
先生が、アンチョコに従い黒板に書き、型通りの説明をし終わって。
先生: 「何か質問はありますか。」
生徒: 「しーん。」
一瞬の静寂を破り。一人の生徒が、
生徒: 「はい。」と、手を挙げる。
先生のイヤがる顔、他の生徒の、好奇と変な物を見るような目。
やがて始まる、先生による差別と、生徒によるいじめ。
海外から帰国した子供達が共通して経験する事のようです。彼らの通っていた学校では、学問が行われていたので、転校してきた日本の学校でも同じように振る舞っただけです。
学問の基本とは、疑問を持つ事であり、疑問を持って考えるからこそ、学んだ事が自分の物となる訳です。
その過程で、いろんな意見の対立や、違いを経験し、争うのではなく建設的に議論をする事を学び、人間的にも成長していきます。
ところが、日本の学校で行われているのは学問では無く、儀式ですから、それに反する人間は排除されます。
疑問を持つな、自分の考えを持つな、言われた事を頭に詰め込め、想像力を働かせるな、決められた答えを決められた方法で出せ、権威に逆らうな。
先生: 「何か質問はありますか。」
生徒: 「しーん。」
小中高と12年間、日々繰り返される服従の儀式です。これが運動部となると更にエスカレートするようです。
自分で興味を持ったとか、仕事で必要だとかで、本当の学問をしたことがある人ならば、学校で行われている事が、いかに学問・教育から遠ざかっているか判るのではないでしょうか。
一言でいうなら、儀式通りの人間になったら、まるで奴隷のようです。奴隷化教育とでもいいましょうか。
奴隷化教育ですから、生徒が自分の頭で考え行動し始めると弾圧されます。 ゲルニカ事件や、生徒主催と学校主催で分裂した所沢高校の卒業式・入学式のように。
その、奴隷化がよくわかるのが、労働者の権利や消費者の権利を一切教えない事です。
人間は生きる為に働かなければなりません。殆ど例外なく労働者になる訳です。
だから、生きていく為にもっとも必要な知識にも関わらず、突然首を切られたりして、大きな被害を受けるまで、会社の不当労働行為などについて全く知りません。自分達の権利・法律などについて全く知りません。そういうものだと思って生きています。
また、人間は、生きていく為に消費しなければなりません。
これも生きていく為の基本です。ところが、これについても十分な知識が与えられず、メディアリテラシーの教育も行われません。
マクドナルドなどのファーストフードを生み出したアメリカでは、学級崩壊や学力の低下などに悩み、その一つの取り組みとして、また、国民の成人病の高さなどの対策の為、子供のうちから、正しい食べ物を選択出来るように、ファーストフード・ジャンクフードは食べるべきでは無い、肉や油を控え、野菜・穀類・果物を多く食べるようにと、学校で教育をしています。
一方、我が国では、そうした教育は無く、子供を使ったコマーシャル、子供が好きそうなオマケ、徹底した安値攻勢で、味覚を形成する子供の時期に、味を覚え込ませ、将来の需要を確保するマクドナルドの戦術に健康を蝕まれています。すでに”子供の”成人病が問題化しているにも関わらず、いっこうに対策が行われません。
なぜなら、成人病は儲かるからです。食事の改善をさせないで、血圧を下げる薬、コレステロールを下げる薬、血液の粘度を下げる薬などを一生飲ませる事ができ、製薬会社の大お得意様です。
つまり我々は、生きていく為にもっとも基本的な事、労働や消費について、全く赤ん坊のような状態で社会に放り出され、事実上奴隷のように企業にこき使われ、無知な消費をさせられ不健康にさせられ、いらなくなったらポイと捨てられる立場に甘んじさせられているのです。
その上、昔は偏差値のみ、つまり勉強の出来不出来だけが主な評価の対象でしたが、今は人物評価なるものが取り入れられ、昔の学習態度のみならず、生徒の人格までが評価の対象となり、圧迫と管理の度合いを強めています。
