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豊後国分寺

僧寺跡と現存寺

2003年12月28日 訪問

 大分ではまず先に国府跡らしき場所に立ち寄った。それから大分川を遡りつつ、国分寺跡を見学するというコースをとった。湯布院に泊まるためだったからだ。
 このコースで感じたことだが、国分寺跡は、あとでレポートする国府跡と思われる二地点からは、5〜6qだったろうか、かなり離れた所にあるように思えた。
 僧寺・尼寺
(推定)跡地は、私が思っていた以上に史蹟保存の努力がされていて、僧寺跡地は一部が私有地であるものの、その大半が収用されて公園化されてあり、尼寺跡らしきところには立派な歴史資料館が建てられてあった。

 資料館は、すでに年末・年始の休業に入っていたので、十分なレポートができないのが残念だが、見てきたままの報告となることをお許し願いたい。
 下画像は汚れてしかもタイルの目地が目立つので、かなり見にくいのではないかと思われるが、豊後僧寺の伽藍を伺い知るには、とても適切なイメージ画像であると感じたので、あえて載せることにした。


豊後僧寺の創建伽藍の想像図


九州屈指の国分寺史跡公園

伽藍配置

 伽藍は、あまりにもめずらしすぎるものだった。まず、寺域も伽藍も南北に長く、これほどまで南北に長すぎる伽藍は見たことがなかった。しかも、後方建物は左に微妙にずれているのだ。
 伽藍配置は、西塔を回廊内に配する大官大寺式になる。ただ回廊内の広さは、ことによると東大寺並か、あるいは日本一の可能性もあり、それほど広かった。

中門の南

 伽藍配置図では、中門と南門の間は10bもない感じのようだが、とりあえずは、ある一定の距離をおいて、史跡公園の南端から撮ってみた。もしかしたら、南門は駐車している軽自動車の向こう側になるかもしれないとも思う。
 参道の中心線がそのまま道路として残され、それが金堂跡手前まで通じていて、そこでTの字型になっている。まさに理想的な道の残り方になっている。
 塔跡は、中門を過ぎると左手に私有地である民家が一軒あって、その先の金堂跡手前の左側奥になる。

中門跡

 中門跡を、南西の方向から撮ってみた。門跡の西半分は、史跡公園にかかっていて、東半分になる道路にも跡地がわかるので、そこにはわかるように敷石が埋めてあった。

 画像では黒塗りの車が目ざわりになっているが、私の足となっている福岡空港前で借りたレンタカーだ。
 中門跡から両側に回廊跡がのびている。金堂跡へは道路を北に進む。

回廊西南端

 中門跡から西に移動をしながら、回廊跡の南西角を入れて中門跡方向を撮ってみた。
 回廊の長さは南北に99b、東西に154b だから、中門の中心線までは77b になる。ことによると、東大寺の回廊よりも大きいのではないかと思われる。


塔基壇の真上に建つ観音堂

塔 跡

 中門跡から北方向への道を歩くと金堂跡手前の左方向に、左画像の観音堂が建てられてあった。
 このお堂の下には、塔心礎をはじめとして、周囲の礎石は9個存在していて、およそ12b四方となることが判明している。この大きは、全国僧寺跡の塔のなかでもかなり立派なものとなろう。


北東角から南を見る 角の礎石が大きく見える


南東角から西を見る

金 堂 跡

 金堂跡には薬師堂が建てられてあったが、お堂向きは、なぜか東向きでしかも、西に寄っていた。
 ▲印の表示板が金堂跡の前部中央になる。


現存寺本堂と手前には金堂跡礎石が見える

 金堂跡には現在40個あまりの礎石が残されているというから、そのほとんどが残されているのではないかと思われる。ただし、全部が当時の位置のままであったわけではないようだ。
 基壇は東西32.6b、南北が21.6bで、この上に幅25.16b(7間)、奥行き14.21b(4間)、軒の出3.7bの重層建物が建てられていた。
 かなり大きいので、最大の武蔵国分寺の金堂基壇と比べてみよう。武蔵金堂では、東西が36b、南北が16bであるで、ほぼ −4b になる。

 現存寺は名称を医王山金光明寺と号する。宗旨は天台宗となっており、本尊は薬師如来が祀られている。


講堂跡の南西角から北を見る 礎石は復元礎石を使用
後方は食堂跡 その基壇の端を↓で示す

講 堂 跡

 金堂跡に建てられてある薬師堂の木立をぬけると、再び公園化した芝生の原に出る。そこには縦に、講堂跡と食堂跡の基壇が復元されてあった。

 調査当時はすでに礎石は失われていたようだが、礎石下の根石が残されていたので、間口20.7b(7間)、奥行き11.8b(4間)の講堂が建っていたことが判明している。

