近江国分寺
国 衙 跡
2001年8月20日訪問
 |
国衙跡を訪ねて
明けなずむ頃わが家を出て、最初の目的地が近江国衙跡。
スズキの軽自でも 11時前には着いたのに、
名神高速道を降りて、南側から入ろうと考えたのが間違えだった。住宅地の細い袋小路を行きつ戻りつ、一号線を迂回してやっと辿り着いた。
史跡公園としてますます整備されているようだ。
国庁跡そのものが台地にあるのは珍しい。ふつう国分寺跡は国衙跡よりさらに高い場所にある。これより高い場所に跡地と考えられている場所はないのではなかろうか。
|
 |
国衙跡の石碑がある位置から通りをひとつ隔てた西側にも遺跡公園があり、そこに鉄骨がむき出しになった建造物を見つけた。
“遺構説明版” を読んでみた。
すると1250年前、国庁を建設する際に谷地形を整地したとある。まさに、“宅地造成”の大土木工事である。
そこに掘建柱の建造物が建てられたようだが、そのなかでも、規模の大きな建物の復元建造物であるという。「工事中の建造物かなぁ…」
と思われる、 ちょっと不思議な建造物だ。 |
現存寺と僧寺跡
2001年8月20日訪問
2002年8月20日再訪
 |
現存寺を訪ねる
瀬田大橋を渡り、
西側の湖畔寄りにある別保に
「国分寺」の名を継ぐ寺がある。大きなマンションの前の小さな寺だが、関東人にとっては
「京都が近い…」を感じさせる雰囲気があった。
この別保の西側、山の方に「国分」と称する町の名があるのだが、何か関連はないのか…。
それにしても、ここの国分寺の宗旨を調べてくるのを忘れてしまった。
ことによったら、最澄にちなんで天台宗ということもありうる。
であるとしたらすごい。(あまりすごくないかな?)
|
“寺址”の石碑を見学

|
「史蹟
近江國分寺」の石碑が、市立晴嵐小学校の敷地内の校舎裏にあった。(下画像では校舎背後の高木の下)
夏休みなので、日直の先生に許可をもらって撮らせていただいた。 ところで、石碑の字が間違いなのか、実際こういう字があるのかは知らないが、珍しい“分”の字を見た。
“分”の字はふつう、上が“ハ”で下が“刀”だが、石碑では“人”と“力”になっている。ここは小学校だから、勉強して“力がつく”と願って彫ったのか…。
碑の側面には「昭和11年3月建之」とあった。当時の石屋さんのシャレた彫り方なのか、それとも題字をしたためた偉いお方の“造字”だったのか。
これも謎である。
|

しかし、緩やかな北傾斜が気になる。北傾斜の例も少ないがあるわけで、甲斐僧寺・尼寺が例となる。
それにしても、ずいぶん大きな小学校だ。ことによると、30学級(1000人規模)はあるかもしれない。 |
|
もし僧寺があったとすれば、伽藍になる位置かな?と考え、撮ってみた。
校舎後方約2q先が琵琶湖で、手前の屋根と駐車場は消防署、さらに南側に新幹線が通っている。
この画像のなかに、多い伽藍の“東塔位置の国分寺式”を想像してみよう。
校舎中央は講堂、校庭中央に金堂、校庭南端に中門、七重塔は体育館、そして南門が消防署になる。金堂の屋根は校舎の高さを超え、七重塔は画像上部を突き抜けるだろう。中門と金堂を結ぶ回廊はおそらく、広い校庭に200bトラックが二個分を占拠することだろう。
この程度の広さは、ふつうの僧寺伽藍の大きさで、寺域を含めるとさらに広いものになる。 |
建部神社を訪ねる

|
僧寺跡が紫香楽宮近くの内裏野遺跡とする説がいちばん古いとされるが、国府からはおよそ15q
と遠い。
つぎに国府近くの瀬田廃寺とする説がある。そして晴嵐小学校が三つ目の説となるが、碑の記載によれば昭和11年には判明していたことになる。いずれにせよ、何度か移転していると考えることも妥当なようだ。 画像は、近江一の宮となる建部大社である。熱風をさらに振動させていると表現したくなる蝉の声が、周囲に響きわたっていた。
|
平城京に近い国分寺は幾寺かはあるが、近畿ではいつの時代でも古くから街が発展していて、遺跡はくつがえされる可能性は十分にあった。そのためか、不明な点が多くなることはやむを得ないことかもしれないが、あまりにも内容のないレポートになった。ともあれ、日本史上の大僧侶である最澄を生み出しておきながら、国分寺そのものについては、その位置すら特定できないという、まことに謎に包まれた近江国分寺だ。おかげで、尼寺に至っては、話題すら出すことが出来なかった。
伝教大師最澄のこと
近江国分寺で忘れてはならないのは、伝教大師最澄のことであろう。
最澄は、天台宗の開祖で比叡山延暦寺を開いたことは知られているが、近江国分寺で得度したことはあまり知られていない。
生まれは渡来人の子孫で、三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として、滋賀郡古市郷(現大津市)に生まれ、幼名は広野といった。
778(延暦2)年、最澄12才の時に、当時、近江僧寺にいた行表(ぎょうひょう)のもとに弟子入りし、780(延暦4)年に得度して名前を最澄と改めた。そしてさらに、修行ののち785年に東大寺で受戒したが、それまでの少なくとも7年間は近江僧寺にいたことになろう。・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・比叡山延暦寺
しかし最澄は、当時腐敗していた奈良の仏教に見切りをつけて、一乗止観院(いちじょうしかんいん)という延暦寺の前身を築いた。そして804年に中国の唐に渡り、2年間の修行ののち帰国し、天台宗を伝えた。やはり、仏教といえども “国家公務員” は腐敗するのが世の常なのか。
それにしても、最澄が近江僧寺にいた7年間だが、その僧寺いったいどこにあったのか…。最澄のことはこんなに判明しているのに、その場所がわからないとは…。
比叡山延暦寺ホームページ
http://www.hieizan.or.jp/
|