第一章 中学一年

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(1)入学式 

 

「………。えー、でありますから、今日こうして新たに中学生となられた皆さんは、大人への準備期間となる大事な中学生活を………。」

 崎浜市教育委員会のお偉いさんの祝辞がだらだらと続いている。校長の挨拶によってスタートした退屈な儀式もあと一人、演説のように長いこの挨拶で終了することになっている。

 ここは崎浜市立笹川中学校の体育館。1991年、平成3年度入学式の式典の真っ最中。真新しい制服に身を包んだ新入生たちの大部分は、退屈極まりないこの式典においてもなお、真面目な表情を崩すことなく、演台に立つ教育委員会幹部の顔をしっかりと眺めていた。小学校を卒業したばかりのまだ子供のような彼らには、厳粛な式典の中で退屈しのぎにお喋りをするなどというのは、とんでもない事だという認識が頭の中にあるようだった。もっとも、なかにはいびきを掻きながら平気でうたた寝する強心臓の持ち主も見受けられるのだったが。

 

「あ〜あ。やっと終わったねえ。」

「ほんと。卒業式と違って、入学式ってなんだか退屈するよねえ。」

 式典が終わり、各自の教室に向かう廊下を歩きながら生徒たちが愚痴をこぼしていた。公立の中学校であるから、一部の転入生を除けば所管の小学校4校から自動的に上がってきた生徒たちばかりである。同じクラスに編入されるかどうかはともかく、少し辺りを見渡せばすぐに見知った仲の良い友達を見つけることができ、あちこちの廊下や教室内で和気あいあいとした雑談風景を見ることが出来た。

 一組に編入された日裏明美もその一人。担任の教師が教室に姿を現すまでのわずかの時間、廊下の片隅で隣のクラスに編入された、小学校時代の友達とお喋りを楽しんでいた。

「明美ちゃんとは一緒のクラスになりたかったのになあ。残念!」

「ほんとだねー。でも一組違うだけだってラッキーかもしれないよ。全部で10クラスもあるんだし。」

「うん、そうだね。一組と二組なら、体育の授業とかは一緒にやるみたいだし。その時は同じクラスみたいなものだから、良しとしますか。」

「そうしますか。」

 そう言うと、二人は揃って声をあげて笑いあった。

「あっ。あれ、うちのクラスの先生だ。なんだか怖そうな人で、ちょっとイヤなんだよなあ。じゃあね、明美ちゃん。また後で。」

「うん。留美子ちゃん、終わったら一緒に帰ろうね。」

 軽く手を振り、その場を離れる二人。友人の留美子が隣の教室に入って行ったのを見届けると、明美もまた、自分の教室の中へと戻って行った。

 

 全員で40人のクラスは男女ほぼ同数。6列に並べられた座席は廊下側から見て一列目が男子、その次が女子という具合になっており、初日の今日はそれぞれ名前の順番で座る席が決められていた。明美は名前順では比較的後ろのほうになるようで、廊下とは反対側の一番窓寄りの列で前から3番目だった。

 黒板に描かれた座席表と自分の出席番号を確認し、席を見つけて座ろうとする明美。だが、その座るべき椅子には明美がまだ名前の知らないクラスメイトが腰を降ろし、そのすぐ後ろの席に着いている女子とお喋りを楽しんでいた。

(顔知らないから、他の小学校の子だよなぁ。あたしの席だからどいて、なんて言ったら嫌な顔されるだろうし。すぐ先生が来てくれればどいてくれるんだろうけどなぁ。どうしよう。)

 教室の前の扉から中に入ってきた明美は、自分の机に向かうこともできず、座席の近くまで来て立ち往生してしまっていた。

 座席を間借りしているその生徒と同じように担任が来るまでの間、自分もまた別の場所に座る知り合いの元に足を運べばよかったのだが、あいにく一組には小学校時代に明美と同じクラスだった生徒は一人も居なかった。もちろん同じ小学校から来た者は居るわけで、一組には明美を含めて男女合わせて8名が編入されていたが、彼らのうち男子生徒4名は小学校の時にはほとんど話をしたことのない他のクラスの者ばかりで、ときどき話をしていた女子たちも他の生徒たちとのお喋りに忙しそうで、とても明美の相手をしてくれそうにはない様子だった。