食 堂 跡

 ふつうの伽藍は、講堂の背後には「僧房」すなわち、僧侶の執務・生活棟であることが一般的である。しかし、遺構からは礎石は発見されず、掘建柱の穴から間口21.3b(7間)、奥行12b(4間)の建物であることが判明し、その様子から僧坊ではなく食堂(じきどう)であると判断された。


食堂復元図

 創建の記録は寺伝によると「天平十三(741)年、国分寺建立の詔が発せられた年に石川民部が豊後国司とともに僧寺・尼寺等を建て、のちに行基を開基とした」とあったが、その三年後になっても諸国の多くはに着工すら至らず、平城京からは再び「三年以内に建てよ」と催促する詔を出したほどであったので、この記録にある即年完成の説は、ちょっと信じがたいもである。
 豊後風土記大分郡条に「寺二所僧寺尼寺」と記載され、続日本紀の天平勝宝八
(756)年の条に「越後国以下二十六ヶ国(含む豊後)国分寺に灌頂幡一、道場幡三九、緋網二条を下賜され」という記録が残されてあった。また、それを裏付ける奈良期の鐙瓦や唐草平瓦の出土もあり、詔より15年後の756年にはすでに完成していたと判断されている。
 その後、鎌倉期の1240(仁治元)年には、大友氏により南都西大寺の忍性上人中興開山として請来したとされ、天正期
(1573〜1591)になって島津氏の侵攻によって兵火を受けて廃絶したとあった。ならば、少なくとも創建から800年間は存続していたことになる。これほど継続していた国分寺もめずらしいが、これはすごい。その後、1675(延宝3)年から再興が始まり、1694(元禄7)年に瓦葺きの本堂が完成して今日に至っているということなので、空白期は100年にも満たないことになる。これが確かなら、全国の国分寺のなかでも存続の成績としてはかなり優秀の類となるであろう。


尼 寺 跡

 画像は冬の日差しを浴びる歴史資料館の裏庭であるが、ただの裏庭ではない。ここから掘っ建て柱の遺構が確認されのである。これまで巡った他国でも、尼寺跡らしき処から掘っ建て柱の遺構が見つかったという例もたしかにあった。こうしたことからか、尼寺跡であると比定する説が有力となっているのだ。ただし、あまりにも近すぎるところが若干気になる点ではあるが、他国の例にも隣り合わせにある信濃国分僧寺・尼寺もあるので考えられないこともない。
 発掘調査によれば、掘建柱建物4棟、塀1条、土壙4か所が発見された。4棟のうち3棟は東西棟で、1棟のみ南北棟の庇付きの建物であった。しかも、土壙からは「尼寺天長九年」
(832年)と書かれた土器など、5点の墨書土器が出土したということである。


歴史資料館


画像をクリックすると資料館の公式HPにリンクします

 すでに年末・年始の休みに入り、残念ながら休館に入っていた。愚痴になるが、私が休みが取れて来てみれば、施設も休みに入っていることはこれまでも多かったのだが、開館時期をねらって来るためには、やはり私が定年退職するまでは仕方がないのか…。
 それにしても、東大寺によく似ている。それも、創建期の東大寺は、横幅は現在の三倍あったわけだから、創建当時の東大寺を思い起こすには良いかもしれない。
 今度は開館している時期にまた訪れ、これを更新したい。


国 府 跡

 国府跡は残念ながら明らかになっていないが、二カ所の説があがっていると聞いている。その有力な二カ所を紹介しておきたい。このどちらが本当の国府であるかは、専門家にまかせるとして、ちょっと寄ってみたので紹介しておきたい。


もし国府跡ならば… この磨崖仏は後世に彫られたか?

岩 屋 寺

 車が絶え間なく通る五差路の交差点で、理想的なアングルを求めて横断歩道を渡ったり、車道に飛び出すなど命がけの撮影となった。
 ということで、左画像に載せた画像は、何のことはない正面の歩道から撮った一枚である。
 ここが国府跡であったとしたら、磨崖仏を彫ったのは密教が日本に渡ってきた頃になるから、国府跡と知っていて彫ったのか…、と考えると「考えにくいかな…」とも思うが、そうだったらおもしろいと考えてもいる。


ちぃさな社だが 南向きで“国府跡”の風格はある

大 国 社

 かつては、あぜ道だったろうと思わせるような狭い道を入ると、近年宅地化したという感じの家が建ち並んでいた。しかしあまりにも道が狭く、対向車が来たら面倒になるような個所が多かった。ところが、意外にもその道は直線で、しかも東西・南北にかなり正確に仕切られていたのだ。
 そうなると「条里制か…」などとすぐに思ってしまう、今の自分があるわけなので慢性的“国分寺病”のようである。でも、もしかしたら、これらの道も史実かも…。