[PR]タロットで占うあなたの未来?:今日の運勢から占ってみよう!無料診断♪

下野国分寺

僧寺跡

2000年5月 訪問 僧寺跡 国衙跡 現存国分寺
2001年6月 訪問 尼寺跡 薬師寺跡 車塚古墳

  聖武天皇による国分寺建立の詔勅の(理論的には)20年後に、下野薬師寺が国分寺跡の東方約6qほどに建てられた。とは言っても、薬師寺はそれ以前、地方豪族の下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)の氏寺であったようである。 いずれにせよ、これにより下野国府周辺は、東国唯一の戒壇と平城京の四大寺をしのぐ伽藍を持つ薬師寺を含め、東国随一の宗教都市が造られていったのではなだろうか。
 ところが、創建や沿革にかかわる資料が少なく、 ここでも多くを語ることができない。ただ一つ言えることは、僧寺・尼寺跡の史跡保存を中心に、栃木県立しもつけ風土記の丘資料館や天平の丘公園をつくり、保存や史跡土地収用の努力が、考えも及ばぬほど進められていたことが印象的だった。

 
下野薬師寺については後ほどふれたい。

 資料が乏しく僧寺の沿革があまりよく解っていないのに反し、遺跡そのものはじつによく保存されていた。わかっていることは、創建後おそらく 500年近くまでは創建時の伽藍があったのではないかと推測されたことだ。

 寺域は東西の長さ 216b、南北が252bと広く、現在の保存状況については、西側に数軒の私有地を 残してはいるが、 殆どが史跡としての収用が済み、 手つかずの雑木林あるいは草地になっていた。
  今もなお、 発掘調査をすすめているようで、 金堂跡には青いビニールのシートがかぶせられてあった。 この伽藍配置図をよく見ると、等高線が書かれている。 これは、 建物が崩れ去った跡がそのまま “地膨れ” となって残っている様子を 表しているものである。
  伽藍配置は、 南大門、中門、金堂、講堂が一列に並び、東に七重塔を配する典型的な国分寺伽藍になっている。

@ 中門跡から金堂を望む


 画像は@の方向から撮ったものである。木立の下や手前にあるビニールシートは、現在発掘調査中の金堂跡になる。
 地面が少しだけ膨らんでいる様子が判るだろうか。
 礎石には大谷石を用いているため、崩れやすいこともあって発掘調査の後すぐに埋めてしまったところだという。
 さらにその後ろの林の真下に、講堂跡がある。

A 南門から東に伸びる築地塀跡の地膨れを見る

 ただの雑木林にしか見えなかったが、ボランティアで説明をして下さる方と出合い、聞いたのでよくわかった。
 これは、築地塀跡の地膨れを撮したものである。南門を背にして、手前から東方向に撮ったところだが、まっすぐと膨らんでいるのが判るだろうか。先の木立でまっ暗になる手前で直角に左に曲がっている。これは南大門から東の外壁角にあたる。

南から塔跡を撮る

画像は「歴史の足跡」提供

 雑木林の中に、塔跡の位置と思われる部分が地膨れとなっていた。十分な発掘調査がされていないのだろうか、私が知らないだけなのだろうか、塔跡には何もなく基壇のサイズや塔の高さはわかっていないらしい。だけど、なぜかしもつけ風土記の丘資料館には、ご覧のとおりの復元模型があるのだ。やはり、知らないのは私だけなのだろうか…。

国分寺町の史跡紹介のページ
http://kokubunji.shokokai-tochigi.or.jp/page/tiiki/bunka/simotuke/main.htm


尼 寺 跡

 尼寺の方が僧寺より早くから整備されていて、僧寺のおよそ800bほど東、資料館の東脇に位置している。 画像から見る復元の礎石と基壇は、ホンモノの基壇や礎石が大谷石のため埋め戻し、その上に新規に模したものである。
 上画像は、中門跡の入口から北の方角にある金堂への眺めである。金堂は、もうひとつ向こうの木立に囲まれた 盛り土になる。 中門両脇から金堂を結ぶ回廊が延びているのだが、画像からも少しだけ見えている。
 つぎに、中門跡をのりこえ前進して金堂跡に立ってみよう。

 金堂跡に立ってみた。するとさらに、講堂跡が見えてくる。 金堂の復元した礎石の 4列むこうの中央階段が付けられている盛り土が講堂跡になっている。

国分寺町の史跡紹介のページ
http://kokubunji.shokokai-tochigi.or.jp/page/tiiki/bunka/amadera/main.htm


