甲斐国分寺  <いきなり余談>

「甲府」の名は?

 はじめから余談になるが、“甲府”の地名を考えていてみた。
 池波正太郎の 「真田太平記」 には “古府中” という地名で書かれていた。 すなわち、「古府中(こふちゅう)」 の 「中」 が省かれて 「古府(こふ)」 から 「こうふ」 になったのかと、まず発音からのルーツを思いついた。
 漢字からのルーツも考えた。 すなわち “甲斐” の “府中”であることから、「甲斐府中(かいふちゅう)」を省略して、 「甲府」 になったという考え方なのだが。 どちらなのか、考えると気になってしまう。本当はどうなんでしょうね。
 ただし天平時代の国庁は、春日居町の国府か御坂町の国衙のあたりだったらしく、そのどちらかわかっていないようだ。 とすると、「古府中」と書かれている現在の甲府駅周辺が栄え始めたのは、武田信玄が勢力を張るようになってからのようである。


僧寺跡 と 現存寺

2000年1月  訪問
2001年5月  訪問

 さて、それでは僧寺の歴史から入ろう。…とは言っても創建は不明である。
 1255(建長7)年に、兵火あるいは失火により消滅したとある。すなわち500年間は存続していたとすれば、かなり永く続いた方である。もう少し何らかの記録が残っていてもいいものだが…。
 そしていきなり永禄年間(1558〜1569)に、武田信玄によって再建されたことになるわけで、この間およそ300年間は、またもや空白である。
 それにしても武田信玄は、駿河の今川義元の居城を攻めたときに市街地に火を放ち、駿河国分寺を焼いているわけで、その一方で自分の国の国分寺はちゃっかり再建しているのである。聖武天皇があの世で聞いたら何と思うか…。でも、信玄ばかりではなようで、源頼朝も陸奥国分寺を焼いて信濃国分寺で三重塔を寄進したり、新田義貞は焼いた武蔵国分寺に薬師堂を寄進したなど、戦人
(いくさびと)はしょうがないのかも…。

 現存寺の寺号は、護国山国分寺と称し、宗旨は臨済宗妙心寺派である。現存国分寺の宗派としては数少なく、あの空也上人を排出した尾張国分寺と併せて二寺、 壱岐(大徳寺派)を入れても三寺だけとなっている。
 信玄によって再建された国分寺がこの宗旨であることは、そもそも信玄の菩提寺であり彼の墓もある塩山の恵林寺
(えりんじ)との関係によるものだと思われるが、甲府盆地一帯では臨済宗妙心寺派の寺をよく見かける。


現況と伽藍配置の位置関係

 

 僧寺跡は、中門と金堂を回廊が結び、そのなかに東塔を配する大官大寺式伽藍配置である。

 それにしても一帯は、御坂山地の谷間から流出した土砂による扇状地になっていて、国分寺にはめずらく、いゆるい北西斜面となっている。
 したがって、南門から南に伸びる道はあったとしても利用されず消えて、北に通ずる道の方が大いに利用されたことが推察できる。また斜面のために、東西南北すべて水平な回廊になっていたかは、少々疑問を感じている。

 @ 南門を入った位置から
 A 中門らしき位置から
 B 中門の礎石と思われる
 C 塔跡から西をみる
 D 塔心礎石から現存寺をみる
 E 薬師堂西側からの鐘楼門
 F 講堂跡にある礎石
 D 塔心礎石から現存寺をみる
 E 薬師堂西側からの鐘楼門
 F 講堂跡にある礎石

@ 南門跡を背中に中門跡を見る

 撮影をした時は、私は手前の道路か、あるいは左右にある石碑あたりが南門であろうと思い込んでいた。ところが、上の画像で参照している地図と伽藍配置を示したものを見て違うことがわかった。南門跡は左画像の背後になるのだ。その広さにあらためて驚かされている。

 鐘楼門手前の小さな石碑が2本立っているあたりが中門、そして鐘楼門の後ろの影、一番高い杉の木二本あたりが金堂になる。

A 中門らしき位置から(季節は冬)

  関東ではとくにめずらしい鐘楼門は、1750(寛延3)年に建てられたものであるという。
 Aを撮影した時は2000年1月で、門柱のような両脇の石柱は、植え込みがあって見えなかった。
 ところが、2001年5月に行ったときには、植え込みは刈られて
Bのとおりになっていた。
 金堂跡は、鐘楼門をとおし小さな薬師堂の屋根が見えるが、その位置にある。

B 中門の礎石と思われる(五月雨)

 手前の石はとくに説明はなか、中門の礎石ではないかと思われる位置にあった。雨のため鐘楼門の右に、水滴が写ってしまった。

 僧寺跡の周囲は、扇状地の斜面でぶどうの畑の中にある。国庁は春日居町の国府か御坂町の国衙という地名で二ヶ所あり、笛吹川の氾濫で移転したらしい。
 周囲には6〜7世紀の古墳が多く点在しており、また甲府盆地を見下ろせるまさに“好地”だ。

C 塔跡から西をみる

 七重塔跡の礎石群はみごとに残っていた。中央に写っている、穴のあいた大きな石が塔心礎石である。

 中門と金堂を結ぶ回廊は、おそらく正面に写っている低い木立あたりまで広がっていたように考えられる。

D 塔心礎石から現存寺をみる

 とくに塔心礎石はみごとなものだった。中心部分には、塔心柱を食い込ませる穴と、柱を置くとみられる1pたらずの段の円形が丁寧に彫られているが、画像から判断できるだろうか。柱の大きさはこれから割り出すとすれば、直径1b少々はあったように思える。

 左の石柱は 塔跡を示すもの。木立越しにある屋根は、鐘楼門奥の薬師堂の東隣に建つ本堂。

E 薬師堂西側からの鐘楼門

 これを撮影したのは冬だったので、朝霜が降りていた。何とも風情のある光景なので「甲斐の山々〜」と、思わず武田節が出てきそうな風情だ。

 そういえば、右側に少しだけ写っているお墓には「武田」と書いてあったけれど、もしかしたらあの信玄さんの親戚のお墓かも…。
 左の薬師堂が金堂跡の位置にあり、その大きさから考えれば、私が撮影している位置も金堂の位置にあるのではないかと思う。

F 講堂跡にある礎石

 薬師堂、本堂の裏手は墓地になっているが、そのなかから講堂跡の礎石をみつけた。

 それらしいものだけでも7〜8個はあったように思える。画像にあるように大きいものは、埋め込んだままになっていたが、小さくて軽いような礎石は覆され、移動してしまったように思えた。


尼寺跡

 尼寺跡は、僧寺跡から北に490bの場所にある。礎石や基壇はよく整備されているが、伽藍や寺域を把握できるほど跡地が確保されてはいなかった。

 それに、北斜面になるので金堂跡より2bほど低く講堂跡があるわけで、何となく変な感じがした。ふつうはなだらかな南斜面が多いが、これほどの北斜面は、おそらくここだけかもしれない。

 金堂跡を西から眺めたところ。そのむこうはぶどう畑になっている。

 それにしても甲斐僧寺・尼寺は、ともに歴史上の話題が少なく、強いて言えば武田信玄が再建したこと程度であり、甲斐のレポート作成には苦労した。歴史資料館でもあれば、また話題が少しは広がったと思うのだが…。