その基本的性格
職業とは何でしょう。
簡単にいってみれば、他人の要求に応える事です。
例えば、「お前の作る土器は、すごくイイ。お前の分の食料は俺が狩るから、お前は、俺の分の土器を作ってくれ。」
自分の代わりに、何かをやってくれと言うのが、要求であり、それに応えるのが職業である。
分業の始まりでもあり、ある意味、職業の始まりでもある。
この場合、土器と食料の物々交換とも言える訳で、やがて貨幣が使われるようになり、要求に応えた報酬として金銭が渡される。
例えば、
野菜が欲しいと八百屋に行く、要求に応え、八百屋はいろいろの種類の野菜を、お客の買い物できる距離範囲の場所にそろえ待っている。
八百屋は多種類の野菜を、各地の農家から各々仕入れる事は難しいから、集めておいてくれと市場に行く。
農家にしてみれば、少量の野菜を個々の八百屋と取引などしていられないから、まとめて市場に出す。
こうして、小売り、流通、生産という職業が、成立しています。
さてここで、メディアについて考えてみましょう。
我々が、メディアという職業に対して要求している事は何でしょう。
それは、娯楽と情報ですね。
娯楽も大問題ですが、ここでは置いておくとして、いま問題にするのは情報についてです。
我々の社会は、余りにも大きくなり、何処で何が起っていて、それが自分にどのような影響を及ぼすのか、メディアを通さなければ解らない状態です。
つまり、メディアに、目や耳の代わりをして貰っています。
その上、文明が高度化し、技術が高度化し、物事が専門化・分業化して、とても自分の力では判断できない事ばかりになりました。
その結果、判断までも、専門家に頼る、つまり、それを報道するメディアに、考え・判断する事さえ代行して貰う事になってしまいました。
さてここで、大問題が発生します。
職業というのは、お客の要求に応えるものです。お客とは、代金を支払ってくれる人の事です。
では、メディアにとってのお客とは? 代金を支払ってくれるのは?
そう、スポンサーである企業です。 特に、テレビ(一番普及している地上波は)は全面的にそうですね。
とすると、メディアが要求に応えるのは、企業(当然、一般社員は含みません)とその利権構造であって、視聴者ではない事になります。
われわれは、目や耳である事ばかりか、考え・判断する事さえ依存しているにもかかわらずです。
しかも、その依存している事に気づいていない、感じていないで、あたかもそれが、自分の意見であるがごとく感じているのです。
これは、本当に深刻な問題です。
目の前に大きな穴があるのに、目がそれを映し出してくれないとしたら。
我々の目の代わりをしているメディアは、我々が見たくても、企業とその利権構造が見せたくないと思う物は、見せて貰えません。
もし、穴に落ちる事が、企業や利権構造にとって利益になる事であれば、容赦なく穴を隠し、我々をそこに落とすでしょう。
バブルの時、警告していた専門家達がいたにもかかわらず、経営者に向けては、土地投資をしない経営者は時代遅れだとか言い、一般人には、マンションの買替え、株取引などを薦め、盛んに煽っていた事を思い出してください。
そればかりか、「メディアリテラシー」にあるように、現実と違うものを映し出す事も、知られていないだけで、数多くあるでしょう。
しかも、それは現実にある、具体的なものである必要も無いかもしれません。
騙すために、説得も説明も必要ないかもしれません。雰囲気さえ作ればいいのです。
それは、日本人が、「日本人の自我の在り方」、「世間の変化」、「直接的、現場からの改革は無理」で見たように、世間の価値観・雰囲気に従って行動するからです。そして、テレビが疑似世間として、その価値観・雰囲気を作り出しいてしまうからです。
日本人場合、何かを強制したいときに、強引に力で強制するよりも、雰囲気を作り上げる方が有効な訳です。
その国民性を表すジョークとして、船が沈みそうなので何人か飛び込んで、軽くしなければ助からない状態で、どうやって飛び込ませるか、
ドイツ人の場合 これは命令・規則である。
アメリカ人の場合 これは名誉な事である。
イタリア人の場合 女の子が見ているよ。
日本人の場合 みなさん飛び込んでますよ。
また同様にコマーシャルにも国民性が見て取れます。
外国のコマーシャルは、いかに自社製品が他社と比べて優れているのかをアピールするか、ネガティブ物と言われ、ライバル製品の欠点をあげつらって、自社製品は違うと宣伝するか、はっきり、具体的に違いを述べて説明するものが多い。
しかし、我が国では、具体的な事は滅多に表現されず、軒並み、自社および自社製品のイメージを良くする、雰囲気的コマーシャルばかりです。
その上、感性までコントロールされています。
今年流行る水着はこれ、とか、今年の冬は○○で決まり、と言ったような、シーズンのかなり前から特集が組まれます。
これはその時期に言っておかないと、生産が間に合わないからです。要するに今年はこれを作りますから、こればかりを買いなさい、と言う事です。
そうやって、広められますから、以前のモデルを着ると恥ずかしいような気持ちになり、流行という実は単なる販売戦略が、ファシズムのように、人々を圧迫し、コントロールしているのです。
バブル経済も同じでした、堺屋太一など「土地に投資をしないような経営者は失格だ。」等と盛んにバブルを煽っていましたし、マンションを買えだの、土地を買えだの、盛んに庶民を煽っていましたね。儲かるぞと。株も盛んに宣伝され、煽っていましたね。
結果はどうだったでしょうか。
話が横にずれました。
現代社会において、我々は、どうしてもメディアを、目や耳の代わりにせざるを得ません。
にもかかわらず、我々自身にそうした認識が無いばかりか、メディアの、上記のような本質や、テレビのメディアとしての基本的な欠陥も知らず、
更に、世間に考えを依存している日本人の特質、メディアが疑似世間になっている状況を知らず、ただ受け身的に、報道を受け入れるばかりで、批判的精神を持ち得ていません。
正しい知識がなければ、正しい判断は出来ません。
それなのに、目や耳が機能していなければ、どうなるでしょう。或いは機能していると思っていたら、幻覚を見ていたとしたら。
「どうしても避けて通れない小泉純一郎批判」と、メディアで伝えられている事のギャップは本当に酷い。
(ここに書かれている事は本当なのか? 疑う事はよい事です。どんどん疑い、どんどん調べ、どんどん知って、騙されないようにして下さい。全てなんて無理ですから、興味を持った事、身近な事、自分に関係のありそうな事、何でも良いですから、一つ始めれば、色々見えてきます。)
日本はまるで、映画のマトリックス(見ていない方ごめんなさい)のような状況にあります。
少年による残虐なリンチ殺人にもかかわらず、喧嘩と報道されてしまえば、我々は喧嘩が行過ぎて死んでしまったのかと、思うでしょうし。
過去そして現在も真相究明を妨害し、改革を潰してきたにもかかわらず、それを伝えず、変人などと持ち上げ、口先の改革断行(中身の多くは改革とは無縁)を持ち上げれば、多くの人が、ずっと続く改革への熱望、経済状態への不安などから、熱狂的な支持に走るのも当然です。
彼の清潔そうなイメージをもってすれば簡単です。
曖昧な報道を続けるから、嘘の報道を続けるから、もう我々は何を基準として考えて良いか解らなくなっています。
だから、投票するときも、やってくれそうな人物かどうか、イメージで判断をするようになっています。
このような、メディアの状況こそ、最大の問題でしょう。
と言うより、メディアが基本的にそういうものである事を、ほとんどの日本人が自覚していない事が最大の問題ではないでしょうか。