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伊勢国分寺

僧寺跡

2000年12月26日 訪問

 国道の東海道から南東にそれて、小道を進むと右奥に立派な鈴鹿市考古博物館が見えてくる。とにかく情報得るために、まずはそこに入って見学することにした。
 ところが、伽藍配置を示す展示や建物を復元した模型すらもないので、学芸員の方に聞いてみた。すると、伽藍配置はこれまでの発掘調査の結果、寺域と金堂・講堂の位置だけが、ようやく把握できるに至ったことを教えていただいた。
 しかし、まだ塔跡が発見されていないという。塔跡ならば、中門と金堂の東側あたりを掘ってみれば…などと、しろうでそう考えてしまうのだが、これからの楽しみとしておこう。
 ということで、発掘調査も館内の展示物も、これからの楽しみということになった。考えてみればこれまで「復元模型はあって当然」と思っていたのだが、まだまだわからないことがあるということを改めて知らされた。
 「わが心の国分寺」によると、創建は比較的早くに完成したようだ。宝亀5(774)年には暴風雨のために塔が倒壊したので、比較的短命だったらしい。 大同年間に、財力が乏しかった志摩国分二寺を吸収合併したようである。
 また、『江戸期の三国地志』によると「国分村南に方三百歩ばかり荒曠の地に礎石が散乱する」とあり、跡地が荒れるにまかせ、考古の目にとまる日を待っていたようである。
 それにしても、鈴鹿山脈を見晴るかす台地の畑の中に、ぽつんと址地を示す石碑が立てられていた風景は、どこかで見たような気がした。そうだ、中学時代に自転車で訪れた武蔵国分寺の風景を思い出していたのだ。
 写真を撮りながら寺域らしき周囲の畑地を歩いてみたが、瓦の破片らしきものが足下からいくつも見つけることができ、僧寺跡であることが私にも実感できた。整備されている寺跡もいいが、これもまた風情があると感じた。

 再び跡地を示す石碑越しに今度は考古博物館を眺めてみた。そしてよく考えてみた。発掘調査の進行からいえばまだこれからなのに、立派な博物館が先にあるわけで、こういうパターンもあるのか…と思った。これもまた力強いことで「中身はこれから集めるぞ!」という意気込みが感じられてくる。
  国分寺跡は畑地のままでも良いから、伽藍の復元模型を博物館に陳列できる時が早く来ればよいと思う。学芸員の方に尼寺跡の位置を教えてもらって、そこを訪ねることにした。

鈴鹿市考古博物館のホームページ
http://www.city.suzuka.mie.jp/iseki/

 尼寺跡は、集落の中にあるという。その中に、かつては浄土宗の常慶山国分寺の本堂であった建物が画像のように残されていた。今では、地域の集会場として利用されている様子だった。それでも、梵鐘までも残されている。
 集落の中をかなり歩き回ってみたが、それらしき表示も見つからなかった。このような集落になっていては、発掘調査は無理であろうと考えた。それでも、それらしい位置の畑から赤レンガ色をして裏面に布目模様がある瓦の破片を見つけることができた。


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