでしょう。子どもから老年のことにいたるまで、僕らは「人間のための教育」のことを話しているわけです。それから、「生活指導」。はじめから終わりまで、特に子どものことですが、これは「人間のこと」でしょう。その他、「教育史」だってそうです。「人間の子」の登場しない「教育史」はないわけで。よくみますと、「教職課程」としてある科目は、全部、したたかに「教養教育」の性格をもっているんです。これは、大学にとっては実に重要な「教養教育」の一つの場面なんだと思います。
 逆に、こっちでひきとると、「一般教養」にもなりうるような「教育学」をしゃべる、ということは、実は「教育学」を新しくしていく一つの方法だと僕は思うんですね。そういう気持ちで、僕はこれまで「教育史教育」だの、「教育学概論」の講義をしてきました。やってみると、必ずしも教職免許状をとらない学生だってききにきて、そして喜んできいてくれます。僕は、そういう生き残り方はあると思います。この生き残り方にしないと、どうなっていくかというと、ますます小さくなっていくだけだと僕は思うんですね。国立大学の教育学部の教育学関係がいちばんそれをよくあらわしているわけです。本当に基盤は弱いし、英語教育の先生、理科教育の先生、国語教育の先生方がずらーっといるけれども、はじっこにその、小さくなっているという大学は少なくはないんですね。国立大学教育学部の中では、教育学の先生は、そういう位置に立たされます。しかし、一方で、教育学の内容を、そのように構成し、そういうふうに続けていけば、僕はこれはまごうかたなき「教養教育」と、一環になりうると思います。例えば、そういう位置づけ方というのがあるんじゃないかと思います。
 第二番目にですね、最近いわれている、もう一つの居直りは、「教育学は雑学である」という居直りです。昨年、アエラが「教育学」の特集を出した。アエラ・ムックというのが『教育学がわかる』、あれを出した時に、副題が「雑学のすすめ」でした。そこの編集のブレインになった教育学者たちも、「教育学は雑学である」と書いております。これも、一つの居直りのしかただとは思います。まぁ、それでもいいかなと。どうせいろんな方法を借りてこなければできないのは「教育史」、「教育学」の運命ですから、それを「雑学」というのならかまわないと思うんですけどね。ただ、「教育学は雑学である」、それから「課題に応じて勉強するのが教育学であって、教育学という独特のディシプリンはないんだ」と、こういうふうに思ったときに、陥る落とし穴もあると思うんです。「ディシプリン」というものを、はじめから欠落させるおそれ、これは僕はあると思うんです。やはり、「ディシプリン」というものはあるんじゃないかと思います。そこのところを欠落させるのは、ひじょうに怖いことでありまして、例えば「教育心理学」が「心理学」のディシプリンと無縁に何か「知」の新しい形態をもとめていったときに、それは問題提起以上の蓄積が生まれるかというと、「生まれるかなぁ?」と思います。「教育史研究」が「史学」の方法というものと、まったく無縁にすすんでいった時に、「力のある教育史」ができるか?、僕はできないんじゃないかという気がするんですね。そのへんに、この、「雑学宣言」というのは、居直りの効果もありますが、しかし「ディシプリン」を免責させるという危険性があるというのが僕の感想でございます。
 ここのところはひじょうに難しい部分を含んでいて、特に、こちらのように「文理学部」の中の「教育学科」という新しい、しっかりした、いわばステディーなコースをもっていらっしゃる。このコースの中で、特に大きい問題になってくると存じます。一方で、教職教育のリベラリゼーション、と、それから、もう一方で「教育学教育」のディシプリン、という、この二つの課題というのは両方あって、両方われわれはかかえているなというのが私の感想でございます。
 最後はですね、大学院です。「大学院教育」というのは、これは、もう、いままで誰も考えていないことなんですね。ところが、このレポート・・・、「答申」によりますとですね、2010年には大学院生の総数はおそらく25万人にのぼると予想しております。たぶんそうだと思います。25万人という数は、どういう数かっていいますと、新制大学がほぼ完成したのが1952年・・・昭和27年でしたが、昭和27年の新制大学の学生数は45万人です。プラス短期大学の学生が5万人いましたから、その当時は50万人というのが日本の大学生の数なんですよ。これが新制大学の出発点、その半分です。その半分が大学院に来ることになる。これは、大学院はそうとうな大きな変化を経ると思います。