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都電25系統は、たくさんの工場を掻き分けて、荒川へ向かう。いくつかの汚い川を渡り、小さな煙突の吐く煙の中を、ゆっくりゆっくり進んでいく。
もう路面を走ってはいない。ぼくらの村の汽車のように、ナローゲージの線路を走る。でも、車窓の景色はまるでちがう。窓の外には緑も青もない。空も建物も川の水も、みんな灰色。にごっていて、透明なものは何もない。ぼくにはそう見える。
「亀戸九丁目」を過ぎると、都電はまた一つ、ドブ川を渡った。窓から見下ろすと、橋げたすれすれまでにドブ水がせまっていて、ゲゲッっと思った。ちょっとでも雨がふったら、洪水で水びたしになるんじゃないかな? ドブ水の水びたし。イヤだ、イヤだ。都会はイヤだ。東京はイヤだ。
「小松川三丁目」で都電を降りて、ぼくらは、小さな工場が立ち並ぶ灰色の町を歩いていた。鉄錆びた煙突がところどころにそびえている。日曜日なのに煙を吐いている煙突もある。
気をつけなくっちゃ。けんちゃんはこういうの、一番苦手なんだ。町中に、何か淀んだものがモワッとこもったこの感じ。
この町にお母さんがいたら、けんちゃんはここに住むことになるのだろうか? それは無理だ。ぜったい無理だ。けんちゃんが、こんな汚れた空気の町で生きていけるはずがない。
でも、今はまだ大丈夫だ。ぼくも村長さんも父さんも、けんちゃんが歩くのをどう助けたらいいのか、よくわかっている。
道ゆく人は、やっぱりけんちゃんを見てふりかえる。でも、誰も指さしたりはしない。
町工場の続いた通りの角を曲がると、長屋が並んでいた。少年ジャンプの「巨人の星」の星飛雄馬が住んでいるような長屋だ。どこかの工場の社宅だと父さんが教えてくれた。
けんちゃんのお母さんと妹が、一番上のお兄さんと住んでいるはずの住所の家は、すぐに見つかった。でも、表札は「環」じゃなかった。
父さんは、その家の人を呼び出して、前に住んでいた人のことを聞いた。でも、そのおばさんは無愛想に知らないと言うだけで、何も教えてはくれなかった。
「変だな。同じ工場につとめる人が、どこに引っ越したのか知らないのだろうか?」
父さんは首をかしげた。
それからぼくらは、同じ社宅の何軒かをまわり、環さん一家の行き先を聞いた。
でも、みんな、口をそろえたようにそっけなく「知らない」というばかりだ。この暑いのに長袖の白衣なんか着ているけんちゃんを変に思ってのことか、みんなすごくイヤそうな顔をしてぼくらを見る。
けんちゃんは、ただただぼくらに連れて行かれるままに歩いていた。
「アキラ、あとは大人にまかせて、あそこの公園でけんちゃんと休んでおいで」
とうさんが言った。
けんちゃんを見ると、いつもよりももっと青い顔をしている。早く座らせてあげなくっちゃ。このままだと、たおれる。
ぼくは長屋に囲まれた公園のベンチにけんちゃんを座らせた。
公園というか、長屋に囲まれた細長い空地で、ペンキのはげたベンチが二つ並べてあるだけの所だ。それでも木が何本か植わっていて、ジリジリ鳴くセミの声がうっとうしい。長屋の向こうに、いくつもの煙突が見える。
けんちゃんは、何もしゃべらないで、自分のひざにひじをついて、ただただぼうっとしていた。東京まで来たのにお母さんが見つからなくて、悲しい思いをしているんだろうと思ったが、けんちゃんはそれほど悲しそうでもなくて、ただぼうっとしている。
ぼくはだんだんにたいくつしてきた。
「わかったよ、外で遊べばいいんだろ?」
近くの家の玄関が開いて、白いランニングシャツの男の子が出てきた。背の高さはぼくと同じくらい。
男の子はグローブとボールを持っていた。木に向かってボールを投げて、跳ね返ってきたのをグローブで受けて、一人でキャツチボールをしようとしていたが、うまくいかない。そのうち、「ちぇっ!」とグローブを投げ出してしまった。
男の子は、ぼくを見て行った。
「おまえ、この辺の子じゃないな」
「うん」
「山の手のぼっちゃんだろ? こんなとこで何してるんだ?」
山の手のぼっちゃん? どういう意味なんだ?するとけんちゃんが関係ないことを言った。
「山手線にはまだ乗ってません」
男の子は首をかしげて、ジロジロとけんちゃんを見た。
「変なヤツ。この暑いのにそんなの着て。へーんなの……」
そこまで言って、男の子は突然、けんちゃんの顔をじっと見た。
「ルミちゃんと、おんなじ目をしている」
「ルミちゃんって、環ルミ子さんのこと? 今、どこにいるのか、知ってたら教えてくれない?」
「だめだ! 山の手のぼっちゃんなんかに」
「山手線にはまだ乗ってません」
「ぼくは山の手のぼっちゃんなんかじゃないよ。○○県の田舎から、きのう旅行でこっちに来たばっかりで、東京ははじめてなんだ」
旅行だからって、かあさんが上等のポロシャツ(お古だけど)を着せてくれたから、「ぼっちゃん」に見えるのかな?