(なんか寂しいなあ。留美子ちゃんが居てくれれば良かったんだけど。)

 自分の座席の近くまで歩み寄ってもなおその場に立ち尽くし、何もすることがなく黙り込んだまま窓の外をボーっと眺め続ける明美。

 と、そんな雰囲気を察したのか、その後ろに座っていたほうの女子生徒が、明美がなぜそこに立ち尽くしたままどの席にも座らずに窓の外を眺め続けているのかに気づいた様子で、明美の座席に座って自分と話し込んでいた友人に目配せして知らせた。

 明美の席に居た女子生徒はその友達の目配せに反応して体を反対に向きやり、ようやく明美の存在を認識し、慌てて席を立って明美に声をかけた。

「あっ。あのぅ。もしかして、ここの席、そうだよね?」

 不意に話しかけられ、少し驚いた表情でその生徒のほうに向き直る明美。

「ここ、自分の席でしょ?」

「えっ。……あっ、うん、そう、だと思う。前の黒板通りだったら。」

「ごめんね。あたし、後ろ向いていて全然気づかなかったから。」

「ううん。そんなこと。……あっ、いいよ、まだ座っていてくれて。あたしは平気だから。」

「いいよいいよ。さっ、座って。あたしのほうこそ立っていればいいだけだから。」

 ちょっとした会話を交わして、明美は「じゃあ…」ということで、ようやく席に腰を下ろした。

 

 明美が席に落ち着いてからもなお、その女子生徒は立ったままですぐ後ろに座っている女子と会話を続けていた。じっと聞き入ったわけではなかったが、それでもその話の内容から二人が同じ小学校の同じクラス出身であることが明美には理解できた。時折笑い声も上がっている。明美は少しの間、そんな二人のやり取りにこっそり耳を傾けていたが、やがて窓の外を眺めて、再びボーっとし始めていた。

 窓の外に目をやり始めて一分も経たないであろうか。後ろの座席の女子が明美の背中をちょんちょんと突ついてきた。先ほど声をかけられた時同様、少し驚いた表情で振り返る明美。

「ねえ。大迫小学校の子だよね?」

 その後ろの座席の生徒が明美にそう尋ねてきた。

「えっ? あっ、うっ、うん。大迫だよ。」

「だよねぇ、やっぱり。さっき廊下で他の子と話しているところ見かけたんだけど、その子が大迫だって知っていたから、多分そっちもそうなんだろうなあって思って。」

「えっ? さっき話していたって……。じゃあ、留美子ちゃんのこと、知っているの?」

「留美子ちゃん……って言うんだっけ? ごめん、あたし下の名前はよく知らないんだ。たしか上の名前は関根さん……。」

「うん、そうだよ。関根留美子ちゃん。なんだぁ、知り合いだったんだあ。」

 まるで昔馴染みの友達に声をかけてもらったかのように、ニコニコと笑顔で応対する明美。

「知り合いって言うのかなあ。あたしね、水泳やっているから、前に何度か会ったことあって。それで上の名前と顔だけは知っていたんだぁ。」

「あっ、そうかあ。水泳ねえ。留美子ちゃんもスイミングに通っていたからなあ。」

 二組に編入され、先ほどまで明美と廊下で立ち話をしていた関根留美子は、市内にあるスイミングスクールに小学校時代はずっと通っていた。後ろに座るその女子生徒も、同じスクールに通っていたと言う。

「同じスイミングでもコースが違ったから、話はしたことないんだけど。でも時間が一緒の時はすぐ隣で着替えたりすることもあったから、そのとき名札を見て名前と顔と、あとは小学校はどこだろうってことくらいは知っていたんだぁ。」

