美濃国分寺

僧 寺 跡

2000年12月29日 訪問
2002年  8月15日 再訪

 創建は不明だが、行基大僧正が伽藍の完成に力を尽くしたようで、聖武天皇の詔から3年後の744(天平16)年には概ね完成していたようである。宝亀6(775)年には暴風雨のために塔が崩壊して、887(仁和3)年には火災で全焼したので、それまで百数十年ほどは維持されていたようである。その後、再建の努力もあったようだが、一時は荒野と化して、顧みる者もない有様だったようである。

画像に細工をしてバックを暗くしてみた

 古くから交通の要所にあり、歴史の話題には欠かせない関ヶ原を西に見る、田園地帯に僧寺跡があった。

 早くから発掘調査され、史跡の整備も行き届き、寺域すべてが史跡公園にされた。堂塔基壇も磚(瓦焼きで煉瓦状の型) で積み上げ復元し、回廊・遺溝等も盛り土した芝や 石積みの溝として復元された。

 伽藍配置は、南から南大門、中門と講堂(?) が南北中心線上に並び、その中門と講堂(?)を回廊で結んでいた。その中には東に七重塔、西に金堂(?) 配置されているので、逆法隆寺タイプになるようだった。

 ところが違っていた。中心後部の講堂らしき建物は、西にある金堂らしき建物よりも、大きいのである。通常は講堂より金堂の方が大きいので、講堂の位置にある建物は金堂で左の小さい方が講堂らしいようで、こうした伽藍配置を「金堂院式」というようだ。私もはじめて見る伽藍配置である。


南大門跡から中門跡・金堂跡を見る 右に塔跡基壇・後ろに資料館と現存寺も見える 

塔心礎石から講堂を見る 伊吹山が白く少しだけ見える       塔心礎石から金堂を見る        


現存寺

  現存寺は、本尊の薬師如来が土中に埋もれたままとなっていたのを発見し、ようやく元和元(1615)年に、僧寺跡のすぐ北側の丘陵裾に草葺きの小堂建てられ再建されたことにより今日に至るわけである。
 くしくも関ヶ原の合戦後15年後であり、この合戦が終わったからこそ建てられたのであろうと思われるが、1600年より以前に建てられていたとしたら、きっと焼き払われていたかもしれない。
金銀山瑠璃光院国分寺と称し、宗旨は真言宗になっている。

 


上画像の山門をくぐると下画像の本堂がある

 尼寺跡は、僧寺跡より西の垂井町と推測されているが、国府跡とともによくわかっていないようであったが、その後の情報によれば発掘調査が行われたらしい。また立ち寄ってみたい。

 僧寺跡の北側で現存寺の間に、大垣市歴史民俗資料館と美濃国分寺史料館が併設されていて、立ち寄ってはみたものの二度も休館の憂き目に遭いつつ、2002年の終戦記念日にようやく入館することができた。そして待望の伽藍復元模型を目にすることができた。