<いきなり余談>

平城京に近いのは 上総? 下総?

  いきなり余談になって恐縮だが「上総と下総という名称は逆ではないのか…」と、難問をぶつけられたことがあった。そこで、じっくりと月日をかけて考えてみたわけだ。
 ところで、律令時代の街道沿いに国名を見ていくと、上野・下野、筑前・筑後など“上”とか“前”のつく国が平城京に近くなっているわけだが、言われるとおり下総と上総は、私にも逆に思えたのである。

 
というのも、今日の常識で考えるならば、東海道新幹線の終点である東京駅乗り換えで総武線で千葉方面へというのが通常だろう。
 しかし、昔の陸路には車がないので、相模の湊から船で東京湾を横断するならば、上総へは武蔵・下総よりも早く到着すると考えたのだ。今でいう川崎から市川(下総国府)あたりまでの京浜・京葉の地帯は河口と湿地帯ばかりであったと思われるので、むしろ陸路よりも海路の方が容易であったのではないだろうか。

 
だから「上総」かな?と考えた。でも正解かどうかは、いささか自信がないのだが…。

 その後、市原市の蔦さんからの指摘で、以下のことがわかった。
<東海道における古上総路は、まず相模国に入り、三浦半島の走水から浦賀水道を渡り、天羽(上総湊付近)へ上陸し、駅馬を置いた地名である天羽、嶋穴、大前(市原市大厩)を経て下総国へ至る経路であった。>
とのことを教えていただいた。やはり、わが当て推量も間違っていなかったようでうれしい。


上総国分寺

僧寺跡

2000年3月28日訪問
2000年5月 ?日再訪

 この上総の国位は「大国」で、温暖・肥沃な地だからこそ戴けた位だったようだ。また、上総僧寺は全国の中でも規模が大きい方であるにもかかわらず、残念ながら僧寺創建の記録がないという。少なくとも、746(天平18)年、日本へ渡来し聖武天皇に信任の厚かった、百済王敬福といういわゆる“キャリア組”を国司として派遣した頃には、寺はすでに造営中だっらしいというから、成績は優秀ということになるだろう。
 940(天慶3)年、「平将門の乱で焼失したが、1129(太治4)年頃までは何らかの活動はしていたらしい」とある。「その後の運命は一切不明で、僅かに遺跡を残し、現国分寺が法燈を守って今日に至っている。」ということで、史跡保存は進んでいる方だがほとんどわかっていないらしい。
(参考:「わが心の国分寺」)
 それにしても、ここでも国分寺に火を付けた人として、またもや平将門の名前が挙げられている。

 伽藍配置がよくわかる適当な写真がないので、北から撮った写真を示すことになってしまったが、これを頭に入れておこう。

 南が上になるので南大門、中門、金堂、講堂、僧坊が縦一直線に列んでいるが、なぜか講堂が斜めを向いている。東に位置する塔が中門と金堂を結ぶ回廊の中にあるので、大官大寺式伽藍配置という。

 東西195b、南北220bの寺域を持つが、現存寺の境内は金堂跡から僧坊跡の間ほどで、講堂跡に現存本堂が建っている程度のものだから、いかに大伽藍だったかがわかる。現存寺の境内すべてを含み、南大門から伸びる塀の内側、すなわち伽藍の土地はほとんど史跡として確保しているようだった。上の画像の、▼跡地写真位置から撮ったものが、下の野原の画像である。

 のどかな光景ではある。塔跡以外には伽藍を示す礎石がないので、このように示す以外ないようだ。
 さて、南大門跡は自分が撮っている位置のようである。中門跡は野原にある一本の木立の下あたりで、金堂は南大門・中門の延長線上の森の中に位置を示す表示があり、塔跡は塔基壇跡が地膨れとなって塔心礎石が残されていた。


上総僧寺塔復元模型


真横から見た塔心礎石 背景は金堂跡の現存寺方向


どちらかというと少数派になるデベソ型塔心礎

 これだけ跡地の確保がすすめめられていることに喜びつつも、塔心以外の礎石を見つけることができなかったことは残念だつた。またそれだけに、塔心礎のデベソ石が貴重に思えた。左上の画像は、七重塔跡の塔心礎石を撮ったもので、右上もこれを上から撮ったもの。上から見ると丸型で、石の中心がデベソ型になっているのがめずらしいので 真横の角度で撮ってみたが、あまり効果はなかったようだ。電柱の後方が金堂跡になり、その先が現存寺の境内になる。 


現存寺

 現存寺は、医王山国分寺と称し、真言宗豊山派で薬師如来がご本尊である。現存寺の本尊に薬師如来が多いのは、やはり聖武天皇が発した詔の趣旨による「無病息災」の部分が、拡大解釈されたところが大きいからだろうか。

  画像で示す現存寺の仁王門は西を向いており、その手前には僧寺の西門跡が復元されている。
 仁王門越しに見えるお堂は薬師堂で、まるで出雲大社のような建物を思わせたので目をひいた。本堂は仁王門を入り左側にあって、その位置が講堂跡になる。
 画像にある二つの建物とも、元禄から正徳にかけての建立であるという。


尼寺跡

 尼寺跡に行ってみると、天平の時代にタイムスリップしたような復元建造物が目に飛び込んだ。尼寺跡資料館も立派で「どちらを先に見ようか…」と、迷ってしまったほどである。
 「上総は、なぜこんなに尼寺の方だけに力を入れるのか」と思ったのが最初の疑問だった。僧寺跡などは、ただの草っ原だったのだ。他のほとんどの国は“僧寺優先”は常識である。ところが“上総”だけは、尼寺関係の方が僧寺関係よりも勝っているのである。
 でも、それもそのはず。すぐに納得してしまった。しかるに、全国の国分尼寺のなかで上総は、最大級のお寺だということがわかったからだ。
 まず先に展示館に入に入ることにした。
 入ってまず心躍ったことは、展示物はそれほど多くはないものの、他国に比べてみると、かなりよく調べられているという感想を持ったことだ。


南大門 中門 金堂 講堂が一直線となる伽藍配置をとる

南西から復元中門

 上の画像は、礎石があったその場所にそっくり復元された尼寺の中門と回廊である。まるで往時の姿の再現に胸が躍った。
 その感激を誰かに伝えたくて、写真の撮影をしていた近くで、芝の手入れをしていたおばさんに「よくこんなに復元しましたね。感激ですよ…」と、話しかけてしまった。笑顔で「ゆっくり見てらっしゃい…」と、応えが返ってきた。

西回廊から中門を眺める

 とにかくすばらしい。およそ全国に、これだけの回廊を復元してしまった地は未だかつて見たことがないのである。
 全国のなかでも、経費の関係からほんは部分的に復元されている所が多かった。だからこの努力は賞賛に値するし、見るだけでも嬉しかったのだが、回廊はすべて復元されており、残すのはあと金堂の復元のみとなっていた。
 金堂の復元はちょっとお金がかかりすぎるだろう。


上総尼寺跡展示館

 復元の国分尼寺の傍らに建てられている近代的な建物である。ここでは、国分寺の歴史すべてにまつわるような内容をテーマに学習会や講演など、様々なイベントも催しているようだ。
 じつは私も、トップページ掲載の「国分寺総論」に示した「国分寺建立の詔」の訳については、ここの展示館で催した“歴史講座”で学習した成果なのだ。

上総国分尼寺跡展示館案内のホームページ
http://www.city.ichihara.chiba.jp/p/a/3/p_a_330.htm

 
左は上総僧寺出土の鐙瓦と宇瓦  右は平城宮出土のもの
酷似しているところから 上総の格式の高さを伺い知ることができる