「ふーん。でも、ダメだ。ダメだって言われてるんだ。ルミちゃんの居所はだれにもバラしちゃなんねえ。みんなで約束したんだ」
「お願いだから。けんちゃんは、おかあさんに会うために、わざわざ東京までやってきたんだよ」
「てえやんでぇ! そんなこと言って、どこかの記者にたのまれたんだろう? ルミちゃんはなあ、あとちょっとでタマノコシなんだ。お嫁にいって、幸せになるんだ。あとちょっとのとこで変なこと書かれたら、ダメになっちゃうかもしれないんだよ」
「ちがうよ、そんな記者に頼まれたとかいうんじゃなくて、けんちゃんは本当にお母さんをさがしてるんだ。お願いだよ、教えてよ!」
ぼくは必死だった。そうか、この町の人みんなで、ルミ子さんを守るために、秘密にしているんだ。
「まあ、いい。ちょっとつきあえよ」
「え?」
「夏休みだからみんな田舎のじいちゃんやばあちゃんのとこに行っちまって、たいくつしてたんだ。おれ、きっすいの江戸っ子だから田舎がないんだ。家でマンガ見てると母ちゃんにどなられるし、キャッチボールしようにも相手がない。つきあえよ。おれ、テツオ。テツでいいよ」
「ぼくはアキラ」
「ちょっと待ってな、アキラ」
テツは、家にもどって、グローブをもう一つ持ってきた。
「少し大きいけど、使えるだろ? それ、ルミちゃんが使ってたんだ。ルミちゃんは、キャッチボール、うまかったんだぞ」
ぼくらはキャッチボールを始めた。
テツの投げる球はなかなか速い。でも、ぼくも負けてはいない。野球は得意なんだ。
テツはだんだんムキになってきて、球もだんだん速く、強くなってきた。
だからぼくも力を入れて投げる。
お互い、キャッチボールとは言えないほどの真剣勝負になってきた。
テツはマンガに出てくるような東京の下町の熱血野球少年なんだろう。投げるフォームもなかなかきまっている。
ぼくも負けまいとがんばった。でも、とうとうテツの超速球を受けそこなってしまった。
ボールを拾ってもどって来ると、
「お前、なかなかやるじゃないか」
と、テツが言った。
「きみこそ」
「お前、何年生?」
「四年生」
「おれ、五年生。少年野球チームのピッチャーなんだ。次期エースって言われてる」
テツは、また一球投げた。今度はちゃんと受けやすいのを投げてくれた。だから、ぼくも受けやすいのを返した。
セミの声のうるさい八月の炎天下、ぼくらは汗まみれになりながら、球を投げ合った。だんだん楽しくなってきて、テツがすごくいいヤツに思えてきた。
けんちゃんは、ぼくらの投げる球をじっと目で追っていた。
「これくらいにしとこうか? のどかわいた。ちょっと、おれんち来いよ」
テツは開けっぱなしの玄関から、
「かあちゃん、カルピス三つ!」
と、大きな声で言った。家の中には電気掃除機の音が鳴り響いている。
「かあちゃん! かあちゃん! カルピス!」
電気掃除機の音が止まって、中からお母さんの声が聞こえてきた。
「何言ってんだい、この子は。今いそがしいんだよ」
「たのむよ、カルピス。友だちと飲むんだ」
「友だち?」
テツのお母さんが玄関に出てきた。けんちゃんのお母さんの居場所を知らないと言った人だ。
「おやまあ、さっきの」
「こんにちは」
「テツ、気をつけなきゃいけないよ。この人達、ルミちゃんの居所をかぎ回ってるんだ」
「あやしいヤツなんかじゃないよ。こいつ、なかなかいいヤツなんだ。キャッチボールして、友だちになったんだ」
「ふうん」
お母さんは、ぼくたちをじっと見た。特に、けんちゃんの方を。じっと見られるとけんちゃんは、目をそらして座り込んでしまった。
