摂津国分寺                                                          

僧寺跡

2003年8月23日訪問

 およそ全国の国分寺のページのなかでは、最低のレポートになるだろう。とにかく出土は、古瓦が少々あるだけで他に手がかりがないのである。
 天王寺区国分にある
国分寺公園という遊び場に、「摂津国分寺跡」と書かれた石碑と説明板があった。


国分寺公園のなかにある「摂津国分寺跡」の碑と説明板

 説明板によると、出土した瓦は、八葉複弁蓮華紋の丸瓦と唐草紋様の平瓦の破片が鮮明にプリントされており、平城宮の丸瓦紋様と類似している。


 説明板には「摂津国については国分寺と国分尼寺の所在や建立後の変遷について具体的には分からない。国分寺については天王寺区国分町のほかに、北区長柄、中央区森ノ宮中央に『国分』もしくは『国分町』の名が残り、そのいずれを奈良時代の国分寺の所在地にあてるかについて諸説がある」とあった。

 摂津の国分寺については、古くから大阪の街中でもあり、出土品や歴史的に明らかになっている点については、あまり期待は出来ないと考えていた。また、近くには大阪夏の陣で有名な真田丸や茶臼山など、戦場となった所でもあり、その他の戦も数知れないと考えられた。

 今後、調査できる機会に発掘するようにして、その成果に期待したい。


現存寺というより近くの国分寺という寺

 現存寺を画像に収め、できれば縁起などもお話を伺えれば…と考え、寺の周囲をロの字のように歩いたが、境内に入る所は一個所だけで、それもしっかりとした防犯扉になっていて、入る意欲を削がれた。こんな寺ははじめてである。
 寺はやはり、地域に開かれていてほしいものである。

 流れを継ぐ現存寺は?

 あきらめて我が家に帰り、もう一度私の教科書「わが心の国分寺」を読み直してみた。すると、「現在の護国山国分寺の所在は北区国分寺にあって真言宗に属し、大本山国分寺派を称している。(中略)天王寺区国分町に天徳山国分寺があるけれども、この寺は本来の国分寺とは無関係で、江戸期の延宝年間に始まったという」とあった。もう少し丁寧に読むのだった。そのうち北区の国分寺に行くことにしよう。
 
というわけで、土・日を利用して新幹線で大阪に行って来た。新幹線は料金が高すぎる。原価はもっと安価なはず。女房と二人で往復6万円で若干お釣りが来た程度だが、高速道路利用なら燃費も含めて4万円でお釣りが来たはず。二万円は差が出る。二万円かけて地球の温暖化防止に協力する気にはなれないのは、私だけだろうか…。


現 存 寺

2003年9月27日訪問

 大阪の地下鉄東梅田駅から谷町線に乗って天神橋筋六丁目駅で下車すると、歩いて三分ほどで“真言宗国分寺派 大本山国分寺”に着いた。大本山を名乗るにしてはこぢんまりとしていたが、とても整備されていて親しみの持てるお寺だった。1970年に起きた、地下鉄谷町線(私が乗った地下鉄)のガス爆発事故の犠牲者を弔う鐘楼堂が、何とも痛々しくあの時代を想起させ、あらためて敬虔な気持ちにさせた。

 特徴的なことは、聖武天皇の足跡とりわけ東大寺に因んだ造り物が多かったことである。とりあえず、下の画像三点を紹介しておこう。

 まずはじめは、本堂に飾られた七重塔の飾りである。創建国分僧寺以外ほとんど例を見ることのない七重塔は、創建国分寺のトレードマークと言っても差し支えないものである。これが、ご本尊の薬師如来の左右に一つずつ置かれていた。
 つぎに本堂前の灯籠である。これは、東大寺大仏殿前にある灯籠を模して造られたものであるという。
 つぎに、思い出してみてほしいが、東大寺大仏殿の屋根のてっぺんに金のツノが生えている。名古屋城でいえば“金の鯱”といったところだが…。これを鴟尾(しび)というが、これまでも東大寺大仏殿に模して造られていた。


