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佐渡国分寺                                                          

僧 寺 跡

2004年3月28日訪問

 多くの国分寺跡のなかで、創建期の伽藍がより完全なかたちで残されるためには、かなりきびしい条件がある。それはまず、古くから発展した街中ではないこと。戦乱の時代がくり返されていないこと。そして、現存寺が創建の伽藍の中に建てられていないことなどである。佐渡僧寺跡は、これらの条件をすべて満たしていたと考えられるほど完全なかたちで残されていた。
 その場所は、近くに民家はあっても僧寺跡の周囲には民家はなかった。そしてまた、およそ現存寺は僧寺跡を守ってくれるが、逆に僧寺跡の上にどっかりと覆い被さるために僧寺跡そのものが明らかにできないことも多い。ところが、佐渡国分寺の場合、現存寺は僧寺跡の東側に大きな堂宇を構えてはいるものの、僧寺跡には一切かからず、理想的な保存状態となっていた。


史跡公園の説明石板に彫った伽藍図

史蹟整備図
(奈良国立文化財研究所)「わが心の国分寺」より転載


現在残されている礎石も黒点で記入されている

僧寺跡の状況について

 伽藍配置は、南大門、中門、金堂が縦一直線に並び、中門から金堂に回廊を配する国分寺伽藍になっていた。ところが、講堂が見あたらないのである。念のために金堂跡の後方を確かめてみたが、池が掘られており、さらにその背後は傾斜で落ち込んでいて、およそ講堂など建てられる状態にはなかった。
 金堂の東側には七重塔跡があり、その中間やや後ろには、やや角度がずれている新堂跡がみられるが、これは創建期のものではなく、その後の時代に建てられたものである。
 建立完成の年代は明らかではないが、764(天平宝字8)年、平城京から佐渡国分寺に対して最勝王経・法華経各一巻が施入されたとする年あたりが完成ではないかとする説が強いようだ。 

南大門跡

 いちばん手前の表示が南大門跡。その後方が中門跡で、さらにその後ろの画像では点にしか見えないが、金堂跡になる。
 さらにその後ろに講堂跡がないものかとシロウトはすぐ思うもので、木立のなかを見て回ったが、池と傾斜で落ち込んでいるだけだった。

中門跡

 画像から説明をするのは大変むずかしい。画像では礎石なのか切り株なのか見分けがつかないので、お手上げ状態である。
 後ほど画像でお見せするが、中門の左右から金堂まで回廊の礎石が二列のびていた。

金堂跡

 金堂は基壇上に残る礎石の状態から、東西17.9b、南北13.3bあったと推定される。
 金堂後方の林に小さな池があり、さらにその後ろはなだらかな傾斜で落ち込んでいるので、講堂を建てる余地はない。となれば、講堂のない僧寺となる。

金堂跡後方

 これまで、講堂位置が定まらず、発見されていないという例はあったが、講堂を持たない僧寺となると、かなりめずらしい寺である。
 金堂の礎石は四列で、並んでいたが、中央に二つだけ出っ張った礎石があった。軒を支える石だろうか。

回廊跡

 回廊跡を南西端から北に見た。
 地面が傾いているが、木立はそれほど傾いてはおらず、若干西に傾斜していたと記憶しており、私の撮り方が悪いばかりではないようだ。
 青ラインを記入した二列に礎石が並ぶ。
 回廊跡を南西端から東を見た。
 青ラインで記入したように、回廊が直角に曲がっているのだが、画像ではお見せできないのが残念だ。
 塔跡はずっと先の低木(椿)の木立の中にある。

塔 跡

 画像の表示石の上が塔心礎、芝生全体が塔基壇になる。
 左上の青いシートは発掘調査中の被い。
 建てられていたのは七重塔だったようだが、北陸道の各僧寺では五重塔が多いのでめずらしい方だ。
 寺伝によると、1301(正安3)年の落雷で焼失したとあるので、560年もの間、いやそれ以上に創建期の法灯が守られていたことになる。
 塔跡表示だけが北向きなので、南の山並みを撮す。

