紀伊国分寺
僧寺跡と現存寺
2000年12月27日
訪問
2003年 8月24日 再訪

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僧寺跡は国の史蹟として敷地が十分に確保されていて、私が訪れたときにはあちらこちらで工事が行われていた。
まず、伽藍復元のために、すべての基壇の整備や回廊跡を示すための盛り土も整いつつあった。
そして、回廊を取り巻く溝や中門への架橋も済んでいた。さらに、講堂跡基壇の上に建つ現存寺であるところの医王山国分寺(宗旨は不明)本堂の修理も行っていた。おまけに、中門から南西には、新しく建てられた打田町立歴史民俗資料館があって、休館日だったのか、まだ開かれていないのか開館している様子はなかった。
ともあれ大官大寺式伽藍配置が整いつつある。 |
まずは中門手前から伽藍全体を眺める
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手前に溝が掘られ、橋が架けられている。芝で保護された中門跡に礎石が見える。木立の後方には、磚(瓦焼きで煉瓦状の型)で造られた金堂跡基壇、その背後には、講堂跡に建てられた現存寺の本堂(修理中)も見える。
また、右手木立の手前には塔跡基壇が見えている。
全体にはなだらかな南斜面になっていて、それぞれの堂塔の配置がよくわかる。
曇っていたので画像に色彩感がないのが残念である。 |
金堂跡基壇の階段と講堂跡に建つ現存寺本堂
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創建時の記録はないようだが、詔から15年後の756(天平勝宝8)年には存在を伺わせる資料がある。
少なくとも1178(治承2)年までの記録はあるので、100年以上は存続したもよう。
その後、十四世紀の前半頃に、講堂跡に現在と同じような本堂が建てられてたようである。しかし1585(天正13)年、豊臣秀吉によって根来寺攻めのさい、その蓮花院となっていた国分寺は、巻き添えとなって焼き払われた。 |
塔跡基壇から金堂跡基壇を見る
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七重塔跡の礎石と、その向こうに金堂跡基壇が見えている。そしてさらに講堂跡の本堂がある。
大官大寺式伽藍配置の特徴は、回廊の中にこの塔を含んでいるところで、私が写真を撮影しているその背後に、回廊跡を示す盛り土が直角に曲げられてあった。 ここからも、なだらかな南斜面になっているので、堂塔の配置の様子がよくわかる。
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金堂・講堂の左右両側に何らかの建物が

講堂跡に建つ工事中の本堂
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手前の基壇は、何らかの建物の跡である。多くの国分寺跡の場合、経蔵あるいは鐘楼というケースが多いが、はっきりしたことは分かっていないようである。
「あの〜、講堂の修理ですか?」「いや、本堂の修理や」「でも…、ここはコウドウ跡ですよね」「いやホンドウや」「…」どうも、私の聞き方が悪かったようで、講堂跡に建てられた、現存寺の本堂の修理である。元禄年間に現在の本堂が建てられた。 |

再訪問の時の本堂
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「すみません、中をちょっと見させいてただいてもよろしいでしょうか…」 「ああいいよ。でも、気をつけな」というわけで、許可をいただいて、左の階段から登って中を見させてもらった。 左下画像の足場からはみ出ている基壇と礎石は講堂跡のものだが、見たところ現存寺の本堂の倍の大きさかもしれないと感じた。
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これほどまで見させていただくと、この修理が済んで、足場を取る頃にもう一度訪れたいという気持が涌いてくる。写真には撮らなかったが、僧寺跡の伽藍南側にある新しい歴史民俗資料館とともに、ぜひ見たいものである。

打田町のホームページ
http://town.uchita.wakayama.jp/
西塔跡と国分尼寺
国の文化財として指定されている西国分寺塔跡は、僧寺跡から西に700b
のところにある。小さな道のT字路脇に塔心礎石と思われる石がひとつだけあった。
国分尼寺については、はっきりしたことはわからないが、この西塔跡の場所は、国分寺建立以前に白鳳寺院が建立されていて、天平期に尼寺として使用したのではないかとされている。紀伊俗風土記を参考にすると、昔は南北に長く東西に短い長方形の広大な寺域で、その中に堂塔伽藍が数多く建ち並んでいたと考えられている。
「お願い
この周辺は、国の史蹟にあたりますので、車を駐車しないで下さい 岩出町教育委員会」と書いてある立て札があった。その脇に平気で車を止める持ち主に無性に腹が立った。
根来(ねごろ)寺
根来寺は新義真言宗の大本山であり、国分僧寺跡から北西に3qの近いところにある。したがって、両寺が関わりを持つことはむしろ当然であったかもしれない。
覚鑁(かくばん)上人(興教大師・1095〜1143)により、大治(1126)元年に神宮寺を建てたことが根来寺の開創となった。その後、鳥羽上皇によって大伝法院を建てたり荘園を賜るなど興隆は著しく、堂塔2700寺領72万石といわれるまでになった。また、警護のための僧兵の勢力も強大となり、大阪城にいる秀吉にとっては我慢できない存在となり、ついに天正13年
3月、根来攻めとなったのである。そのとばっちりを受けて、国分寺もその時に焼き払われたわけだ。 |
秀吉軍の弾痕が残る多宝塔 |
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