尾張国分寺
現存寺
2000年12月26日
訪問
大型寒波の影響で、関ヶ原あたりの峠の隙間から溢れだした雪雲が、濃尾平野にも雪を降らせていた。
ちょっと見ると、赤穂浪士が討ち入った本所松坂町の吉良邸を連想してしまう。
現存寺は、鈴置山国分寺と称し、臨済宗妙心寺派である。
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創建については、聖武天皇の詔から僅か8年後の、天平勝宝元(749)
年と神護景雲元(767)年には、寺の存在を示す記録が残されている。
この早さは、地方豪族による協力の下に建てられたことによるようだ。しかしその後、たびたび水害や倒壊などに遭い、比較的短い時代で創建寺の幕を閉じてしまったようである。
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さて、僧寺跡だが、書物によると現存寺から1qほど南の植木を育てる畑の中にあると書いてあった。
しかし、降りしきる雪の中なので歩くわけにも行かず、そのうえ対向車が来たらすれ違うことができないような狭い道を、何度も行きつ戻りつしたが、ついに発見できなかった。
それでも、昭和36年に発掘調査をしたがその結果、金堂から回廊が伸び、その後ろに講堂を配し、金堂から南東
45bに塔基壇も発見された。 |
伽藍配置図 金堂跡と塔跡は発見されている
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これにより、伽藍の輪郭がほぼ明らかとなって、東塔を配する国分寺伽藍だったことが判明したのである。
そして、基壇は瓦積み基壇となっており、火災に遭った痕跡や、水害に遭ったとみられる証拠として、土台が傾いていたということもわかったようである。
左の画像も、中門から金堂を結ぶ回廊を書き足してみた。
ところが、現在の僧寺跡はそのほとんどが植木畑となっており、
発掘調査がしにくくなっている状況ではあることはもちろん、国の史蹟指定などは難しい状況であるようだ。 |
尾張国分寺で出家した空也上人
尾張国分寺といえば、空也(くうや)上人(903〜972)のことを語らないわけにはいかないだろう。
空也は天皇の子息といううわさもあるが、はっきりしていない。20余歳で尾張国分寺において出家し、天慶年間には京都に入って阿弥陀信仰を勧めた。また、天暦2(948)年には延暦寺に入って、戒壇で授戒を受け光勝(こうしょう)
の名を与えられた。
国分寺の僧侶、すなわち官僧の身分では制約が多く、勝手に庶民への布教活動などはできなかったわけだが、空也上人は官僧から離れ、民間布教僧として庶民の様々な願いにこたえていた。(「仏教入門」岩波ジュニア新書
松尾剛次著より)
尼寺跡

法華寺への参道 法華寺の本堂
現存国分寺から北西1qの法花寺町内の位置に「法華寺」があり、その参道の入り口に尼寺跡を示す石碑が建てられている。
ただし、尼寺跡の伽藍が発見されたわけではないという。
現存する法華寺は永正年間に創建されたというが、現存寺は尼寺ではなく、これもまた不明なところが多いようだ。
「わが心の国分寺」によれば、「僧寺、尼寺共に史跡に指定されていないのは全国でも珍しく、その悲運の歴史を物語るものといえよう」と述べられている。
たしかにそのとおりだと思う。
それでも、現存する国分寺と法華寺の二寺が健在し、
その法灯を守っているということは幸いであると感じている。
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