「へえ。そうかぁ。留美子ちゃんのほうは知っているのかなあ。」

「同じスクールに通っていたなら、きっと知っていると思うよ。真紀は市内のスイミングの中ではすごく有名だから。」

 明美の質問と呼べるかどうか判らないような軽い返事に言葉を返してきたのは、後ろの席の当人ではなく、先ほどまで明美の席に座っていたほうの女子だった。彼女は細身の体で背丈は明美とほぼ同じ程度。ポニーテールの髪に銀縁のオーソドックスなメガネをかけ、いかにも優等生といった風情だった。

「えっ? そんなに有名なの?」

 少し驚きの表情を浮かべつつ、二人の顔を交互に見やりながら明美は質問すると、そのメガネの生徒はニコッと微笑みながら、その質問に答えた。

「うん。市内っていうよりも、県内っていうか。もうちょっとしたら全国でも有名になるよ、きっと。」

「美智代。全国は大げさだよぉ。」

「大げさじゃないって。6年の時の競技会なんて凄かったんだよ。この子、200メートルの自由形で他の子に15メートル近くも差をつけて優勝したんだから。記録も小学生の歴代記録を更新しちゃったし。」

「すごーい! そんなにすごい選手なんだぁ。」

「すごくないよぉ。なんか普通に泳いでいたら、そんなふうになっちゃって。先生とかお母さんたちはすごく喜んでたけど。」

 相方から真紀と呼ばれたその女子生徒は、少し照れながらそう答えた。

「あっ、そうだ。まだ名前言ってなかったよね。あたし、金沢美智代。」

「そうだそうだ、名前言うの忘れてた。あたしは古田真紀。出席番号も前と後ろだし、よろしくね。」

「あたしは日裏明美。よろしくね。」

 名前を名乗って簡単に挨拶を済ませたところで、遅れていた担任の教師が教室に駆け込んできた。

「じゃ、また後で。」

 と、一声かけて少し離れた自分の席に戻る美智代。明美と真紀は少し微笑んで教室の前のほうを向きやり、姿勢を正した。

 

 全員が着席したのを確認した後、担任教師が話を始めた。薄いグレーのスーツスカートにホワイトのリボンブラウスを身につけた、若い女性の教師だった。生徒たちは少し緊張気味に教師の顔をじっと見つめている。

「みんな、はじめまして。それから退屈な退屈な入学式、どうもお疲れさま。退屈といえば、このクラスでも一人居眠りしている子が居たなあ。えーっと、誰だったっけかな?」

 教師はそう言うと、出席簿と黒板の席順表を交互に見やりながら少し微笑んで居眠り犯を探し始めた。

「あっ、わかった。もしかして、そこの子。えっと、柏木君でしょ?」

「えっ? あっ、は、はい。」

「うん、やっぱり君か、居眠り坊やは。入学初日の式典からいきなり居眠りしちゃうなんて、なかなか度胸が据わっていていいぞ。」

「あっ、ごめんなさい。つい眠くなっちゃって。」

「謝らなくってもいいわよ。実を言うと先生もすごく眠くなっちゃってね。瞼が重くって重くって、それをフォローするのにもう大変だったんだから。そう、こめかみを押さえるフリをしてね、目元を指で押さえてこーんなふうに。」

 そう言うと、女性教師は目尻の辺りを指で押さえて顔の上のほうに吊り上げる仕草をした。すると片方の目元だけが吊り目状態の変な表情に変化し、それを見た生徒たちはあまりのおかしさについ声を上げて笑ってしまった。女性教師は押さえていた指を離して普通に表情に戻ると、その笑い声を受けて逆に自分も笑顔になった。

よし。これで少しは緊張も解けたかな?

