肥前国分寺

僧寺跡

2000年3月30日 訪問

 創建は不明だが、少なくとも744(天平16)年に壱岐嶋分寺料を、ここの国分寺と分ける記録があることと、756(天平勝宝8)年、筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向等、26国の国分寺に「仏事荘厳具の下賜」がなされ、このころまでに僧寺の主要な建物が完成していたものと考えられている。
 その後 700年間は空白で不明である。
 1467(応仁元)年に応仁の乱がはじまり、その勢いは地方戦にまで飛び火し、幕府が九州大名に大内氏攻撃を呼びかけたようで、その兵火を受け1470(文明2)年に焼失したらしい。
 またまた、その後400年間は不明である。江戸の寛文年間に一時再興された後、1894(明治27)年に下画像の薬師堂が建立されたが、今日では廃寺のようになってしまった。(「わが心の国分寺」より一部引用)

看板に示された伽藍配置

 看板と金堂跡の位置にある薬師堂の廃寺らしきものだけが“国分寺跡”を感じさせていた。

 中央の電柱にベニヤ板が張られ「私有地につき無断駐車禁止…」の文字。その後ろに、古いお墓が並び 左側には円筒形をした僧の墓らしきものや、礎石に使ったであろうと思われる 大きな石も写っている。

 

 廃屋右の竹藪から、僧寺の瓦らしきものを見つけた。(写真右手のひら)布目の裏面模様と赤褐色は、国分寺創建当時の共通の特徴でもある。左の鐙瓦は肥前国府跡から出土のもので、それも他国の資料館にあった。

  出土品を展示する資料館がないか、あるいは出土品自体がないのか。でも、僧寺跡が 民家と私有地でズタズタになっていて、住人の話では「時々、尋ねられるとよ、 あそこの家を建てたときに色々出てきとるよ」との話だ。 国分寺跡を訪ね歩いて、暗い気持ちになったのは初めてだった。



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