伊予国分寺

僧 寺 跡

2001年12月28日訪問

 ご覧のとおり、僧寺跡には塔跡しか残されておらず、それも、わずか90uの土地に13個の礎石が転がっていた。基壇はすでに失われ「国指定史跡」とされているものの、名ばかりで礎石のいくつかは創建当時の位置にはないようであった。もちろん、伽藍配置は不明である。
 表示板を読めば、高さ60bの七重の塔で、礎石の間隔からすると17.4b四方の広さとなる。ことによると最大の塔を持つ上野国分寺の次か、違っていても屈指の大きさになることは確かだ(下画像)。

 礎石のなかには、繰形突起がみごとに彫られているものも複数あり、当時の技術の高さが推測できる。こんなに貴重なものが、無造作にされていることに、何ともやりきれない思いである。


現 存 寺

現存寺の本堂

 四国八十八カ所第五十九番札所となる現存寺は、金光山伊予国分寺と称し、真言律宗である。
 前述の塔跡のすぐ西側の高台の上にあり、お札からもわかるが本尊は薬師如来である。
 ここでも、お遍路さんに出逢わなかった。

創建からのこと

 沿革については「わが心の国分寺」からの参照にたよるしかないようである。
 これによると「756(天平勝宝8)年の道場具の領下の詔に」その存在を示す記録があるので、その頃には完成していたという。「開基は行基菩薩と伝えられ、その後、弘法大師が留錫して五大尊明王大像を残した」と書かれてある。
 平安期に入ってからは、藤原純友の乱、そして源平合戦の兵火、さらには長曽我部元親の侵攻と続き、再建してはその度ごとに戦乱に巻き込まれ焼失したようである。これでは跡地がズタズタになるのも理解できる。悲運な国分寺の一つだろう。


御朱印

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四国第五十九番札所札

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 話題は変わるが、長曽我部元親さんは結局のところ、土佐国分寺以外の、阿波、讃岐、伊予の四国三ヶ寺の国分寺を焼き尽くしたことになる。東国での国分寺火付け魔は平将門であったが、西国の火付け魔は長曽我部元親ということになるだろう。
 その後の記録は 300年ほど空白だが、1789(寛政元)年に現在の位置に再建したのが、恵光上人であるという。
 それにしても、話題は長曽我部元親に戻るが、四国制圧は果たしたものの、秀吉に敗北し領地は土佐だけに狭められ、ついで関ヶ原では西軍に方し没落した。考えてみれば気の毒な運命である。

「四国八十八カ所・四国別格二十霊場巡礼の旅へ」にリンク
第五十九番 伊予国分寺


尼 寺(?)

 予讃線の伊予桜井駅から今治方向へ700bほど行くと桜井小学校があるが、そこから古瓦が出土しているようだ。そこが尼寺跡の“可能性”があるという程度で、実際のところはよくわかっていないらしい。
 すぐ脇の踏切を渡ると、高台の中腹に法華寺があった。詔によって発せられた国分尼寺との関連は定かではないが、少なくとも何らかの因縁はあるだろう。
 画像は、法華寺の薬師堂である。



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