「じゃ、ちょっと待ってな。うちにカルピスなんてあったかねえ?」
「こないだお中元でもらったあれ、出してくれよ」
「あれはお客さん用だから」
「○○県の村からわざわざ出てきたんだ。いいじゃないか、それくらい」
「ふうん、○○県からねえ……。ちょっと待ってて。今、大掃除中だから、悪いけど玄関で飲んでね」
「氷入れてくれよ、かあちゃん」
しばらくして、テツのお母さんはお盆に三つ、カルピスを入れたコップを持ってきた。ちゃんと氷が入っていて、ストローもさしてある。おしぼりタオルも置いてあった。
「ありがとうございます」
ぼくはお礼を言った。
「ありがとうございます」
と、けんちゃんもオウム返しをした。その言い方がやっぱり変に聞こえたのか、テツのお母さんはまたけんちゃんをジロジロ見た。
「暑いな。脱いじまいなよ、ちょっとはましになるぜ」
「うん」
言われるままにぼくはポロシャツを脱いでランニング一枚になった。
「そっちの兄ちゃんも脱いじまいな。この暑いのに長袖なんて、バカみたいだぜ」
テツの言う通りだとぼくも思ったけど、
「けんちゃんは、いいんだ」
と、言っておくしかなかった。けんちゃんはまた、オウム返しした。
「けんちゃんは、いいんだ」
「変なの」
テツは首をかしげた。けんちゃんのことをバカとか変とか言われてちょっとムッとしたが、確かにどう見ても変なので、言い返すのはやめた。
ぼくとテツは、カルピスを飲みながら、野球の話で盛り上がった。
テツとはすごく話が合う。ぼくはいつの間にか、けんちゃんのことは放ったらかしにして、話に夢中になっていた。
そのうちテツは、
「ルミちゃんもキャッチボールは得意だった。いや、得意ってほどでもないが、ルミちゃんとやると楽しかった。何でかわらんねえが、すごく楽しかった」
と、ルミ子さんの話を始めた。別にぼくが話してくれと言ったわけではない。
「ルミちゃんは、勉強ができなかった。算数がとくにダメだった。中学校にひどいヤツがいて、いじめられて、毎日泣いて帰ってきた。泣いて帰ってきた日でも、おれと一緒に遊んでくれた」
「ふうん、やさしいひとなんだね」
「キャッチボールを教えてくれたのも、ルミちゃんだった。おれはまだ幼稚園だったけど、ルミちゃんにほめられたかったからがんばった。そのうち、幼稚園から帰ってくると、ルミちゃんが待っててくれるようになった。学校やめちゃった、もう行かないなんて言った。ルミちゃんは、本当に学校に行かなくなった。それで毎日、近所の子どもたちを集めて遊んでくれた。悪口を言う大人もいたけど、子どもの相手をしてくれるから、みんなが大助かりだった。ルミちゃんに小さい子をあずけて工場に働きに出たおばさんもいた。学校に行かなくなって、ルミちゃんは明るくなった。大人も子どもも、みんなルミちゃんのことが好きだった」
テツは遠い目をして言った。何だか妙に大人っぽいため息なんかついて、話を続けた。
「でも、ルミちゃんはちゃんと中学校を卒業したんだ。卒業式の日のルミちゃんは」
テツはちょっと言葉を切ってから、照れくさそうに言った。
「きれいだった」
テツは真っ赤になっていた。
「ちょっと待ってな。卒業式のときのルミちゃんの写真、見せてやるよ」
テツのアルバムの中には、「いとしのルミちゃん」のページがあって
そのまん中に卒業式のときの写真があった。
「これがルミちゃんだ。他のねえちゃん達よりずっと美人だろ? かわいいだろ? それにこの笑顔! 学校に毎日行ってイヤなことがまんして勉強してるヤツがなんだっていうんだ? この笑顔があるんだ。算数なんかできなくても、どうってことねえだろう? そうだろう?」