ご本尊脇の七重塔(両脇にあった)

摂津現存寺の由来

 勅願道場真言宗国分寺派の大本山国分寺はどのような由来があるのか、とりあえずは伺ってみることにしたところ、沿革を記録してあるパンフレットをいただけたので、ここから紹介しよう。

 645(大化元)年末に孝徳天皇が摂津に遷都され、この地に長柄豊碕宮の帝都造営計画を行い「大化改新」を発布された。わが国における最初の模範的な大帝都の設営であり、また法制史上わが国における憲法発祥の時である。しかし規模が広大で改新が急であったため、その完成は実現しなかった。斉明天皇の御代(659)に先に入唐した道昭、勅を奉じて先帝の菩提を祈るため長柄豊碕宮の旧址に一宇を建立し「長柄寺」と称した。


東大寺大仏殿前にある灯籠を模して造られている

 聖武天皇により一国一寺の国分寺創建の詔勅公布されるや、当長柄寺を改称して、摂津における金光明四天王護国之寺となしたまう。即ち後世「長柄国分寺」または「護国山国分寺」と称す。爾来1250年にわたり孝徳天皇、斉明天皇はじめ、十四天皇の勅願道場として由緒ある大本山の法灯を伝燈してきた。
 過去数回にわたる戦火や災禍を受け、豊臣氏滅亡の元和元年全焼、享保三年に落慶するも明治の廃仏毀釈などにより寺領は大幅に縮減され、昭和二十年六月の第二次大戦の戦災で一宇を残さず灰燼に帰した。20年目に聖武天皇殿、金光明院護摩堂、昭和金堂などを再興し、同40年五月二日天平の古式にのっとり落慶法要を厳修する。

 縁起を全文掲載させていただいた。


東大寺大仏殿を模して造られた鴟尾(しび)
画像の屋根の中央にある金の飾り物


東大寺大仏殿の鴟尾(しび)

 摂津僧寺跡については、天王寺区国分地区にある国分寺公園とする説と、ここ長柄国分寺とする説などある。しかし、天王寺区で出土した蓮華紋のそれらしい瓦以外には、双方とも決め手となるような決定的な証拠を得ていないのが残念である。
 とにかくこの現存寺には、東大寺や聖武天皇、そして金光明最勝王経に関わること等がたくさんあってとても興味深い。

 「全国最低レポート」の予測に反して、少しだけだが説明できて良かった。知る限りでも、南北朝の戦いはつかめないが、1615(元和元)年の大阪夏の陣で戦場になって全焼し、第二次大戦の空襲で焼失するなど、歴史の荒波に翻弄され続けて何も残っていない摂津である。とにかく8月に大阪に行って天王寺区の国分寺跡を見て、長柄現存国分寺を見ずに帰ってきたのが悔しくて、ちょうど一ヶ月後に行ったことになる。
 せっかく行ったのだからと、阪神タイガース優勝に沸く道頓堀を見ようとホテルからタクシーで出かけた。阪神ユニホーム姿のグリコおじさんを見て、かに道楽の目が付いていたことを確認しながらふぐ料理を食べ、帰りに法善寺に寄ってお不動様に水をかけてきた。ヤジ馬根性で行っただけだが、これもタイガース優勝の経済効果になるかも…。


四天王寺


南西の角から撮す四天王寺回廊と五重塔

『日本書紀』によれば、日本古来の宗教を信ずべきとする物部氏と、仏教を主張する蘇我氏との間に、いわば宗教戦争が起こされた。聖徳太子はこの時、「四天王がお守り下さる」と戦勝祈願をしたことが始まりと伝えられている。
 伽藍配置は、南門・中門・五重塔・金堂・講堂が一直線に並び、回廊は中門から講堂にめぐらされる四天王寺式伽藍配置となっている。