武蔵国分寺 僧寺跡 訪問回数は多く 武蔵国分寺の創建は、聖武天皇の詔が出されてから、50年ほどでほぼ完成していたようだ。835(承和2)年には七重の塔が落雷によって焼失したが再建され、200年間は維持されていたらしい。そして1023(治安3)年には、創建期の伽藍としては最後の修理の記録が残されており、その後は次第に衰退していったようである。 |

| 上の復元模型は、現存寺東脇にある資料館蔵のものであり、東南の側から撮してみた。創建からおよそ100年後の頃で、最盛であった当時を想定して作ったという。 左上の広い道は東山道武蔵路で、上野国新田村で本道から分かれ、武蔵国府を経由し相模国府に通じていた幅12bの広い街道である。 寺域はきわめて広く、全国僧寺の寺域では最大と思われるが、南辺356b、東辺428bある(下地図赤線域)り、上画像の模型でいうと西辺はこの武蔵路脇からで、北は模型の端まであり、東・南は画像には入らないほどあった。伽藍配置はご覧のとおり、南大門(ふつう南門というが武蔵僧寺では大きいからか大が付く)、中門、金堂、講堂、そして国分寺崖線の上に北方建物があり、東塔を配する国分寺伽藍である。ただし、この伽藍も広く、南大門〜講堂を結ぶ中心線から東塔までは、200b以上もあって、どうしてこんなに離したのかという疑問すら持ってしまう。 |
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寺域を示す赤線域は、僧寺の土地ということで、自給自足の野菜畑にでもつかったのだろうか、復元模型でもそんな感じだ。 あまりにも広すぎる伽藍(地図青線域)のためだろうか、南大門から両側に伸びる伽藍域を示す境界は、幅3b(深さ1.5b) ほどの空溝になっていたことが発掘調査で明らかになっている。 そしてふつう、国分寺伽藍の場合、中門から両側に伸びる回廊は金堂に結んでいるのだが、武蔵僧寺の場合は、中門から講堂の裏手まで伸びて結ぶ、ただの塀になっているというところ(黄色線域)がきわめてめずらしいものだ。 七重塔については東塔か西塔かは両例あるが、回廊については知っているだけでも、出雲僧寺の中門〜講堂と、この武蔵僧寺の二例だけである。 |
中門跡らしい所から金堂跡を眺める

| 南大門跡と中門跡には表示はなく、中門跡はだいたいこの辺であろうというところから撮ってみた。南大門跡からも撮ったが、意味のない画像なので載せないことにした。画像の両側はグランドになっていて、この日は連休の日曜日とあって、ソフトボールやらゲートボールなどで賑わっていた。 中門から見ても金堂は大きいものであり、基壇を▲で東西の端を表示してみた。東西が36b、南北が16bもあり、おそらく諸国僧寺の中では最大級のレベルであるだろう。現在では19個の礎石が残されている。 |
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七 重 塔 跡


| 南大門〜講堂を結ぶ中心線から東塔までは、正確には205bもあって、どうしてこんなに東に離したのかその理由はわからない。とても不思議である。それも、創建当時からこの場所に建てられたようである。 塔礎石はふつう17個あるのが原則だが、武蔵僧寺も同様であったかどうかは不明だが、見たところ8個程度残されていた。 |
<余談だが本論> 武蔵国分寺跡から 2004年 5月22日
記事によると、地中レーダー探査を請け負った民間の調査会社から届いたデータからわかったようである。「囲むと11b四方になる」反射面が浮かび上がっていたので「塔基壇に違いない」と直感したのは、国分寺市ふるさと文化財課の福田係長だったという。 従来の塔跡が、南大門・中門・金堂・講堂を結ぶ中心線から東に205bと、他の国分寺に類を見ないほどの遠距離であることが疑問の一つであったが、その疑問が今後解明されそうである。ただし「なぜ塔跡が二個所なのか」という疑問が発生した。 |

朝日新聞 2004年5月22日付 朝刊に掲載された記事
・ 金堂跡から講堂跡を眺める
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