テツの話にはだんだん熱がこもってきた。仲良くなるととたんにおしゃべりになるヤツらしい。
「中学校を卒業するとルミちゃんは、働きに出た。駅前の食堂に。ルミちゃんは、おつりの計算ができない。それだけなら、他の人にやってもらえば何とかなるんだが、注文もおぼえられなかった。がんばっても、がんばってもだめだった。これじゃ仕事になんねえって、店の人も困ってしまった。でも、ルミちゃんをクビにはできねえ」
「どうして?」
「わかんねえか? ルミちゃんはちょっとの間に、すっかりカンバン娘になってたんだ。そりゃそうだろう? おばちゃんとおじちゃんだけで切り盛りしてた店にあんなかわいい子が入ったんだ。お客もふえて商売繁盛。仕事はできないが愛想だけはよかったし、何しろあの笑顔だから、そりゃあ客も増えるってもんよ」
「ふうん」
何だかけんちゃんと反対だとぼくは思った。
「このままじゃクビになるなんてウワサになったから、常連のお客達が作戦に出た」
「作戦?」
「注文するのは、100円の日替わり定食か、50円のきつねうどんだけ。おつりはなし。どうしてもおつりがいるときは、金額を教えてあげる。回覧板も回って、突然来たよそのお客にもメモを渡した」
「へえ、みんなやさしいんだね」
「作戦は大成功! とうとうあの店のお品書きは、日替わり定食ときつねうどんだけになっちまった。そのうちおつりの出し方もだれかがわかりやすく表に書いてくれたんで、何とかやっていけるようになった」
ぼくは何だか感動した。ぼくらの村でけんちゃんを助けようとしているように、この東京の下町の人達も一人のためにみんなで何かしてあげようという、あったかい心を持っている。
「それで、ルミ子さんとお母さんは今、どこにいるの?」
「そいつは言えねえ。何があっても誰にも教えねえって、みんなで約束したんだ。それに、俺は何にも知らねえんだ」
「けんちゃんはお母さんに会いに……」
そのとき、テツのお母さんが玄関にやってきた。
「テツ、何にもしゃべるんじゃないよ」
「ああ、俺は何も言っちゃいねえ」
「その人がどういう人かは知りませんけどね、悪いことは言わない。この町から早く出て行ってくれませんかねえ」
テツのお母さんはきっぱりと言った。
「ルミちゃんの兄ちゃんらしいよ」
「それじゃ、行方不明だという一つ上の兄さんかい? それならなおさらだ。精薄のきょうだいがいるなんて知れたら、結婚どころじゃない……」
「かあちゃん、そんな言い方はひでえんじゃないか?」
と、テツが言うと、
「あたしもこんなことは言いたくないけどね、世の中ってもんはそんなものなんでね」
と、テツのお母さんは言った。
セイハク? その言葉の意味は知っていたけど、けんちゃんは違うんじゃないかと思った。
でも、テツのお母さんが言っていることがわからないわけでもなかった。世の中がそんなものなら、そんな世の中で、けんちゃんは生きてゆかれない。ぼくはすごく悲しくなって、泣き出しそうだった。
泣き出す前に、とうさんと村長さんがぼくを見つけてくれた。
「だめだ、何も手がかりがつかめない。もう行こう」
「んだ」
「うん」
「どうした、アキラ? 元気がないな」
「何でもない」
せっかく来たのに、何もわからなかった。何も教えてもらえなかった。ぼくらは途方に暮れて、とりあえず都電の駅に向かった。
「おーい! ちょっと待ってくれ!」
振り向くと、テツが息咳切って走ってきた。
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