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越前国分寺

現存寺の謎

2001年8月21日 訪問

 北陸本線の武生(福井県:たけふ)駅から、西に400bちょっとで現存寺がある。どう考えてみても現存寺以外には手がかりがなさそうなので、まずは北陸自動車道のインターを降りて市街に向かい、駅南側のループ橋を渡って現存寺に到着した。
 駅から歩いても15分程度の町中なのだろうが、かなり静かでそれでいて古い町並みが残り、しかも寺町といえるほど神社仏閣が多い所だった。


現存寺に向かって左を見る 突き当たりも寺社だ

京都の町並みにあまりにも似ていると思った寺社町
正面に松の木が生えているところが現存寺になる


現存する越前国分寺


お堂の脇にあった「国分寺縁起」

 (略)今を去る事千弐百有余年の普時の高僧行基菩薩聖武天皇の勅命により鎮護国家の祈願道場越の國國分寺を当地に建立せらる
 御本尊は天拝御薬師如来は行基菩薩一刀三礼の御作なり(略)

           武生市

 現存寺境内に表示されている「国分寺縁起」によれば、創建は「今を去る事千弐百有余年の普時の高僧行基菩薩聖武天皇の勅命により鎮護国家の祈願道場越の國國分寺を当地に建立せらる」とある。「千弐百有余年」というのだから、詔勅が出されたのが現在を2001年とすると、1260年以前ということになるので、比較的早くに建てられ、しかも行基が直々に建てたということらしい。さすがは「大国」である。

 そしてさらに「御本尊は天拝御薬師如来は行基菩薩一刀三礼の御作なり」と書かれていたが、ここで疑問がわいた。創建当時の国分寺の本尊は、丈六の釈迦三尊像ではなかったのか。行基はあの時代の人物だから、この説でいけば、創建の始めから本尊は“薬師如来”ということになり、聖武天皇の詔とは矛盾してくるのである。この疑問は宿題としよう。

 このページの書き出しからして、創建からここに建てられていたかのように書いてしまったが、この越前国分寺にあっても、全国にある国分寺のなかで、指折を競うほどわからないことばかりの寺なのである。
 それにしても、武生市と同観光協会の説明板によれば
「規模も国中屈指のもので、三大国分寺の一つに数えられた」としている。どの地方に行ってもお国自慢をしたい気持ちは分からないわけではないが、僧寺跡伽藍の一部として遺構や礎石が発見されているならばともかく、場所も現存寺の位置であるかどうすらはっきりしていないため、関連した書物だけでは信じがたい点がある。
 「縁起」にある
「天拝」の意味がわかった。「聖武天皇御拝礼の故を以て天拝と称し…」というわけである。つまり、聖武天皇が拝んだことのある仏様ということらしい。「七堂伽藍を連ねしも、度々の火災によりその面影を留めないが」「奇跡的にも難を免れ、現在本尊として安置されている」という。ならば、その「七堂伽藍」はどこにあったのか。それがわからない。また、そこがいちばん知りたいところである。


天拝薬師如来の謎

 さて、"宿題"としていた「御本尊の天拝御薬師如来」の謎だが、これについてある程度、私なりの考えをまとめておきたい。
 私が教科書としている「わが心の国分寺」には、「本尊を天拝薬師と称し、行基作」と述べて「縁起」説を支持してはいるものの、さらに「平安中期の素朴な一本彫座像である」と述べている。そこに明らかな矛盾が生じてくるのだ。
 仮に行基(668〜749)の作で、聖武天皇が拝んで“天拝”と称したとしても、時代的にはうなずける。がしかし、聖武天皇の国分寺建立の詔にある、「丈六の釈迦三尊像」を本尊とする指示・命令とはまったく矛盾する。すなわち、行基の作の天拝薬師如来像が創建当時から御本尊として祀られていたとすることが、全国の国分寺の歴史とは全く異なることとなってしまうのである。これが第一の疑問である。
 第二の疑問である。「御本尊の天拝御薬師如来」を行基の作という説を謳っているが、その作風は「平安中期の素朴な…」であるという。この作風ばかりは紛れもない事実であるだろうから、行基が活躍した年代から割り出すと、ほぼ250年後の作風ということになる。まさか、行基が250年後の作風を事前に察知して彫ったとも思えない。大きな謎である。


僧寺跡の謎


  史跡 大虫廃寺跡碑

 現存寺から西に2q行くと、大虫廃寺跡がある。ここは、国分寺跡かどうかは不明だが、とりあえずは“参考地”となっているようだ。
 行ってみたが、工場の駐車場になっていて、寺跡らしき雰囲気はなかった。そのために、行き過ぎたり、見当違いの場所を探していたりで、過去の経験をしてみても、大工場の駐車場の一部とは考え難かった。
 左と下画像の二枚は、雰囲気を出すため撮影の角度を考え、トリミングしたりで苦心の作である。
 それでも、跡碑の背後に駐車場と工場が写ってしまった。しかしまずまず、二枚の画像を合わせてみても、のどかな田園風景とはなっていた。
 そこには、塔心礎石とみられる石が一つだけあるのみであった。周囲からは、金堂の遺構らしきものも発見されたようだが、伽藍について説明してあるものはまったくなかった。
 右画像は、雨が降るなか邪魔な草を抜いてからの撮影となったものである。

 それにしても、塔心礎石にしてはサイズがかなり小いもので、僧寺跡説として想定するには、かなり否定的な気持ちになっていた。


塔心礎石らしき石が一つだけ置かれていた


国府跡の謎


現存する越前国分寺の南にある越前総社


慈善団体が寄贈した「越前国府」の碑
でも、“国府”と書いて大丈夫なのか…
ちょっと心配だ

 現存国分寺の南側に越前総社があったので立ち寄ってみた。創建国分寺の位置は不明だが、総社の北隣に現存国分寺が接してあるということは、現存寺の位置には創建僧寺があったとは思えないことは確かだ。
 しかもその総社の境内には、慈善団体が寄贈した「越前国府」の石碑が建てられてあった。ますます不思議になったのは、総社の境内に国府跡があるだろうかという疑問である。たしかに総社境内にかかっている“国府跡”はないことはない。私の地元、武蔵国府跡では大国魂神社
(すなわち総社)の境内の一部をかすめているので、こうした例はあるわけだ。
 それにしても、国府跡も僧寺跡も尼寺跡も、遺構はすべて発見されていないので、まだまだ謎ばかりである。 


【まとめにかえて】

 結論としては、何もレポートせずに終わりになってしまった。また、結果としてケチをつけたようなレポートになってしまったが、申し訳なく思っている。言い訳ではないが、このように謎が多い処ほど興味が湧くのは確かである。そういった点ではまた訪ねてみたいところである。

 これも、わからないことばかりの言い訳になりそうだが、武生は北国街道の要所として戦国時代から攻防をくりかえしてきた。とすれば、永年にわたり国分寺の法灯を守り続けることは困難で、歴史的事実すら明らかにすることができないほど焼き尽くされたことも、やむを得ないことではないかと思っている。
 知っているだけでも、1570年、織田信長が越前を攻め、朝倉義景を破っている。その13年後の1583年には、豊臣秀吉が賤ヶ岳の戦いにより、柴田勝家を滅ぼしている。そしてさらに、1600年関ヶ原の戦いの結果によって、本多富正が武生に入府となったのであろう。そのへんの地域史はよく分からないが、今後、何か新事実があかされることを期待しつつ、越前を閉じよう。
 そういえば私が訪ねた時には、街の目抜き通りに「本多富正入府400年祭」と書かれた提灯やら幟が立てられていて、さすが歴史の街を感じさせるものがあった。