さらに、強制しないと導入した国旗国歌法により、それを認めない教師の首を切るという思想統制まで始まっています。
更にまた、召集令状一枚で、国民の命が権力犯罪である侵略戦争に利用された時代、およびその論理や思想的背景を、賛美するような教科書が作られ、検定に合格し、教育委員会が反対を無視し採択するような事になってしまいました。
いよいよ、あからさまに言わないまでも、戦前のように命まで捧げろというような教育が、今や始まらんとしています。
奴隷のように働けというだけで無く、命まで捧げろと。
そして、教育だけでなくマスコミも、決して歴史を教えません。
戦後の一時期、自由な教育があったそうですが、不完全だった為、かえって悪い影響を残したようです。
いきなり、価値観の転換、教科書を墨塗りにして、今までは間違っていた、これからはこうです、などと言っても、不信感がつのるだけしょう。
自分達が教えられ、信じてきたものは何だったのかと。
もっとも必要だったのは、理由を教えてあげる事だったはずです。
なぜ、そんな間違った事を、間違っていると知りながら、教えなければならなかったのか、何によって縛られ、どのように強制されていたか。(もちろん嬉々として教えていた人も大勢いたでしょう。)
それを教える事こそ、本当に役に立つ教育ではないでしょうか。
そうした本当の、生きた、現実に即した、そして最も必要だった教育が行われなかった為、教育に対する不信感のみ残し、現在また同じ状況を迎えています。
戦争の悲惨さ、命の大切さを教えなければ等と言われています。
現在、テレビ等でも、戦争の悲惨さを伝える番組や、同様の活動をしているグループを報道したりしています。
しかし、それに比べて、靖国神社公式参拝に反対する活動や、警察の犯罪を告発する活動、この国最大のタブーに反対する活動、日本軍の戦争犯罪に関する活動、言論弾圧に反対する活動などの、戦争へ導くものに反対するための活動は、報道される事はありません。
なぜ戦争が起こるのか、どうして戦争を起こす事が可能なのかを、教える事は、決してありません。
こういう事を言うと、戦争反対と志を同じくする人々からも、誤解され非難され嫌われますが、言わねばなりません。
なぜ起こるのかを教えず、ただ戦争の悲惨さを教える事は、いたずらに他国から侵略される事への恐怖を煽り、防御を固めろと自らを軍備強化させ、攻められる前に攻めろとか、戦争をやり易いようにする意味しか持たないでしょう。
悲惨さや命の大切さは、抑止力にはなりません。今問題のミサイル防衛構想などについても、防衛だからという事で、被害を食い止める物だからという事で、悲惨さや命の大切さは、抑止力にならないでしょう。
冷戦構造時の主張を思い出してください、核ミサイルを増やし軍拡し、お互いに牽制しあい、軍備の拮抗、軍事バランスが抑止力になると、核の抑止力理論でした。
ミサイル防衛構想は、相手のミサイルを無力化する物ですから、このバランスを崩します。
つまり、アメリカ側が一方的に、有利になる訳です。とすれば、アメリカに脅威を感じる側としては、同様に軍備を拡張しなければバランスがとれなくなり、再び軍拡に向かうでしょう。
戦争を可能にする道具は二つ。 強制とダマシ、これだけです。それによって差別を煽り、反論を封じ込めるのです。
戦前に我々日本人は、どのように騙され、どのように強制されて、差別を教え込まれ、戦争に駆り立てられていったか、一切学ばされずにきました。
命の大切さ、教えないよりは良いですが、戦争をやるときには、差別や憎悪を煽る事によって、相手側の命を無価値にする事により、また不安や怒りなどの感情を煽る事によって、人々を駆り立てるのです。
だからこそ、石原慎太郎のように、差別を煽る人間を許す訳にはいかないのです。
現在、国旗国歌法を通し思想を強制する事、今まで消極的だったのを積極的に行う、新しい教科書によるダマシ、今、教育現場で、戦争を可能にする両輪、強制とダマシが揃う一歩手前まで来ています。
これが日本の教育の現状です。