常陸国分寺
僧寺跡
2000年5月
訪問
常陸の国は、平城京からつながる東海道の終着地点となる国だが、大国とされており、その寺料は最大であったようだ。それにしては復元模型を見るかぎり、何とシンプルな伽藍ではある。中門から金堂に回廊が配置され、北への中心線に金堂、講堂が列び、七重塔が東に位置する国分寺型の伽藍となっている。
ただし特徴的なことは、七重塔がはるか東に離れていることである。同じく東に離れている僧寺には武蔵国分寺があって、何となく関連性が頭をよぎってしまう。
僧寺の創建については記録がなく不明だが、100年
ほど後には存在した記録が残されており、その頃が最盛期であったともいえる。平安中期の939(天慶2)年、平将門の乱により常陸国府は焼かれ、国分寺も被害にあったという。そして1590(天正18)年、「佐竹氏と大掾氏との合戦による兵火により、悉く堂塔は鳥有に帰した」と記録にあり、常陸国分寺衰退の決定的なトドメとなったのではないかと考えられる。

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現存寺が、どのような経過をもって建てられたのかについては、国分寺跡の入口にある
「国分寺の由来」でもこの部分が飛ばされいて、今のところ不明である。もう一度石岡に行かなければ…。
上画像の僧寺模型と左の僧寺伽藍配置と現況の画像を見比べると、中門・金堂・講堂の西半分だけが現存寺の境内として残ったことがわかる。七重の塔などは、画像から外れたはるか右手の方であることが理解できるだろうか。
寺域を含めれば、僅か4分の1程度しか残っていないのは、やはり石岡の街のなかにあっては、この広大な寺域は守られにくく、現存寺の境内により、僅かではあるが守られたのではないかと感じられる。
黄色い▲と画像の数字に従って現況を見てほしい。
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連休初日でもあり、常磐自動車道下り線の混雑を考えて、家をかなり早朝に出たので、8時過ぎには石岡に着いてしまった。道路地図を見ながら迷いつつ、やっと辿り着いたのだ。
石岡は霞ヶ浦の北端に位置しており、南側には霞ヶ浦に流れ込む恋瀬川一帯の田園地帯から少し登った台地にあり、条件が整っている“好地”にあった。
境内にはまだ人影はなく、下画像からはすがすがしい早朝の雰囲気が出た画像となった。
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@中門跡は現存寺入り口
右手の大きな石柱が「常陸国分寺跡」を示した石碑で、左手の小さな方が「中門跡」を示した石碑だったように記憶している。
画像正面、桜の枝の奥にかすかに薬師堂が見えているが、その位置が「金堂跡」になるようだ。
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A講堂跡には本堂が
中門跡から金堂跡の距離を確かめつつ、金堂跡である薬師堂の裏手をさらに進むと、本堂が建てられていた。そこが「講堂跡」になるわけだ。
僧寺建物の一部と回廊跡の東半分の土地は失われ、民家になっているので、西半分の境内で、辛うじてその広さを想像できた。
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石岡市役所の国分寺に関するページ
http://www.net-ibaraki.ne.jp/ishioka/50_history/rk_kokubu.htm
現存寺
現存寺について、いつ頃どのようにして再建されたのかということを十分調べてこなかった。少なくとも関ヶ原の戦いになる10年前の1590(天正18)年に焼き払われてから、再建までの空白を調べてみる必要がある。
そんな現存寺は、浄瑠璃山国分寺と称し、真義真言宗として法灯を再び灯している。
B 東の塔跡から運んだ塔心礎石 左奥が現存寺の山門

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C 山門を入ると書院だろうか立派なものだ

尼 寺 跡

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碑には「常陸国分尼寺法華滅罪之寺跡」とある(画像)。
現存寺の北西に
600b、府中小学校の裏手にあった。尼寺跡は僧寺跡に比べ、みごとに伽藍が保存されていた。
遺跡の保存状態が良好なことから、僧・尼寺跡と共に国指定特別史跡を受けている。双方の指定は、全国でも遠江(静岡県磐田市)と讃岐(香川県綾歌郡国分寺町)、そして常陸の3ケ所だけであるという。※
むこうの桜の木は、右が中門跡、左が金堂跡になる。 |
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南東の角から尼寺跡を撮ったものだが、コンクリートの部分が回廊の隅になっている。コンクリートを左に辿ると、画像外に中門跡がある。
また、中央の桜の木は金堂跡で、基壇が築かれているのがわかる。
府中小の校舎の階上から撮れば、一目瞭然のすばらしい画像が撮れるのだが…。 |
※ 遠江について“僧寺跡・尼寺跡双方が国指定の特別史跡”とあるが、遠江の尼寺跡には住宅地が建ち並び、確かな位置すらつかめながった状態であったので、この記載はおかしいと思う。今後調べて、確かな結論を出したい。
下画像は、三河国分尼寺の復元模型だが、中門の回廊が講堂につながっている点で、常陸尼寺の伽藍配置と同じかたちであるので載せてみた。下の石岡市役所のホームページでは、小学校の階上から撮った画像が載っているので参照してほしい。
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石岡市役所のホームページに府中小から撮った画像があった
http://www.net-ibaraki.ne.jp/ishioka50_history/rk_niji.htm
国 府 跡
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僧寺跡から南東に600b
のところに、市民会館や石岡小学校などの公共の施設がかたまって建てられている一角がある。その、市民会館の裏手で、小学校の敷地の中に、常陸国府跡を示す石碑があった(画像)。
この碑の脇には、小さな歴史資料館があったのだが、閉館日のために、残念ながら見学することはできなかった。画像左側の建物だったように記憶している。 |
石岡に国内最大級の役所跡
東京新聞の記事から
石岡小学校の敷地内には、常陸国府の国衙跡を示す石碑が建てられている(上画像)。最近の調査で判明したことだが、国内最大級の役所の建物跡が発見された。
発掘調査は石岡小学校の校庭で行われ、体育館の脇からは掘っ建て柱建物跡が見つかった。発見されたのは四つの掘っ建て柱の建物跡で、なかでも一番大きい建物からは、東西幅は
24b 以上、南北の奥行き11bだったという。西端は小学校体育館の渡り廊下のために調査できないが、おそらく西に9b広がることが考えられている。
この大きさは、九州太宰府の国庁跡をしのぐ大きさであり、国内最大級になるという。当時の常陸国の国力がうかがい知ることができる。
また行ってみたいが、もう保存と現況復帰のため埋めてしまっていることだろう。
(2002.3.7記)
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