播磨国分寺
僧 寺 跡
2002年8月15日訪問
創建は不明のようだが、当時の国の状況や環境等から考えて、早期に建てられたようだ。その後も不明であるが、「わが心の国分寺」によると「建武中興の時に、足利尊氏勢力によって兵火を受けたが、1348(貞和4)年には衰退しながら存在していた」と記してあった。さらに、1432(永享4)年の地震で大破したが修理、天正年間に焼失し慶長年間に再建、再び焼失し、1639(寛永16)年に城主松平忠明に菩提所となる建物が与えられた、とある。
兵火、地震、火災等と、かなり苦難の道のりを経てきたものである。とかく国分寺は“地震・雷・火事・武将(オヤジ)と台風”に弱いものであるし、これで壊滅した例はまことに多い。
まず、跡地の状況から説明したい。
播磨僧寺の東塔配置国分寺式伽藍の復元

僧寺の伽藍配置を示す模型が、上画像●のところにあった。石で造られているのもめずらしいことだが、まずこれで説明しよう。
画像の左端が切れているが、実際には伽藍および寺域のほとんどが史跡地として確保されており、「ふるさと歴史の広場」として整備されていることは嬉しい。ただし、寺域の北半分は、現存寺の境内となっていて、なかでも金堂跡に薬医門が、講堂跡に本堂が建てられているため、いちばん重要な部分の調査が実施されていないようだ。
築地塀の復原が、画像左角の画面から切れている部分に、南北におよそ30bほどある。後ほど画像で示そう。
@ 塔跡から現存寺本堂(講堂跡)の方角を見る

中国地方の国分寺のなかでは、堂塔の礎石が残されているところは少ないが、それでも塔礎石、とりわけ塔心礎は残されている確率はなぜか高い。
こうした例に漏れず播磨僧寺では、塔礎石だけが17個完全なかたちで残されていた。一辺のサイズが9.3bとなっているため、そこから推測すれば高さ60b前後の七重塔が建っていたのではないかと考えられている(ちなみに京都東寺の五重塔の高さは57b)。
そしてこの周囲からは、鬼板瓦や青銅製の飾金具(水煙)の断片が出土したという。画像は、初の試みである二枚の写真をつなぎ合わせた合成作品である。
A 中門跡の南から金堂・講堂跡の方角を見る

撮影位置は南門と中門の中間あたりで、手前の基壇が中門跡、現存寺山門が金堂跡、本堂が講堂跡ということになる。
B 金堂跡から中門・南門の方角を見る

中央の灯籠は、中門と金堂を結ぶ回廊内の金堂院中央に実際に置かれていた基壇が見つかっている。灯籠の復原は、韓国仏国寺の遺品と東大寺大仏殿前の金銅灯籠等を参考にして作製した。山陽本線の架線と新幹線の高架が見える。

築地塀の復原である。寺域の境界に築地塀の痕跡があったところから復原したわけだが、これがあったということは立派なものである。関東では上野(群馬町)国分寺が復原をしていた程度である。武蔵国分寺は“空溝”だけだったようだ。塀の切れ目から見えるのが、現存寺の本堂である。
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現 存 寺

金堂跡の上になる現存寺の勅使門
門脇の石二つは金堂の礎石だろうか…
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講堂跡の上になる現存寺の本堂
車排除のトリミングを試みたがダメだった
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現存寺の現在は、牛堂山国分寺と号し、宗旨は高野山真言宗となっている。
「1639(寛永16)年に城主松平忠明に菩提所」として再建されたということは、これらは当時の建物であるということだろうか…。説明板を見落としてしまったようだ。
尼 寺 跡
これまで、5回の発掘調査が行われており、中央部付近から講堂を囲む雨落溝金堂基壇の築土などとともに、毘沙門池の近くからは、東・北部築地基壇や井戸跡が検出された。寺域は東西約134b、南北約180bの規模が推定されている。多数出土した古瓦は、国分寺出土瓦と殆ど同じものだという。現在はまだ、あくまでも推定地ということであるらしいが、限りなく100%に近い推定地となっているようだ。
小さな跡地しか残されておらず、あたりは宅地化が進みつつあり少々不満だったが、下画像右手の黒い板状の石碑を読み、全国の国分二寺を史跡として残すための諸先輩方の並々ならぬ努力に、言葉が出なかった。

右画像のように、こんなに大きかった伽藍も、八畳敷き程度の土地に石碑だけとなってしまったことに、時代の悲哀を感じつつ、石碑に読みふけってしまった。
この八畳敷き程度の土地を残すだけに留まっても、発掘調査等も含め、保存のための民間人の働きかけは、諸先輩方の並々ならぬ努力があったことを改めて知った。
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ここに、黒い板状の石碑に書かれてある全文を紹介しよう。できれば、国分寺・尼寺のある自治体、とりわけ発掘調査や史跡としての整備が遅れているところの教育委員会にはぜひ読んでいただきたいものである。
播磨国分尼寺跡参考地碑由来記
昭和四十年頃、播磨国分寺跡は荒廃の極にあった。姫路市当局に再三その保護を訴えた結果、発掘調査されて徐々に保存へ向かうことになった。然し国分尼寺跡は、この御国野町に尼寺の前、尼寺の道尼寺が池等の地名と共に、礎石や古瓦などの出土による有力な推定地が、専門家に指摘されていながらまったく放置されていたので、この推定地の壊滅を防ぐため、以前に礎石の残存する土壇があったというこの場所に、国分尼寺跡参考地碑を立てておかれるよう、市当局に誓願すること数年、且つ費用の一部を寄進して、昭和46年建立されたのが隣設の参考地碑である。
その建碑について、播磨国分寺史跡保存会長故中島広蔵氏に、絶大な献身的協力を頂いたことは感激の極みである。また土地所有者久野房雄氏と母堂の故きくの刀自に建碑地の提供と礎石の返還、更に地元石材店主元山義一氏の多大な物質的協力等私の請願に大きなご援助を頂いた右各位に、心から深謝する次第である。
後日、もし尼寺跡が正式に解明されて地域に移動があった場合にも、この尼寺跡保護のために先駆した民間人の努力の跡が、全国の志ある方々へのはげみともなるよう、尼寺跡参考地碑並びにこの由来記碑の二基は、播磨国分尼寺跡保護の経緯を語る資料として、必ず共に遺跡の一隅に永久保存されることを念願するものである。
昭和54年(1979年)11月
諸国国分二寺跡保存発願者 東京都杉並区 岩永蓮代 記
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恥ずかしながら、私は岩永蓮代氏のお名前を、ここ播磨を訪れてはじめて知ることとなった。播磨ならずとも氏の活動は全国に及んでいるようである。ご著書もあるようだ。
ここであらためて、氏と関係者各位のご尽力に敬意を表したい。また、私も及ばずながらこうした方々の努力の跡を広めたり、さらなる協力をしていきたいと考えている。
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