.阿波国分寺

僧寺跡と現存寺

2001年12月27日 訪問

第十五番札所薬王山阿波国分寺の山門

重層入母屋造りの本堂

現存寺の状況

 四国八十八カ所第十五番札所となる現存寺は、薬王山阿波国分寺と称し、曹洞宗である。
 本堂は重層入母屋造りで、長野の善光寺を思わせる。できれば、信濃国分寺を開いて両寺の本堂を見比べてほしい。
 本堂には本尊薬師如来が祀られており、その裏はすばらしい庭園になっているが、公開はしていないようだった。
 お遍路さんをまじえて撮りたかったのにタイミングが悪く、どれにも写っていなかった。

阿波僧寺の沿革

 創建は不明だが、行基の開基とされており、756年には開山していたようだ。平安時代には衰退し、その後記録がないため500年ほどの空白となるが、寺としては存在はしていた。
 そして、1575(天正10)年に長曽我部軍の兵火により焼失したという。それにしても、土佐の長曽我部さんも、国分寺を焼くとはしょうがない人だ。それでいて、ちゃっかり土佐国分寺では、金堂まで寄進しているのだから、源頼朝や新田義貞や上杉謙信や武田信玄と同じようなことをしている。
 現在への再建は 1741(寛保元)年、徳島藩蜂須賀家の命によって、本堂再建が行われて現在に至った。 

田んぼから運び込まれた七重塔心礎石

発掘調査の状況から

 昭和53年度から3ヶ年間重要遺構確認調査などにより、奈良時代後期の遺構・遺物などが発見された。具体的には、中心伽藍の回廊跡・築地跡・礎石建物等、寺域を画する溝などであったようである。
 それと同時に、現存寺の南西の水田(“塔のもと”という地名)から左画像に示す塔心礎石が発見され、現存寺に運ばれた。現在では、創建当時の僧寺は七重の塔であったことが明らかになっている。
 こうした事象から推察すると、西塔を配した国分寺伽藍配置であったろうと推察できる。

御朱印

四国八十八ヶ所・四国別格二十霊場巡礼の旅へ
第十五番 国分寺

第十五番札所の札


 

重層入母屋造りである本堂の裏手にある庭園

板状の庭石が特徴的だ さすが禅宗の庭園である


尼 寺 跡

阿波国分尼寺を表す石碑と説明板


伽藍配置は尼寺として一般的だが
なぜか講堂がない どうしてか…

全景だが中門と金堂跡を網羅したかどうか…

 尼寺跡は、現存寺(僧寺跡)から北へ2q走ったところにあった。上画像の「伽藍配置復元図」に示す現在地は、北側から撮った画像である。尼寺の伽藍配置としては一般的なものだが、なぜか講堂跡が見あたらない。検出されなかったのか、実際になかったのかは不明である。
 途中、徳島市立考古資料館があったが、年末の休館にはいっていた。それでも、係員の方に尼寺跡の場所を教えていただいたり、展示物の概要を聞くことができた。ここにある展示物は、県内にある古墳からの出土品が多く、銅鐸や神獣鏡が中心で、国分寺の関係では出土瓦があるという話だった。


国 府 跡

 阿波国府は、徳島市街から西におよそ8q行くと国府(こう)という小さな町に辿り着く。その町の中心街らしい場所に大御和神社がある。
 そこから遺構が発見されているので、そこが国庁跡と断定された。
 ここから僧寺跡は南西に2q、尼寺跡には西に2qと、ともに近すぎず遠すぎず、しかもともに小高い丘陵の隅に二寺が位置し、明らかに「国の華として好所」にちがいない。
 画像は国府跡とされる大御和神社を東から撮ったもの。



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