 新しい学校生活のスタートで、教師と生徒が初めて向き合う。生徒だけでなく教師側も緊張する瞬間を、まずは無難にクリアしたということで、その担任教師は少し心の中でホッとしていた。

「それじゃあ、一年一組の最初のホームルームを始めますね。まずは私の自己紹介から。」

 教師はそう言うと黒板のほうに向き直り、席順を描いた図の横の空いたスペースに自分の名前を大きく書き始めた。そして書き終えると再び生徒のほうに向き直り、自己紹介を始めた。

「名前は山本佐和子って言います。これから一年間、みんなと一緒にこのクラスを楽しく作って行きたいと思いますので、どうぞよろしくね。」

 少し間を空けて、生徒の顔を一通り見渡す佐和子。一様に柔らかい表情をしている。みんな若くて気さくな感じのする新しい担任教師に興味津々といった感じである。

「それから私の教科は英語です。今は小学校レベルから英語の勉強を始めるところが多いから、初めてだよって人も少ないと思うけど。いちおう授業では基礎からやりますから、やったことない人も心配しないように。」

(英語かぁ。海外とかって憧れるもんなあ。英語、うまくなりたいなぁ。

 佐和子の話を聞きながら、そんなことを思い巡らす明美。

 

 その後佐和子は、教科書やその他必要な配布物を配り終えると、生徒たちに席替えの提案をした。

「お互いの名前を覚えるまではしばらくそのままの席順でって言う先生たちもいるけれど。あんまりガチガチに名前の順で並んだままっていうのも窮屈で嫌でしょ? 名札だって付けているし、席がバラバラでも名前なんてすぐに覚えるよね? っていうことで、早速だけど今から席替えをしまーす。」

 少しざわつく生徒たち。だが困惑のざわつきではなく楽しそうな雰囲気であったから、佐和子は席替えの提案をおおむね生徒たちは受け入れてくれたなと、ホッとしていた。

「じゃあ、まだクラス委員が決まっていないから、悪いけど出席簿が一番の男子と女子、ちょっと手伝って。」

 佐和子は最前列にいた男女一名ずつに手伝わせ、人数分の番号の書いた紙を作らせた。

「はい。それじゃあ今から番号の書いた紙を一枚ずつ取ってもらいます。取った紙に書いてある番号が、しばらく自分の座席になるからねぇ。番号はこの黒板に描かれた図の通りだから間違えないように。はい、それじゃあ、端の人から順に引いて行って頂戴。」

 佐和子がそう言うと、廊下側の生徒の列から順にくじを引いていった。窓際の列は最後だったので、明美の順番が来た頃には残りの紙は数枚程度で、明美は悩むこともなく残っていた紙切れのうち、一番上に在ったものを掴み取った。

 明美がくじを引く頃にはすでに教室のあちこちで小さな歓声が上がっていた。最前列を引いてしまった者、希望通りの席を引き当てた者、などなど。

「ねえ、どこになった?」

 真紀が少し身を乗り出して明美に尋ねてきた。

「あたし? あたしはだめ。なんか変わり映えしない場所になっちゃった。この列の一番後ろ。そっちは?」

「あたしはちょうど真中あたりかな? 三列目の前から四番目だから。でもそっちの場所はいいじゃない。端っこなわけだし、授業中とかでも結構サボったり出来るかもよ。」

 そんな会話をしているうちに、全員のくじ引きが終わり、佐和子の号令で一斉に席替えの移動が始まった。明美は同じ列の一番後ろに下がるだけだからすぐに移動は完了。新しい席に座りながらまだバタバタと移動を続けているクラスメイトの姿を目で追いかけていた。

えーっと。真紀ちゃんは真ん中辺りって言ってたから……。あっ、あそこだ。あの子、こうして見るとすごくおっきいんだなぁ。クラスで一番背が高いかも。あと美智代ちゃんは……あぁ、居た居た。なんだぁ、美智代ちゃんもあたしと一緒で一番後ろなんだぁ)

 明美が美智代の姿を廊下側から数えて二列目の最後部の席に座っているのを認めると、ちょうど美智代も明美の新しい場所を発見したらしく、顔を向けてニコッと笑い、軽く手を振ってきた。明美も同じように手を振り返す。

 

