能登国分寺
2001年8月22日
訪問
僧寺跡
能登国分寺展示館蔵
その朝、台風11号が南紀潮岬に上陸した。塩分の濃い和倉温泉で、のんびりと身体を癒すことができたわけだが…、じつは超一流ホテルの“加賀屋”などをうらめしそうに横目に見ながら通り過ぎ、準公営にして安価な宿で満足できたという、気楽な一人旅を満喫していたのである。
以前に能登の地方を訪れたことがないわけではなかったが、ホームページを開くなどという、これほどのめり込むとは自分でも思わなかったので“国分寺跡”などのような、とりたてて観光地にはなりにくい場所に寄ったことなどなかったのだ。こうしてテーマを持った旅をしてみると、これまで見た七尾の街が今度は違った視覚で見ることができるものである。
能登の見学から帰ってきて整理してみると、私にとって二つの疑問がわいた。
一つは、国分寺の造営はおよそ台地にされることが常であるが、能登僧寺はどう見ても水田のなか低地帯にあるのだ。もう一つは、近くの国分寺のうち、この能登僧寺と若狭僧寺が“五重塔”なのである。およそ国分僧寺には七重塔が多いなか、なぜ五重塔なのかということである。
南大門をくぐると正面手前に中門、右に塔、左に金堂、そしてこれを囲むように回廊が延び、正面後方に講堂が位置していた。“逆法隆寺型”だが、これを法起寺型といい、訪れた国分寺のなかでは、若狭、美濃(例外)と少なく珍しい。

・・・南大門
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表示する画像の撮影位置
・・1 南大門入り口の前から
・・2 中門跡から講堂を望む
・・3 金堂跡越しの南大門
・・4 塔心礎石越しの南大門
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1 南大門入り口の前から

再現された南大門は、見た目にはとても簡素なものであった。しかし、木造でしかも昔ながらの工法で、手をかけてできるだけ忠実な復元を試みていたので思わず見入ってしまった。
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2 中門跡から講堂を望む


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2 中門跡から講堂を望む 中門跡から講堂跡を眺めた画像だが、回廊は画像外になる金堂・塔を囲んで、講堂へと結んでいる。
講堂の大きさは、横幅7間(21b)、奥行き4(12b)、高さは約10メートルになるという。
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3 金堂跡越しの南大門
復元した南大門と復元した金堂基壇の間に赤い柱が切り株のように並んでいるが、これは回廊跡を示したものだ。
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3 金堂跡越しの南大門

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4 塔心礎石越しの南大門・

4 塔心礎石越しの南大門
みごとな塔心礎石である。だけど小さいくて、塔は一辺が4.5b
である。右画像を参照してほしい。最大とされる群馬の上野では19b、みごとな礎石が残る京都の山城では9.8b
である。だから五重塔であろうと考えられている。
歴史家の説だからその通りだろうが、しろうとは夢を持ちたいものだ。もしかしたら、室生寺の五重塔のように、ミニチュアサイズの七重塔が建っていたと考えると楽しいかもしれない。
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画像4の塔心礎石から見るとさらによく中門跡が見えるが、僧寺の伽藍としてはそれほど広い方ではないと感じた。寺域は東西210b、南北160bだが、南大門から中門の間は10bあったかなぁという程度の距離だった。
金堂は東西22b、南北16bだったが、礎石は廃寺になってから盗まれたようで1個しか残らなかったという。


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能登の国は、718(養老2)年能登地方が越中から分国したのが始まりである。しかし20年余りで、今度は越前に吸収合併された。
そして20年も経たないうちに、再び分国となって能登国となった。まったくよく行政区が変えられたものだ。
それから90年後の843(承和10)
年に、既存の大興寺をもって国分寺としたという。そのために高台ではなく水田の中となったのか。
それにしても能登という国は、分国や吸収合併をくり返し、聖武天皇の詔が発せられてから、なんと100年
の後に僧寺が建立されたことは他にも類を見ない難しさであったがあったことであろう。しかも、既存の大興寺をもってこれに充てたということは、かなり困窮した事情があったようにも思える。これを超えて僧寺建立を現実のものにしたのは、国司の春枝王の采配によるもので、就任後およそ1年で実現させたことになる。しかし、その約40年後の882(元慶6)年には、嵐によって伽藍のほとんどが倒壊したいう。そしてその後、五重塔は再建されることがなかったようである。
そして話は一気に650年後に進んでしまう。
1532(天文元)年、土地の豪族畠山義総が米一石を寄進したとあるが、1577年上杉謙信の軍勢に攻め入られた際に、国分僧寺はもろともに焼き払われ、廃絶の道を余儀なくされたようで、数ある諸国分寺のなかでも悲運の道を歩んできたように思える。
しかし今、こうして寺域が確保されて一部が復元されている姿は、厳しい日本海側の気候と生活条件にあるにもかかわらず、地域の歴史的な遺産を愛する土地の人々の畠山義総のような心を感じることができた。
それにしても上杉謙信は、越後国分寺を再建しておきながら、一方では能登国分寺を焼き払ったようである。同じように、武田信玄だって駿河国分寺、伊豆国分寺(?)を焼き払った一方で甲斐国分寺を再建しているので、あの頃は戦略のためには当然のことであったのかもしれない。
能登国分寺をはじめ能登の歴史を語るサイト

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