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伊豆国分寺

僧寺跡と現存寺

2001年1月 3日 訪問

 この三島の街は、古くからは国府として、また東海道の宿場町として絶えることなく栄えたために、僧寺・尼寺ともに詔にある「必ず好所を選んで」にある好所が、結果的には町中へと遷り変わり、発掘調査が難しい状態になったようだ。
 それでも昭和31年に調査が行われ、南門から中門・金堂・講堂の配置が確認された。そして、その年に幸い残された塔跡だけだが、国の史跡として指定されるに至ったようである。その塔跡は現存する国分寺の本堂裏手に、七重塔の礎石(推定17個)のうち8個を残しており、往時を偲ぶ唯一の手がかりとなっている。
 その塔跡の礎石は、4つずつ2列に並び、これが北半分となるらしいというのだから、南側(左側)にさらに2列つくことになるので、かなり大きな塔だと思われる。それにしても、大きな礎石群だが塔心礎石がなかった。史跡表示の石柱には「伊豆国分寺塔址」と記してあった。


現存寺本堂裏に並ぶ伊豆国分寺跡の七重塔礎石とこれを示す石碑

 伊豆の国府は、国分僧寺跡から東に1q足らずの所にある三島大社の近くであることが分かっているようだ。僧寺の創建は不明だが「わが心の国分寺」によると、「平安末期には真言宗の寺院としてかなりの規模を持ち、門前の左右に塔頭寺院がならんでいた」とある。また、天文年間(1532〜1554)の後に北条氏と武田氏の合戦で火災にあったというのだから、1569(永禄12)年に武田信玄が相模小田原城を攻めた時のことをさしているのではないかと思われる。
 そして、三島代官の井出正次が1600(慶長5)年というから、まさに関ヶ原の合戦のその年に寺を再興し、宗旨を法華宗に変えて蓮行寺と称し、大正12年に宗旨の名称を日蓮宗と変え、昭和29年に伊豆国分寺となったようである。


伽藍配置を示す表示
往古の伊豆國分寺大観(本堂の縁の下にあった)


伊豆国分寺本堂

 僧寺跡周辺の適当な地図が示せないので残念だが、この塔跡が伽藍配置図の塔と 一致するならば、下画像の現存国分寺本堂は、伽藍図塔位置のもう一つ南の升目あたりで、山門は伽藍配置画像の縁になる。
 となれば伊豆箱根鉄道が北西から南東へと中門と金堂跡の間を突き抜けるわけで、信濃国分寺跡の例と同じである。


伊豆国分寺本堂

 現存寺は、最勝山伊豆国分寺と号し、宗旨は日蓮宗となっている。
 「最勝山」という山号はひょっとして国分寺二寺建立の根拠にもなった金光明最勝王経の“最勝”だろうか。
 本堂の扉を開けて、お賽銭を投げ入れ礼拝をしたのだが、誰かいる様子もなく、御朱印ももらえず話も聞けず引き上げてきた。近だからまた立ち寄れる機会もあろう。

尼寺の名残なのか法華寺

 伊豆国分尼寺は古文書によれば、たしかにあったようである。しかし、836(承和3)年、創建当時の尼寺は焼け、創建の伽藍も詔によってすぐに建っていたとしても、わずか100 年も経たずして失ったことになろう。
 その後、尼寺は大興寺に移されたようだが、その大興寺は白鳳時代に建立されたものであったようだが、尼寺の間借りが縁で、今日の法華寺となったようである。

 この法華寺は、源頼朝と関係の深い寺で、境内には頼朝の腰掛け石、経塚などが、現在でも残されている。また経塚趾には、地蔵尊が安置されている。頼朝がいつ頃この寺に参詣したか記録は不明だが、三島によく往来した頼朝は、源氏の旗上げ成就をこの寺に祈願して、写経を奉納したものと思われる。



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