「さっ。全員移動し終わったかな?」

 佐和子の声が響き、明美は再び姿勢を正して前のほうを見やった。それまで気づかなかったが、明美のひとつ前の席には男子生徒が座っていた。明美のそれよりも一回り大きい背中が、黒い学生服に包まれて明美の視界に飛び込んできた。

「男子も女子もゴチャゴチャにしたけど、べつにいいよね? っていうか、そのほうが平等でいいでしょ。」

そうか。男女混合だもんね。まっ、黒板の字はきちんと見えるし。気にならないか。

 明美は前列に座った男子生徒の背中を眺めながら、そんなことを何気なしに考えていた。

「はい。じゃああと一枚だけさっき配り忘れた物があるから、それを今から渡してそれで終わります。それと明日からの予定はさっき渡したスケジュール表を見ておいてね。まだすぐに授業は始まらないけど、明日は校内見学にクラブ活動の紹介、それに身体検査。いろいろあるからバタバタして忙しいわよ。何か分からないことがあったら何でも聞いてきてちょうだい。私は職員室に居ますから。」

 そんな佐和子の言葉を耳にしながら、前から配られてきた最後の配布物を受け取る明美。

「……あっ。」

「んっ? なに?」

 前席の男子生徒から配布物を受け取った明美は、その生徒の顔を見て思わず声を上げてしまった。訝しそうに明美の顔を見つめる男子。

「なに? なんか変?」

「えっ? あっ、ううん。何でもない。ごめんなさい。」

 男子生徒の問いにそう言って謝る明美。男子は、何事もなかったかのように普通の表情で再び前に向き直した。

「はい、それじゃあ終わります。今日は汚れていないから掃除はいいです。明日からは班を決めてちゃんとしますからね。じゃあ、挨拶の号令は……クラス委員がいないから今日は私が。……起立!」

 佐和子の号令でガタガタっと立ち上がる生徒たち。そして号令によって挨拶を済ませ、ようやく解散となった。

 