下野薬師寺跡

  JR東北本線の自治医大駅から東方2.5q の方向にある。上画像の伽藍配置図をもとに、現況について説明してみよう。
 
東西242b、南北342b の寺域をもった伽藍の中門と金堂あたりに、医王山安国寺(現存する薬師寺)が建っていた。
 中門回廊の東側沿いに塔との間を分断して県道が走っている。その東側には塔礎石が保存されていた。
 そしてさらに最近になって、なんと回廊の北西角だけではあるけれど復元されたのである。それも、歴史資料館も同時に建ててしまったのである。それを知ってから行きたくて、落成から一ヶ月も経たないうちに行くことができた。

薬師寺回廊の復元 北西角から南を見る

北辺の内側から西角を見る

現存の薬師寺「医王山安国寺」 中門跡から

 聖武天皇は、国分寺建立の詔発布の20年後に、優れた僧を養成するために戒壇造営の詔を発した。これにより、この薬師寺が造られたように思えたが、それ以前に下毛野仲麻呂の氏寺としてすでに存在していたようである。

 最盛期の下野薬師寺は、「続日本紀」などに記される日本三戒壇の一つで、東国を統括する大規模な授戒・修業・祈祷等の殿堂で、奈良の平城京にある寺々同様の堂々たる伽藍を備えた大寺であったことがうかがえる。

 その"日本三戒壇"とは、唐招提寺を建立した鑑真和上の教えによる寺のことである。
 
すなわち、唐招提寺の金堂には三尊像が祀られていて、右(東)から薬師如来、中央に慮遮那仏、左(西)には千手観音が鎮座している。鑑真和上は、この三仏を配する考え方を極めてスケールの大きな規模で示そうとした。すなわち、東にはこの寺である薬師寺、中央は奈良の東大寺、そして左(西)には福岡県太宰府にある観世音寺を配し「三仏」の考え方を実現したのである。
 
それを示す資料として、天平宝字5(761)年、聖武天皇が発した太宰府観世音寺に戒壇院を置く詔があげられる。戒壇院は、僧尼として守るべき戒律を授ける所であった。これにより、下野薬師寺を東戒壇、奈良東大寺にも戒壇院があり、太宰府観世音寺の西戒壇と呼ばれる所以がある。

 今日のように、航空機や新幹線が整備された世の中であれば、このようにまことにスケールの大きい発想も生まれても不思議はないが、この時代の発想としてはあまりにもスケールが大きく、信じがたい部分も生じてきてしまう。



西戒壇は太宰府観世音寺の戒壇院


中央戒壇の東大寺


東戒壇は下野薬師寺跡の安国寺

下野薬師寺のページ
http://www.syakuji.jp/


国 衙 跡

中央の本殿(?)手前の長屋?を復元

  復元の国衙跡建造物には、八葉複弁 蓮華紋の瓦が使用されていた。

 

 僧寺跡から2q西の栃木市にある。建物はこれだけでも、復元の建物から往時の雰囲気が伝わってくる。

 僧寺跡で、ご年輩のボランティアで説明をしている方と、 あまりにもゆっくりと話し込んでしまったので、 国庁跡に着いたのは夕方になってしまった。 陽が傾きかけ、資料館はすでに閉まっていた。

栃木市のページ
http://www.t-cnet.or.jp/~tochigic/kankou/kokuchou/kokuchou.html


現存寺と天平の丘公園

 「現存寺が離れたところに再建されたから、跡がそのまま残ったのです」 と、 ボランティアで案内して下さった方が語っていた。そう言えば、たしかに下野や上野は畑や林が寺の跡を守り、石岡(常陸)や三島(伊豆) のような街の中は現存寺が守っているように思えた。

 現存寺は、天平の丘公園から北に 800bほど離れている所にあり、農協の倉庫と一緒のような感じもした。それに、だれも住んでいないようであったが、真言宗豊山派を示す門柱が立てられていた。

 現存寺から少し離れた南側一帯は、「天平の丘公園」といって、東から尼寺跡、しもつけ風土記の丘資料館、僧寺跡、それから南には 埋蔵文化財センターがある。
 思川を隔てて栃木市に国庁跡や、周辺には古墳が散在している。左画像は、そのなかの一つになる壬生町の車塚古墳である。とくにこれを選んだのは、穴が開いているので絵になるからである。
 はじめて訪れた日はちょうど、「天平の花まつり」とやらで、八重桜の満開の花見でごったがえし、公園に容易に近づくことができなかった。日が悪かったか。でも、説明して下さったボランティアの方にめぐり会えたのだ。
 また、退職後は、こういった資料館で案内係の嘱託員をしたいと思った。



[PR]看護師の好条件な求人情報満載:「夜勤は嫌!」など希望の転職が実現♪