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武蔵国分寺

僧寺跡

訪問回数は多く
取材日特定不能

  武蔵国分寺の創建は、聖武天皇の詔が出されてから、50年ほどでほぼ完成していたようだ。835(承和2)年には七重の塔が落雷によって焼失したが再建され、200年間は維持されていたらしい。そして1023(治安3)年には、創建期の伽藍としては最後の修理の記録が残されており、その後は次第に衰退していったようである。
 その後の記録によれば、1333(元弘3)年、新田義貞が鎌倉に攻め入って鎌倉幕府が倒されたわけだが、その手前になる多摩川の河川敷となる分倍河原において、新田軍と北条泰定軍と合戦により勝敗は決した。この時の戦火で国分寺の伽藍はすべてが焼き尽くされた。つまり、言ってみれば新田さんが燃やしたことになるか…。
 ただし1334(建武元)年に入り、新田義貞は戦勝を感謝し薬師堂を寄進したという。こうして現存寺への輪郭を形成していったようである。まあ「全焼しておいて薬師堂だけとは、それに“戦勝感謝”とは…」といった感がある。

 上の復元模型は、現存寺東脇にある資料館蔵のものであり、東南の側から撮してみた。創建からおよそ100年後の頃で、最盛であった当時を想定して作ったという。
 左上の広い道は東山道武蔵路で、上野国新田村で本道から分かれ、武蔵国府を経由し相模国府に通じていた幅12bの広い街道である。
 寺域はきわめて広く、全国僧寺の寺域では最大と思われるが、南辺356b、東辺428bある
(下地図赤線域)り、上画像の模型でいうと西辺はこの武蔵路脇からで、北は模型の端まであり、東・南は画像には入らないほどあった。伽藍配置はご覧のとおり、南大門(ふつう南門というが武蔵僧寺では大きいからか大が付く)中門、金堂、講堂、そして国分寺崖線の上に北方建物があり、東塔を配する国分寺伽藍である。ただし、この伽藍も広く、南大門〜講堂を結ぶ中心線から東塔までは、200b以上もあって、どうしてこんなに離したのかという疑問すら持ってしまう。


西赤線が寺域 青線が伽藍
発掘調査の話題トピックス

 寺域を示す赤線域は、僧寺の土地ということで、自給自足の野菜畑にでもつかったのだろうか、復元模型でもそんな感じだ。
 あまりにも広すぎる伽藍
(地図青線域)のためだろうか、南大門から両側に伸びる伽藍域を示す境界は、幅3b(深さ1.5b) ほどの空溝になっていたことが発掘調査で明らかになっている。
 そしてふつう、国分寺伽藍の場合、中門から両側に伸びる回廊は金堂に結んでいるのだが、武蔵僧寺の場合は、中門から講堂の裏手まで伸びて結ぶ、ただの塀になっているというところ
(黄色線域)がきわめてめずらしいものだ。
 七重塔については東塔か西塔かは両例あるが、回廊については知っているだけでも、出雲僧寺の中門〜講堂と、この武蔵僧寺の二例だけである。

中門跡らしい所から金堂跡を眺める

 南大門跡と中門跡には表示はなく、中門跡はだいたいこの辺であろうというところから撮ってみた。南大門跡からも撮ったが、意味のない画像なので載せないことにした。画像の両側はグランドになっていて、この日は連休の日曜日とあって、ソフトボールやらゲートボールなどで賑わっていた。
 中門から見ても金堂は大きいものであり、基壇を
▲で東西の端を表示してみた。東西が36b、南北が16bもあり、おそらく諸国僧寺の中では最大級のレベルであるだろう。現在では19個の礎石が残されている。

七 重 塔 跡

 南大門〜講堂を結ぶ中心線から東塔までは、正確には205bもあって、どうしてこんなに東に離したのかその理由はわからない。とても不思議である。それも、創建当時からこの場所に建てられたようである。
 塔礎石はふつう17個あるのが原則だが、武蔵僧寺も同様であったかどうかは不明だが、見たところ8個程度残されていた。

<余談だが本論>

武蔵国分寺跡から
新たな塔基壇の遺構発見

2004年 5月22日

南大門から東にのびる道の205b先が現在の塔跡
その手前に今回発見の塔遺構が発見された。

西側上空からの画像
朝日新聞の記事から

 記事によると、地中レーダー探査を請け負った民間の調査会社から届いたデータからわかったようである。「囲むと11b四方になる」反射面が浮かび上がっていたので「塔基壇に違いない」と直感したのは、国分寺市ふるさと文化財課の福田係長だったという。
 資料によればこの位置は、これまでも明治時代に6個の礎石が見つかったり、鐘楼跡や回廊跡などと想定されてきた場所だという。