 挨拶の後、席に座り直し、配布物の整理をしてカバンに詰め込もうとしている明美。

教科書。一気に配られちゃったなあ。重たいよぉ。持って帰るの嫌だなぁ。

 心の中でブツブツ言いながら、カバンに10冊近くある教科書を詰め込んでいた。と、不意に前のほうから明美を呼ぶ声がした。

「なあ、ちょっと。」

「えっ!?」

 前の席に座っている男子生徒である。持ち帰り物の整理は済んだのか、かさの大きくなったカバンだけを机の上に乗せ、体を振り返らせて明美に話し掛けてきた。

「さっきさぁ、なんか言いたそうな感じだっただろ?」

「えっ? あっ、あのぉ。……ごめんなさい。ちょっ、ちょっと。」

「なぁ。言いかけたんなら言ってくれよ。気になっちゃうじゃないかぁ。」

「えっっと。あのぅ………。居眠り坊や……。」

「へっ?」

「さっき、先生が言ったでしょ? 居眠り坊やだって。それ、顔見たら思い出しちゃって、つい。………ごめんね。」

「なぁんだ。それかぁ。先生も言ってくれるよなぁ、まったくぅ。参るよ、変なあだ名みたいだよぉ。」

「えっ? でも、居眠りしていたって言うのは……。」

「うん、まあ。……それは、確かに当たっているんだけどさ。」

 そう言うと、その男子生徒は笑顔を見せ、明美もつられて少し微笑んで見せた。

「ヒウラ……って言うの?」

 セーラー服の胸の辺りに付けられた名札を見て、その男子生徒は名前を確認した。

「えっ? あぁ、名前。うん、そう。日裏。日裏明美。……えーっと、確か、かしわぎ君?」

「そう。柏木聡。しばらく席はこのままみたいだし、ご近所ってことで、ヨロシクな。」

「うん。こちらこそ、よろしく。」

「あれっ? 二人、知り合いだったの?」

 明美と聡が自己紹介をし合っていると、帰り支度を済ませて重そうにカバンをさげてやって来た美智代が二人に声をかけてきた。真紀も美智代のすぐ後ろに付いて立っている。

「違うよ、自己紹介したところ。っていうか、そういうそっちこそ知り合いなのか?」

 聡が美智代に言葉を返した。

「あたしたちもさっき挨拶したばかりだけどね。」

「柏木君は二人と知り合いだったんだぁ。」

 聡と美智代の会話を聞いてそう思った明美は尋ねてみた。

「うん、柏木君も同じ小学校。クラスは違ったんだけど、顔馴染だしね。」

「そうそう。金沢は児童会の会長もしていたから有名だったしな。」

「ええっ。金沢さんって、会長していたんだぁ。すごいなぁ。」

 会長という言葉を聞いて、またしても驚く明美。

「全然すごくないよぉ。他に誰もやりたい人が居なかったから、じゃああたしがやるよって感じで成り行きでなっちゃったみたいなもんだし。」

「そうなんだぁ。でも、それにしてもすごいなぁ。」

「いやぁ、すごいんだから、ほんとに。まあ中学の生徒会はどうか知らないけど、少なくとも一組のクラス委員については、女子のほうは金沢で決まりだな。」

「まだあたしはやるって決めたわけじゃあないからね。柏木君、変なこと言わないでよ。」

 そう言いつつも、まんざらではなさそうな笑顔を崩さない美智代。

「じゃあ俺、帰る。また明日な。」

「うん。じゃあまた。ばいばぁーい。」

 席を立って帰ろうとする聡に手を振り見送る美智代と真紀。明美もつられて手を振り見送った。

 

 聡が他に残っていた男友達と連れ立って教室から出て行くところを見届けた三人。と、美智代がふっと明美のほうに向き直り、言葉をかけてきた。

「柏木君ってさあ。お母さんが居ないんだって。」

「えっ? 居ないって?」

「死んじゃったんだって。何年か前に。」

「あっ、そうなんだぁ。」

「大変だよねえ、お母さんが居ないとさぁ。家のこととか、ほとんど柏木君一人でやっているらしいよ。」

 真紀も美智代の話しに付け足して、明美に聡の事情を説明してあげた。

「お父さんは? 居るんでしょ?」

「うん。でもお父さんは仕事が忙しいみたいで、夜も遅いんだって。柏木君ね、弟が居るんだけどまだ小さくってさ。今年でたしか保育園の年中組……だったかな? その子の面倒も柏木君が見ているんだよ。」

「へえ。けっこう歳が離れているんだね。」

「うん。お母さんが死んだのは、その弟が生まれてすぐだったとかなんとか。」

「金沢さん、詳しいね。」

「ううん。あたしもうちのお母さんがPTAに出たときに聞いてきた話をあとになって聞かされただけだから、はっきり知らないんだけど。それに、柏木君って転校生だったし。」

