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越中国分寺

僧寺跡

2001年8月22日 訪問

 越中国府には、大伴家持が746(天平18)年に平城京より国司として5年間 派遣されていた。このことは有名な話だが、それに比べて国分寺の方は、大伴氏の名に押されてか、どうしてこんなにも影が薄いのだろうかと思った。
 しかし、よくよく調べてみると、判明していることがとても少ないことが第一の原因であるようで、それというのも、僧寺跡とする現地は、見た目にも人家が周辺に密集していて、発掘調査などできるような状態にはないようで、今のところ仕方がないようにも思えた。
 それにしても、僧寺跡に佇んでいる薬師堂は、あまりにも寂れた感じがしたのに比べ、万葉歴史館の施設はあまりにも立派であったので、つい比較してしまったところからそのように感じたわけだった。

高岡商工会議所伏木商工業青年部会のホームページ
http://www.ccis-toyama.or.jp/takaoka/fss/spot/kokubunji/kokubunji.htm


僧寺跡地を守る薬師堂

 僧寺跡は昭和42年の発掘調査によって、薬師堂(写真)境内とその付近の国分堂地内から、鐙瓦・唐草宇瓦などが出土した。
 そして、薬師堂の前あたりと側方から、講堂あるいは金堂の遺構と思われる土壇が、約20bほど発見されたという。
 申し訳ないが薬師堂はずいぶん寂れた感じだ。近くの人の話によると、「国分寺」の寺号すら戴けず、檀家さんもなく…」という事情だったようだ。富山県史跡の指定はもらえても、現存するお堂には援助はないのだろうか。礎石と思われる石が堂の前に無造作に置かれていた。


石仏列と薬師堂(東側から)

 薬師堂の南東方向 約20bの所に、塔跡があると書かれているので探してみた。しかしそれらしきものは見あたらなかったが、およそ50坪ほどの土地にぎっしりと墓地が並んでいた。

想像図を作ってみたが…


石仏列東面を北方向に見る

 石仏の列は東南の角を中心に南側と東側面の二面にあって、およそ40像ほどあった。
 左上画像は南側を西に見たもので、左は東側面を北に見たものである。 これらの石仏はここから出土したものか、それとも信徒が寄進したかは不明である。

 とにかく、大伴家持が国司として派遣されたことは明らかだが、国分寺に関する資料がほとんどない。それでも 「わが心の国分寺」によれば、大伴氏が国師の徒僧清見が京に戻る際、酒席を設けたという記録が天平20年にあり、この僧が国分寺に関係した人らしい。


「越中国守館址」と書かれた石碑

 少なくとも大伴氏が派遣された頃には、国分寺は存在しており、平安の末期まではあったと述べている。
 その証拠になるかは不明だが、薬師堂内に平安初期の等身大の神将像があるという。
 僧寺跡の薬師堂から、東に
1qの所に氷見線の越中伏木駅があるが、その手前の台地の端際に越中国庁跡がある。現在では気象観測所の敷地になっている。
その他にも、昔から聖地とする二上山や多気神社、そして国庁跡近くにある勝興寺など、国庁や国分寺に関連のある史跡や寺社・施設が数多くあった。


大伴家持も喜ぶ「万葉歴史館」

高岡市万葉歴史館にリンク

 大伴家持さんが現代に復活したとしたら、喜ぶかテレるかはわからないが、じつに立派な「高岡市万葉歴史館」に入館してみた。平成2年の10月にオープンだから、10年経ことになる。

 館内はすばらしい装置がいっぱいあって、それぞれの歌の味わいを写真や光によって表している。また、国分寺についても若干の展示がある。 私にとっては、越中での大伴氏の暮らしぶりや、国司の仕事内容がよくわかった。 歌の方は私にはいまひとつ…。

 それでも一首ほどご披露したい。雰囲気だけでも味わっていただきたい。

  もののふの 八十娘子らが汲みまがふ
     寺井の上の 堅香子の花    家持

    ※かたくりの花は、この歌がもとでかは不明だが富山県の“県花”になっているようだ。