加賀国分寺
現存寺と僧寺跡らしい所
2001年8月21日訪問
これまでも「越前、越中、越後という具合に並んでしかるべきなのに、どうして“加賀”がその間に入っているのか」と考えたこともあった。その疑問が、実際に行って見て、資料館で調べてようやくわかった。
そもそも、加賀の国は 823(弘仁14)年、越前国から分国したのである。そのため遅ればせながら、841(承和8)年に勝興寺をもって国分寺としたようだ。まさに聖武天皇の“国分寺建立の詔”が発せられてから100年も経過した後のことで、我が国では最後に建立された“国分寺”であったようである。
さて、その草創“国分寺”が、ここ小松市内にあったかどうかも定かでないわけだが、行ってみなければ何も分からない。地図を見ると、小松市内から西に7qほど行くと田園地帯のなかに古府という集落がある。そこに「国分寺」と記載されていたので、これはやはり当然行ってみる価値はあると考えた。頼るのは、その「国分寺」だけである。
着いてみて驚いた。「こんなに明るい国分寺があるか」と、もう一度地図を見なおしてしまった。確認してから車を降りて玄関に入り声をかけてみた。丁寧にお寺の奥様が応対して下さった。

そもそもこの新しい国分寺は、小松市内にあるお寺の別院としてあったそうだが、そこから独立するについて村の檀家さんたちとも相談したところ“古府”の地名にふさわしい“国分寺”にしたら…、ということでこの寺号を戴いたそうである。考えてみれば、全国に現存する寺のなかでも廃絶から再建された寺の多くは、時代の違いこそあれほとんど同じような経緯を辿っているものであろう。
拝見すると、本堂の中はとても広く法事や集会もできるほどで、移動式黒板があり、夏休み中だったので午前中は村の子供たちが勉強しに来ていたそうで、まさに寺子屋になっている。このようにしっかりと地域に根付いている様子から、「国分寺」の寺号もふさわしいではないかと感じた。現存寺の宗旨は、浄土真宗大谷派となっている。
十九堂山から出土した五輪塔
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奥様が案内して下さったのは、もう30年以上も前の話になるそうだが、十九堂山(じゅくどうやま)を開墾したときに出土して、村の人が持って来た五輪の塔の類である。
これが裏庭の奥の隅に9基ほど並べられていた。
十九堂山からは、これ以外にも瓦や土器などが出土したそうである。もしかしたら僧寺跡の可能性もある所なので「あの頃わかっていれば…」と外出から戻られたご住職が、残念そうに語って下さった。 |
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すっかり開墾された十九堂山

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話の後、ご住職が十九堂山を案内して下さった。
画像に写ってないが、左側の画面外には人家が数件並び、右外側には墓地が並んでいた。畑は開墾する以前、小高い山があり、そこから瓦や土器などが大量に出土し、それらは今、歴史資料館にあるという。
私も、開墾する前に発掘調査がされていれば…、と思った。考えれば1200年もの長い歴史の中で、わずか30年というタッチの差で、歴史を明らかにできなかった無念を感じてしまう。 |
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石部神社と案内して下さったご住職

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つぎに、十九堂山国分寺(仮称)の礎石らしい石があるというので、石部(いそべ)神社に案内して下さった。
台風11号が近づき、その影響による雨の中をわざわざ車から降りて一緒に歩いて下さった。
十九堂山から直線距離にして400b
程だろうか、同じ小松市街の縁に位置し小高い丘の端にあった。梯(かけはし)川と、その支流に囲まれた古府の集落と十九堂山、そして、石部神社はたしかに“国府”や“国分寺”があっても不自然ではない地形と環境である。 |
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石畳まで苔むした神社の本殿

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「昔は海岸がこの近くまであって、その向こうは海だったんですよ…」と、小松市街と両側に広がる平野を指してご住職が説明してくれた。
大きな鳥居を潜り階段を昇ると、何とも霊気が漂うような社の本殿があった。
“国分寺の礎石”と伝えられる石は、これまで見た礎石の中でも、かなり小さい方で、本当かは疑わしくも思った。しかし「勝興寺を国分寺とした」ことでもあり、可能性もあるとも考えられた。いずれにせよ、この社に大切に保管された石てもあり、由来があることは確かだ。 |
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国分寺の礎石と伝えられている石

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加賀国分寺については、結局何もわからず終わったが、新しい国分寺の住職さんから丁寧な説明をいただいたことは嬉しかった。
帰りに市役所の側にある歴史資料館に立ち寄った。しかし、国分寺そのものの記述については、新た情報は何もなかったが、加賀の国の変遷について知ることができた。
こうした経過から、尼寺にについてもまったく触れられる状態にはなかった。 |
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