「へっ? そうなの?」

「5年生のときかな? 東京から引っ越してきたの。お父さんの転勤なんだって。」

「そっかぁ。じゃあ余計に大変なんだねぇ。お母さんが居なくって、お父さんが転勤で。それで知らない学校に行かなきゃいけないなんて。」

「だからその分、柏木君ってうんと明るいよね。すごくしっかりしているし。けっこう小学校でも人気者だったんだよ。」

「そんな感じだね。いま少し話しただけだったけれど、なんとなくそんな感じがしたなぁ。」

 明美は聡の第一印象自体、決して悪いわけではなかった。だが、美智代と真紀の話を聞くにつれ、よりいっそう聡に対して好感を抱くようになっていったのだった。

「あっ、ところで話し変わるんだけどさあ。あのぉ……あたしのこと、さっき『金沢さん』なんて呼んでたけれど、名前で呼んでくれていいからね。美智代でいいよ。」

「あっ、ごめんなさい。今日は初対面だったから、つい。」

「うん。あたしもさ、名前で呼ぶようにするからさ。えっと。明美……だったっけ?」

「うん、そうだよ。じゃあ、美智代ちゃんと、真紀ちゃん。」

「ねえ、ちゃん付けで呼ぶのも止めようよ。なんか子供っぽくってやだなぁって思うし。」

「あぁ、そうかぁ。……じゃあ、美智代と真紀! これからもよろしくね。」

「うん、そうそう。こっちこそよろしくね。」

「あたしも、明美って呼ぶから。友達としてよろしくゥ。」

 呼び名を確認しあった三人は連れ立って教室を出て、明美の呼びかけで二組の教室の前に行った。すでにホームルームを終えて廊下で待っていた留美子を見つけた明美は、傍に美智代と真紀を連れて行き、留美子に対してその新しく出来た友達二人を紹介した。留美子もまた、美智代の予想通りに真紀のことはしっかりと覚えていたようで、真紀本人が明美と連れ立って突然目の前に現れたことにビックリした様子だった。

 

 正午前。自宅に到着し、カギをあけて玄関の中に入る明美。

「ふぅ〜っ。重かったぁ。」

「お帰り〜。お姉ちゃん。」

 重いカバンからようやく開放されて玄関先に座り込み、ようやく一息ついた明美を出迎えたのは二歳年下の妹、小学5年生の成美だった。

「あれっ? 成美、帰っていたの? そっちのほうが早かったんだね。」

「うん。始業式って、入学式よりも早く終わるみたい。クラス替えとかあったけど、うちのクラス、新しい先生が余所から来るみたいでね。まだ今日はうちの学校に来ていないんだって。今まで居た学校で挨拶があるからって。だから担任の話は今日は無くって、教科書だけもらってすぐに終わっちゃった。」

 少しお喋りな妹の話を適当に聞きながら靴を脱ぎ終え、カバンを持って二階の部屋に上がる明美。学校での出来事を喋り続けながら姉の後に続く成美。明美が自分の部屋に入って行ってもそのまま自分も姉の部屋に入り込んで、ベッドの上にちょこんと腰をかけた。

「お姉ちゃんの学校の制服ってかわいいよね。」

「あんただってあと二年したらこの服着られるんだからいいじゃない。」

「あ〜あ。小学校にも制服あったらいいのになあ。」

「へえ。成美、珍しいね。普通は制服とかって嫌がったりするんじゃあない? あたしは私服で気楽に学校に行けるほうがいいなあ。」

 明美は成美の話し相手をしながら制服を脱いでいった。白が基調で襟と袖口が紺色のセーラー服のサイドファスナーを外し、頭から一気に脱ぎ去った。セーラー服の下には白いブラウスを着用している。そのブラウスのボタンを外すとその下には白いハーフトップが。明美は僅かに乳房が膨らみかけているのだが、きちんとしたカップのブラジャーを着けるほどの大きさではないため、母親の意見もあって、まだハーフトップを着用するにとどまっていた。

 上半身が肌着一枚になると、今度は紺色のプリーツスカート手をかけ、ファスナーを下ろして腰からスカートを抜き去った。白地に腰周りと足ぐりにピンクのラインを施し、色とりどりの水玉模様が散りばめられた、ゆったりタイプのかわいいパンティーが露になった。

 

「じゃあ、お姉ちゃん。高校は制服の無い学校に行くの?」

 下着姿のままで制服をハンガーに吊るす作業をしている明美に、成美が言葉を続けた。

「高校って。まだ中学入ったばかりでそこまで考えてないけど。でもそういうのもひとつの手だなぁ。」

「でも、パパが絶対煩く言うよ。パパ、いつも私服の学校って良くないって言っているもん。」

「そうだよねぇ。パパも自分の行っている学校が校則厳しいからって、他の所まで文句言わなくってもいいのにね。」

 パパ………。明美と成美の父親。彼女たちの父親は私立高校の社会科の教師をしていた。物腰が落ち着いていて良識があり、社会人として、また一人の父親として尊敬できる人物であったが、校則を含めた青少年の指導という面においては厳格な部分があり、現代っ子の明美や成美からすればそのような父の考えは古臭く思われ、煙たく感じられることが少なからず在った。