 塔跡には塔心礎石しかなく、あとの16個の石は持ち去られたようである。  八幡町にある歴史資料館で国分寺瓦が展示してあった。かなり単純な紋様である。

<余談シリーズ>

ちょっと付録
20年前の画像と比べた僧寺跡 余談に「国分寺巡訪」を達成した人々


平成16年3月28日撮影の 佐渡国分寺跡石碑
椿の低木と芝生になって礎石がしっかりと見えた
画像に写ってないが道路から撮っている
私の方が撮影の角度はやや深い


20年前 川崎氏撮影の 佐渡国分寺跡石碑
この状態じゃ 今回のようなレポートはできない

 私が知っている限りでは、全国の国分寺(68ヶ寺)をすべて巡訪した人は、全国に三人になるのではないかと思う。
 一番乗りは、私が教科書のように愛読している「わが心の国分寺」の著者であるところの、玉手英四郎氏である。氏の著書は、平成9年6月25日の発行となっているので、それ以前にすべての寺を巡訪していることになる。
 そして二番乗りは相模原の川崎さんになる。氏は平成15年春、淡路国分寺を最後に完了した。その川崎さんから貴重な画像をいただいた。上右の画像は、20年前の佐渡国分寺跡だそうである。左は今回私が撮った画像なので、比べてみて欲しい。
 そして三番目は、平成16年3月28日の完了で私となるのだが、何せ情報がが不足している。主な情報源は「古代国分寺友の会」の掲示板(トップページ下からリンク)だけなので、もしかしたら全国分寺を巡り終えた人はもっといるのかも知れない。もし大勢いたら、このホームページで表にして紹介したい。
 しかし、玉手さんと川崎さんはエライ。交通手段に“自家用車”という最も便利なモノを使用しないで全国を巡訪したからである。およそ国分寺跡というところは駅前にあるわけがなし、降りてから探さなければならない場合がほとんどである。その悪条件のもとで完了したからだ。
 この後も、スゴロクでいえば“あがり”に近づいている人が二人いる。早期の達成を願うと同時に、最新の情報交換をしていきたい。


現 存 寺


中央の門は 本堂に通ずる勅使門と思われる

 現存寺は医王山瑠璃光院と号し、真言宗醍醐派となっている。現存寺の建立ははっきりしないが、江戸初期あたりであろうとされている。

 画像は仁王門で、これも古く本堂や瑠璃堂と並ぶものではないかと思われる。


両脇の仁王像

 本堂は総欅造りとなっていて、江戸初期あたりとなる1679(延宝7)年に建てられたものであるという。すなわち、300年も経っている建造物ということになる。
 それにしても、ずいぶん地味な本堂で、外見からして飾り気のない建て方である。


本堂の軒に掛かる額

 画像正面の藁葺きは瑠璃堂で、1666(寛文6)年の建造なので本堂より13年古い。
 堂の背後に創建時の僧寺跡の遺跡公園が広がる。
 本尊薬師如来は、この瑠璃堂に安置されていたもので、現在では収蔵庫に安置されている。
 ご本尊は、平安期からの桧の一本造りで、漆塗りの金箔を施し、全国国分寺のなかでは最高傑作の国宝だという。しかし、創建期から薬師如来が本尊だったのか。すると、聖武天皇の詔にいう「丈六の釈迦如来」はどうなるのか疑問だ。

下国府遺跡


下国府遺跡の全景 背景には雪をかぶった大佐渡の山並み

 小佐渡の山際から国仲平野に突き出した台地の先端部に位置し、二重の堀に囲まれた二棟の建築遺構を配する遺跡となっている。
 外側の濠は幅2.4bで、東西約32b・南北36bとなっており、内側の溝は幅0.2〜0.7bで、東西約23b・南北28bとなっている。その内部には、南北に細長い掘建柱の棟が左右に並んでいたようである。
 出土品としては、9世紀初め頃各種の須恵器と土師器が多く発見され、なかには「木」の字が墨書されている土器も一点検出されている。遺構に特色があり「佐渡国府を考える上で重要である」としているものなので、「佐渡国府跡」とは断定していないもようである。


手前と左の木橋が濠・堀跡 木立が掘建柱跡


下国府遺跡の碑 道路標識右折すると国分寺


<これより余談シリーズ 佐渡編>

国分寺周囲の寺々など

清水寺(せいすいじ)

 賢応法師が佐渡へ布教に来たとき、京都の清水寺(きよみずでら)を参詣できない拝人々のために建立した。
 画像は“清水の舞台”をまねて造った救世殿になっている。
 行った時にはちょうど周囲の杉の木を切り倒しているところで、救世殿すなわち清水の舞台には立ち入れなかった。ご住職の話では、冬に雪で杉が倒れ屋根を壊してしまったようである。
 宗旨は真言宗豊山派となっている。