 従来の塔跡が、南大門・中門・金堂・講堂を結ぶ中心線から東に205bと、他の国分寺に類を見ないほどの遠距離であることが疑問の一つであったが、その疑問が今後解明されそうである。ただし「なぜ塔跡が二個所なのか」という疑問が発生した。
 ここからは、私こと芭裳裟の勝手な推測を述べさせていただこう。
 そもそも武蔵の国の僧寺は、詔が出されてからおよそ50年ほどでほぼ完成していたようだが、835(承和2)年には七重の塔が落雷によって焼失し、そしてその後再建されている。その際に現在の塔跡に位置を移したと仮定すると、何となくすっきりしてくる。すなわち、今回発見された塔跡基壇は、落雷に遭った創建時代の七重塔跡であると考えてみたらどうだろうか。今後の研究を待ちたい。


朝日新聞 2004年5月22日付 朝刊に掲載された記事


金堂跡から講堂跡を眺める

 金堂跡の基壇から撮ったものだが、画像の両端に礎石が二つばかり見えている。講堂跡にも基壇が残されているが、残念ながら手前には木が生え、しかも基壇の周辺に生垣まであるので、ほとんど写っていない。ただし、画像中央の左に“けものみち”のようなスジがあるが、その延長線上の陽があたっている部分が基壇になる。礎石はまったく残されていないが、その大きさは金堂に至適するほどであったという。

 記憶の中の武蔵国分寺跡


記憶の中の武蔵国分寺跡

 私が中学生の頃「一目見たい」と憧れて、自転車を走らせて訪れた時の記憶を辿ってみた。周囲は見渡すかぎりの畑で、そこに大きな松の木が立っており、その下に「武蔵国分寺址」と書かれた石碑が建てられていた。
 畑と史跡地との区別はなく、礎石を数個見たような記憶があるが、"伽藍配置"などというところに興味すら及ぶこともなかった。ただ、「奈良にあるような建築が、この武蔵の地にもあったのだ」という驚きと感動は憶えている。修学旅行で見た五重塔でも驚きなのに、七重塔であったことを後に知って、信じられない思いがしたものだった。

 参照<少年Wの「国分寺が見たいっ」>

 金堂跡の南辺の中心に 「武蔵国分寺址」 の石碑が立っている。手前の大きな木が「記憶の中の武蔵国分寺跡」の画像にある、右側の小さな木であるかもしれない。
  正面奥の木立の中が講堂跡になり、やや右奥に現存寺がある。

 


現存寺


冬で葉が枯れ落ち やつと門全体が撮れた
(じつは、HP製作者は三河国米津藩にかなり関係が深い)

 医王山国分寺と称し、新義真言宗豊山派となっている。再建されたのは1733(享保18)年で、創建当時の伽藍が焼け落ちてからすでに400年を経過してからであった。 本尊は薬師如来で、国指定の重要文化財となっている。
 山門は江戸中後期の作で、三河国の米津藩の氏寺であり、東久留米市にある米津寺から移築したものであるという。山門を撮影するには冬を待たねばならなかった。しかし、枝が陰になり全体的には暗い画像になってしまった。


医王山国分寺(新義真言宗豊山派)の本堂 湧水地は境内にあり
門前を右に行くとほたるの棲む川の遊歩道になっている


武蔵国分寺資料館

 お寺の庭は万葉植物園になっていて、草花ひとつひとつに万葉集の歌がかかれている札が立てられている。資料館の手前にも、その札が写っている。
 資料館は、本堂手前を右に曲がるとある。
 周辺は武蔵野の面影を色濃く残し、ほたるの棲む川とその湧水池もあって、国分寺跡に特段興味がない人でも武蔵野の散歩道として楽しめるところである。

お寺さんに承諾を得てホームページをリンク

万葉植物園もある武蔵国分寺(現存寺)のホームページ
http://www.linkclub.or.jp/~hocco/index.html


尼寺跡

 武蔵国分尼寺は現在、史跡としての用地買収がかなり進んでおり、画像の中門跡から順に、金堂跡、尼坊跡、そして裏山が確保されている。また、寺域塀や尼坊跡の復原が一部であるが、かなり完成度の高いかたちで復原されている。
 画像は完成したときの尼寺公園の想像図である。右側の直線二本は、東山道武蔵路ならぬJR武蔵野線(手前)と府中街道になる。

復元伽藍の模型

 尼寺跡は、僧寺跡の400b西に位置している。
 上画像の「尼寺公園想像図」と見比べると、確保されている土地がよくわかる。中門が道路で半欠けになり、JR武蔵野線が高架で迫っているのがちょっと残念だが、全国にある尼寺跡のなかでは、これだけの広さの土地が確保されている所は数少ない。


