石見国分寺                                                          

尼寺跡と現存寺跡

2002年8月17日訪問

 およそ国分寺を巡るなかで「尼寺跡と現存寺跡」などという理解に苦しむような題をつけたことは、これまでをとおし石見がはじめてではないかと思う。まずは、このややこしい題をつけなければならなかった経緯を説明してみよう。

 もともと、ここは“創建の尼寺”が建てられていた場所だったのだ。これが時代の流れのなかで、いつしか“尼寺跡”となったわけだが、そこに“再建の国分寺”が建てられたのが、1835(天保5)年のことであったという。これにより、尼寺を改め“国分寺”とし、寺号を東光山国分寺と称する曹洞宗のお寺となったのである。
 そして現代に至って、現存寺としてのこの“東光山国分寺”は、いつの頃か無住になり、そして廃寺になってしまったわけである。


石碑の前に駐車させて平気なのも住民の意識なのだろうか

 現在では、ここに「尼所」、「比丘尼所」という地名が残っているのも、尼寺跡であったことを証明しているようだ。
 ところで看板には「このお堂の土台には、尼寺の礎石を割って使った」と書いてある。とすると、このお堂そのものが、1835年に建てられたものであるかもしれない。今からおよそ170年前であるからあり得る話だが、それをこのように荒れるがままに朽ち果てさせいしまって良いのだろうか。県指定の史跡になっているのだが…。
 画像右の白い看板には尼寺跡の説明、左の石には「石見国分寺」の文字がある。
 とにかくこの現状はひどいものだ。私は現地で、とりあえずはこの状態を画像に収め、ホームページで全国に発信することが大切かもしれない…、という意識が働いた瞬間でもあった。
 白い看板には島根県教育委員会と浜田市教育委員会の二つの名が入っていたが、どうかこのページを見てほしい。いや、他国のページと見比べてほしい。それも、なるべく東国のを見てほしいと願っている。また、このページを見た方は、教育委員会にぜひ知らせてほしい。


左手前の棒状の石は お坊さん(僧)の墓

 ちょっとどなたかの家のお墓に入らせていただいたて、南から本堂を撮ってみた。敷地としては、もう少し画像左(西)に土地はあったが、これだけの広さしかなかった。
 つまるところ創建尼寺は、この平面の中にあったわけだが、どう考えても南門・中門・金堂・講堂などの“一人前の”伽藍はとうてい建てられるはずはなかったであろう。したがって創建尼寺は、おそらく“日本一小さな尼寺”だったかもしれない。

 西側のサツマイモ畑から撮ってみた。畑と廃屋の間は瓦礫で、コンクリートやブロックの破片とともに、現存寺の瓦が大量に散らばっていた。ところがよく見ると、破片の裏が布目になっている土器レベルの瓦も結構拾い上げて確認することができた。これは何としても残さねばならないと思う。早急な土地の確保と、廃屋の保存を訴えたい。

僧 寺 跡

 “西玄”開祖の金蔵寺は、尼寺跡の“現存寺跡”に比べ立派なお寺である。その山門の左傍らに「石見国分寺跡」を示す石碑があった。また、左背後になるがこの僧寺跡の説明板があり、辛うじてこれらの経緯を知ることができた。
 また、寺の南側には幼稚園があり、下の山門の画像はその幼稚園の園庭に入らせていただいて撮ったものだ。したがって、その園の敷地も僧寺伽藍の一部ではないかと思う。ただし、門前の道を20b程行くと二つ下画像の塔跡になるので、たとえ園庭にあったとしても、門の類になるのではないかと思う。


僧寺跡に建てられた金蔵寺(浄土真宗)  


「石見国分寺跡」と記された石碑


金蔵寺の東南の角になるところに瓦礫の山が…
礎石も二つ見えているが やはり塔跡だった

 すでに大正時代には国の史跡指定を受けていたが、昭和60年になって発掘調査を実施した。
 これにより僧寺跡
(左画像)からは、塔の一部分から多量の瓦とともに"銅造誕生釈迦仏立像"(下画像)が出土し注目を集めた。
 この像は、姿形の造形優れ鍍金されていた可能性もあるという。また、様式からみると、国分寺が建立される以前の 600年代後半の作ではないかという。
 また、北側・西側から專を用いた基壇が確認され、一辺が12〜14bあったようだ。
 瓦は伯耆国分寺と同類の物や新羅系の物などが出土した。

    瓦窯跡がこの奥にある 登ってみたが
  草が生い茂っていて階段より先に進めなかった


銅造誕生釈迦仏立像と人形の躰部分が
発掘調査により出土し注目を集めた 



[PR]何かを探す前に無料占い:当たる!無料占い『スピリチュアルの館』