ところが、その大学院では、どういう指導があるべきか、その指導の原理と方法はなにかって、考えている人は本当にいないと思います。逃げ口上はありますよ。「専門によって違いますからねぇ」って言えばすむんですよね。「あぁ、工学はそうですか。医学は大学院といったってマスターはありませんよ」とか、「分野によってぜんぜん違いますよ」、「医学はそうですから」と言ってすんでいたんです。これじゃ、僕、今後は絶対にすまないと思っています。2050年ぐらいになったらどうなるでしょうかね。2010年で25万人ですから、もっと増えるでしょう。それで、どうあったらいいかということを考えるヒントはものすごく少ない。これから僕は「大学院教育のありかた」というのは、高等教育研究の重大なテーマになると思っています。もっと、経験を、交流しないといけないと。
 例えば、一つの例で申しますと、利根川進という、ノーベル賞の学者、あの人が最初、京都大学の理学部の大学院にいったんですね。生物の方にすすんだんですが、行って一年間、なんのトレーニングもなかった。一年おわったところでアメリカに行った。行ってやらされたことは、修士・マスター一年の間、徹底的に講義を聴かされたんだそうです。そこで講義を徹底的に聴いている間に、「あっ、俺は京大で大学院にいたころ、こういうことの、こういう位置づけの、これがやりたかったんだってのがやっとわかった。それで本当に勉強しはじめたのがドクターに入ってからであった」と書いているわけです。彼はそこの中で、「絶対に日本の大学院は成功しませんよ。あれはディシプリンがない」と言ってるんですね。「私はアメリカに行ってはじめてわかった。そうか、大学院というのはこういうふうに鍛えられていくんだとわかった」ということを書いております。多くの方が同じ経験をしているんですね。自由なだけがいいわけではない、ということがいえます。それから「教える」ことは大事か、大事じゃないかというと、「教えなくちゃいけない」面があるんですね。
 もう一つは、よく紹介するんですけど、ここに持ってきた『21世紀フォーラム』という、雑誌の4〜5年前の号ですが、ここに載っている論文もとっても面白うございます。例えば建築学の先生、この方がいっているテーマは「日本とアメリカの大学生は創造力において差があるか」ということで、ここに書いてある神田駿って先生ですけど−宮崎駿のハヤオという字を書くんですけど−神田駿という先生は東工大とアメリカの大学院、MITの大学院の両方でティーチャーをやったことがある。その方の観察によると、「日米の大学生の創造力に懸隔はないんです」「アンダーグラデュエートの時代はほとんど同じくらい優秀だ」、ところが差がどこからつくかっていうと、大学院に入ってからつくんですね。「大学院にはいって、アメリカの学生と日本の学生との差がグングン開いていく」それは「大学院教育である」というのが神田さんの判断です。これでみますと、例えば、面白かったのは、大学院の教員が学生たちにモノを言うときに、「大事」だと考えられていることがある。それはなにかっていうと、「質問の出るような話ができるか」ということなんだそうです。「質問出るような話ができるか」、これがいちばん問われる。その中で、教員たちも、大学院指導というものの訓練を受ける。それから、もう一つは「サポート」ということばがとびかった。「サポート」というのは何か。この学生は本当は何を研究したいと思っているのか、というのをみんなで知った上で、それに対して教員もクラスのみんなも、いろんな形でアドバイスしてあげる、この「サポート関係」というのが、ものすごく、少なくともMITの大学院では重大だった、というんですね。三番目は「フィールドワーク」。「フィールド」、その場に行って考える、これをこそ、彼らは、アメリカの学生たちは要望される。「私は時々日本に帰ってきて学生たちがあの四角いコンクリートの箱の中で勉強させられているのをみると気の毒だと思います。あれではオリジナリティは育たない」というのが神田さんの診断なんですね。
 
 僕らはこういうこともやっぱりきいておく必要がある。同じことを「教育学」ではどうなのか。私のやっている「教育史」ではどうなのか。やっぱり、いろんな形で学んでおく必要があると思っておるんです。本当に「大学院教育」のありかたというのは、誰も考えていないでおりますけれども、それではきかない時代が絶対に来るというふうに思っております。
 あの、時間がちょうどになりましたけど、どうも長時間ありがとうございました。これで話を終わらせていただきます。