 明美はそんな父親のことを頭に思い浮かべながら、肌着の上に赤いトレーナーとデニムのミニスカートを着て簡単に着替えを済ませ、ハンガーに掛けたセーラー服をしげしげと眺めている成美に話し掛けた。

「あ〜、お腹空いたぁ。ねえ成美、もうお昼食べたの?」

「ううん、まだ。お姉ちゃんを待ってたんだよ。一緒に食べよ。」

「うん。お母さん、何か作ってくれている?」

「『冷蔵庫に入れてあるからチンして食べなさい』って、いつものメモ書きがあったよ。まだ中身が何なのかは見てないけど……。」

 そんな会話をしながら部屋を出て階段を降りて行く二人。母親もまた学校の教師であり、当然ながらこの時間は職場である学校に出勤中のために不在中であった。ちなみに勤務先は市内の公立中学校。家庭科が専門である。

 そんな共働きの家庭に育った二人は、このような時間帯に二人きりで過ごすことは慣れており、母の食事の用意があればそれを取ることにし、もし用意が出来ていないときでも、少なくとも明美の場合は自分たちの空腹を満たす程度の簡単な食事なら作ることは出来ていた。中学にあがる直前に家庭科教師の母親から叩き込まれた、頼りなげな腕前によって……。

 もし妹の成美一人だけになった時に食事の用意が無かったら………。誰かが帰宅するまでひたすら我慢するか、スナック菓子で飢えをしのぐというのが成美の数少ない選択肢であった。

 幸いこの日は母親によって準備が出来ていた様子で、もともと仲の良い姉妹である二人は賑やかにはしゃぎながら、昼食の準備をするのだった。

 

 翌朝。明美は小学校の時と同じように留美子とともに登校し、門をくぐって校舎へと向かっていた。

「日裏、オハヨウ!」

 下足置き場にやって来た明美に背中から突然声がかかった。驚いて振り向いた、そこに居たのは聡。

「あっ、柏木君。おはよう。」

「今日もご近所付き合い、よろしくお願いします。」

「いいえ、こちらこそ。」

 そう言って笑顔を交わす二人。

「ねえ、ご近所付き合いって、なあに?」

 先に靴を履き替え教室へと向かって走り去って行った聡を見送りつつ、留美子が明美にそう尋ねた。

「昨日ね、席替えしたらあたしの前が柏木君になって。まあ、ただそれだけのことなんだけど。」

「ふぅーん。……なんか、面白そうな子だよね。」

「そう……かな? うん、かもね。退屈そうな男の子よりはいいかも。」

「そうそう。ネクラなタイプの子ってヤだよねぇ。あたしのクラスにもそんな子が居てさあ。なんか見ているだけでこっちまで暗くなっちゃいそうだよ。……明美ちゃんのところは?」

「うちのクラス? う〜ん、どうだろう? まだ始まったばかりでよく分からないけど。……でも、いい感じの子が多いと思うよ。賑やかそうな楽しいクラスになりそう。担任の先生も若くってすごく明るいし。」

「そう! それなんだよなぁ。昨日も見たでしょ、うちの担任。なんか話し聞いていても厳しい感じでさあ。生徒指導の学年主任なんだって。もう最悪。明美ちゃんのところの先生が羨ましいよ。」

 明美はその留美子の言葉には何も答えず、ただ笑顔を作って済ませるだけにした。

 そう言っているうちに、教室に着いた二人。それぞれの教室に別れて中に入る。一組は半数程度の生徒がすでに登校しており、先に着いていた聡は他の男子生徒と楽しそうにたむろしていた。美智代と真紀のコンビも登校済みで、明美の姿を発見すると二人とも笑顔で手を振ってきた。

「おはよう! 明美。」

「あっ、美智代、真紀。オハヨウ!」

 挨拶を交わして二人のもとに小走りに近寄る明美。

 新しい仲間との楽しい中学生生活、そして将来に渡って長く続く友情の絆は、今まさに始まったばかりだった。


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