教育制度


 かつて諸外国は、日本の中高生の学力の高さに驚き、その教育法を参考にしようと研究し始めました。
その後、それは大学入学までで、大学生の学力は、先進国はおろか途上国の中でも上位に入らない程度のものだと判り、安心しました。
受験のための詰め込みで、そんなものは本当の学力ではないと言う訳です。
完全な序列で、入試がいたずらに厳しく、卒業が甘い。合格した後は遊びほうけてしまって、「出ると馬鹿」とまで言われるほどです。

国内でもさんざん、受験地獄は批判されてきました。子供の全人的成長を阻害すると。
いくらその下の制度を改革しようと、大学入試がそのままなら、全く意味がありません。

国連こどもの権利委員会も、日本に対し勧告を出しています。

「児童が高度に競争的な教育制度のストレスにさらされていること及びその結果として、余暇・運動・休息の時間が欠如していることにより、発達障害にさらされている。
さらに、登校拒否の事例が、かなりの数に上ることを懸念する。
人権教育を学校のカリキュラムに体系的な方法で導入する措置が不十分である。
体罰を禁止する法律、いじめ被害者のためのホットラインなどの措置が存在するものの、現行の措置が学校での暴力を防止するためには不十分であることを、懸念をもって留意する。」 だいたいこんな内容です。

ありとあらゆる方面から問題視されているにもかかわらず、文部官僚達は一向に変えようとはしません。

なぜなんでしょうか。
子供達の成長が歪められ、国民の学力が低下し、受験勉強の悪影響によるマニュアル的行動で社会人として問題が出ているにも関わらず。

一つ想像する事が出来ます。
いままで見てきたように、日本の問題を突き詰めていくと全て官僚に行き着きます。
にもかかわらず、官僚を批判しにくくしているものは何か。
メディアが事実を報道しないとか、その前に政治家の問題が立ちはだかるとか、色々ありますが、我々も、官僚達のしている事を知っている訳です。
それなのに、官僚を批判しにくくしているものは何か。

それは、ひょっとしたら劣等感ではないでしょうか。

「何処の大学?」と聞かれ。
「東大」と答えると、嫌みだと言われ。なんか気まずくなる。
だから、遠慮して言っても、勿体ぶって等と言われてしまう。
こういったように、我々の殆どが、12年間も偏差値の序列に縛られ、何か人間としての尊厳を、偏差値に蹂躙されているような経験をしているので、なにか東大を、コンプレックスを持って馬鹿にしながらも、聖視してしまう傾向がないでしょうか。

そして、ほとんどが東大出で、更に難しい公務員試験を突破している事が、試験に蹂躙されてきた我々に、引け目を感じさせていないか。
彼らはエリートで、我々は庶民だと。 そして、彼らはお上で、我々は平民であると。
偏差値の序列を内面化してしまっている我々は、自分が官僚より下だと。
それが、なにか官僚を批判しにくくしているのではないでしょうか。

そして、彼らを利権にありつかせてくれたものが試験であり。
同時に、彼らは、選挙で選ばれた訳では無いのだから、国民の付託を直接的に権威の背景としている訳ではなく、
彼らの権威の裏付けているのは、ほとんどが東大出である事と、難しい公務員試験を突破してきた事である。


こういった訳で、官僚達と利権に群がる人々にとって、国民を支配し、税金を泥棒し、オイシイ生活をするに当たって、大学入試が厳しく、過酷な受験戦争があり、劣等感が植え付けられるという事は、誠に有り難く、同時にどうしても必要な制度と言う事になりませんか。

だからこそ、子供達の成長が歪められようが、国民の学力が低下しようが、受験の悪影響のマニュアル的行動で社会人として問題が出ようが、絶対に制度を変えないはずです。

もし、我々が、子供達の健全育成を願い、いまの教育制度を変えたいと願うなら、官僚を中心とする利権構造を変えなければならないでしょう。
これは本当に困難な事です。 「民は由らしむ可し、知らしむ可からず」と、江戸時代から続く数百年の愚民化政策の成果は相当なものです。


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