(尼寺模型・資料館蔵) 講堂は推定

中門跡

 道路で半分欠けている中門跡である。南門に至っては、撮影している私の背後の民家の中ということになってしまう。
 画像の遠くに膨らんでいる土地が金堂跡になる。基壇跡のように見えるが、全体なのか部分なのか、あるいはホンモノなのか後から積み上げたものかもはっきりしない。
 画像の右側からは、JR武蔵野線の高架が迫っている。

 下画像とはほぼ同じ位置から撮ったものだが、下画像の方が、およそ2年程度あたらしいものだ。

先日(2002.10.10)久しぶりに行ったが、尼寺公園工事はかなり進んだ。 中門跡から左に伸びる生垣は、回廊ではなく塀跡になる。結局のところ、僧寺・尼寺どちらにも回廊の存在はなかった。
 無原則に立てられた柱は何を意味するのかは不明だが、これも発掘調査の結果だろう。完成が楽しみだ。

金堂跡

 長い間、この画像はホームページには載せずに、しまっておいたものである。というのは、基壇らしき上に昇って撮ったのだが、何を撮ったのかもわからないような画像であるからだ。
 画像中央の切り株みたいな金堂表示のすぐ後方までが、1bちょっと高い基壇になっている。
 金堂後方には、ふつうならば講堂跡があるのだが発見されておらず、木立の向こうやや右手に尼坊跡と、その背後にJR武蔵野線の高架が見える。


金堂の復元図はCGで作られた画像(公園の説明板にあった)

講堂跡

 これも同じく、CGで作られた空想図である。あえて“空想図”としたのは、金堂跡と尼坊跡の間にふつうならばあるはずだが、その痕跡が見あたらないのである。したがって「あったであろう」という空想のもとに描いたわけだ。

←左は講堂の想像図(CG画像)

 後方中央には、一部だけ復原された板塀が見えるが、両側は柱だけになっている。

尼坊跡と復元板塀

 復原された尼坊跡を西から撮ったものだ。建物の長さは44.5b、奥行きは9.9b だがそこを、小径が斜めに裂いているのが残念である。
 横の礎石は16個並び、それが5列あるが、中央列は6個になっている。うち、39個が残されいた。


これより余談

 とんでもないモノを見つけてしまった。何と“武蔵国分寺”という銘柄のお酒である。
 これは、聖武天皇もビックリする代物だろう。お寺の名前が付いたお酒も初めてだが、よりによって「国分寺」とは驚きである。まさに“般若湯”そのものだ。
 それにしても、全国67ヶ寺の国分寺銘柄の酒があったとしたら、おもしろいかもしれない。たとえば灘の生一本“播磨国分寺”や、西条の銘酒“安芸国分寺”などはありそうだ。新潟の生酒は“越後国分寺"、それに“甲斐国分寺”となれば白・ロゼ・赤ワインもあると言うと現実味が増す。“薩摩国分寺”とくれば、聞いただけで芋焼酎をイメージしてしまう。
 画像のお宝については、友人と“国分寺談義”をしながら味わうことにしたい。
(お酒は二十歳になってから)

清酒“武蔵国分寺”


お宝発見は 2002.11.3 


・・・・・・・・・

並木町1丁目の七重塔

 東京都国分寺市並木町1丁目の、五日市街道のT字路のところに七重塔が建っていると、近くに住まわれている北條さんが画像も送って下さった。
 メールを拝見すると、どうやら持ち主が趣味で造られたようだが、ちょっと話を聞こうと思ったけれど、留守のようだったということだった。

 七重塔は諸国の国分寺で多く建てられたものだが、それが国分寺だけだったのか今調べている。飛鳥京の大官大寺には、九重塔が建てられていたようだ。
 もしも七重塔が国分寺の専売特許とすれば、この造り主も相当の“国分寺好き”と拝察できるのだが…。会って話がしてみたい。

国分寺市役所前の七重塔

 その後の調べでわかったが、七重塔は、やはり諸国の国分寺で多く建てられたものであって、その他の古代寺院では例となるものは見あたらないようである。ただし、飛鳥京の大官大寺には、九重塔が建てられていたのだが、移築したあとには、七重塔に省略されたようだ。
 やはり七重塔は、国分寺の“専売特許”となっていたようである。

 またまた北條さんが送って下さった、東京都国分寺市役所庁舎前の七重塔である。撮りにくかった並木町一丁目の七重塔と比べ、最良の位置から撮れている。やはり“国分寺”が建てられた自治体としての誇りが、庁舎にもみなぎっている感じがしてくる。
 それにしても、基壇が石垣というのもおもしろい。ちょっと戦国時代が入っちゃっている感じだ。


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