妙宣寺(みょうせんじ)

 国分寺はこの寺の奥にあり、ここまでは観光バスが来るが、国分寺まで来る観光客は少なく閑散としたものである。
 順徳上皇に供奉した北面の武士遠藤為盛が上皇崩御後、日蓮聖人に帰依し建立した寺である。
 画像は日光東照宮の塔を模した県内唯一の五重塔や日野資朝の墓がある。宗旨は日蓮宗である。
 どうやら山城跡に建てた寺のようで、五重塔とその奥の本堂の間には、空堀が巡らせてあった。

蓮華峰寺(れんげぶじ)

 この寺がある地名にも関心があった。それは「小比叡」というのである。つまり京都比叡山を連想させる地名だ。きっと似ていたのだろう。とにかく佐渡には、京都・奈良を連想させる地名および寺号が多いことがわかる。
 弘法大師が平安時代はじめに創建した寺だそうが、まさか弘法大師がこの佐渡の地を…。
 画像は600年前の室町時代に建てられた金堂で、国の重要文化財に指定されている。
 宗旨は弘法大師だから真言宗には間違いないのだが、見てくるのを忘れた。

長谷寺(ちょうこくじ)

 ついつい「はせでら」と言いたくなってしまうが、ちょうこくじである。
 階段の回廊こそないが、奈良の長谷寺とよく似ているので紹介したい。
 まずは、画像中央の階段の両脇は、階段状の石垣があって、長谷寺名物の牡丹がかなりの数植えられている。訪問した季節でも、すでに芽と一緒につぼみが出ていた。
 宗旨は真言宗豊山派で、これまた奈良の長谷寺と同じ宗旨である。十一面観音立像三体(国の重要文化財)がある。

黒木御所跡

 これは寺ではないが紹介しておこう。

 承久の変(1221年)により、順徳天皇は佐渡に配流となり、はじめは国分寺を行在所と定めたが、当時国守が直接管理していた泉に仮宮を造りここに住むことになった。
 皮付きの丸木で造られた粗末な宮であったことから黒木御所と呼ばれたという。順徳天皇は、ここで22年間過ごされ46歳でこの世を去った。


<余談のなかの余談>

素浜海岸の漂流物
=国分寺とはまったく関係ないけれど=

 佐渡の南端の小木港とはちょうど背中合わせになる北側に、美しい砂浜が広がっている。素浜(すはま)海岸である。今でこそ周遊道路ができているが、海岸づたいに最後まで道路がなかったのはここだけであった。
 あまりにも美しい景色なのだが、ポリ容器を主体とする漂流物が異常に多かったので、車を降りてみた。画像程度で驚いてはいけない。これ以上に多い場所もあったほどである。


ゴミさえなければ素晴らしい素浜海岸

 もちろん海水浴シーズンになれば、片づけるのだろうが、それにしても大変な量であった。
 もともと砂浜というのは、漂流物が集まりやすいから砂浜になるわけなのだが、ゴミの量は半端ではない。

 もしかしたら…、と思ってポリ容器を手にしたら予想は的中した。容器の字が判別できるものの7割からは、やはりハングル文字だった。
 下にある画像は、左6個はハングル文字の容器で、右の2つはロシア文字である。


左6本がハングル文字 右2本がロシア文字

 それにしても、朝鮮半島との近さを感じてしまう。思えば白村江の大敗(663年)からというもの、わが国は「新羅侵攻」の恐怖にさらされ続け、筑前・長門・石見・出雲・伯耆・因幡の各国々は万全の警戒態勢を敷き、都すら藤原京から一時、近江の国に移すほどであった。そして100年近く経過しても、依然として侵攻の恐怖は消えず、実際には759年に新羅への出兵さえも準備したこともあったほどである。
 そして今日、上の画像の浜にかかる半島の、もう一つ向こう側の海岸から、流れ着く漂流物とは逆に“拉致”という事実があったことを思うと、私にとっては“現代の新羅”というかたちになって頭の中を交錯してしまう。

 ゴミだけなら、まだ許せる…。そんな気持ちにさえなった。
 しかし、こんなにもゴミが多いと、朝鮮半島の方に向かって「ゴミを流すな!」とも言いたい気持ちが込み上げてきてしまう。だがしかし、よく考えてみたら、もしかしたら世界のどこかで、日本文字ばかりのゴミの海岸があるかもしれないと思い、そうは言えなくなってしまう。



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