下総国分寺
僧寺跡
2000.2.18訪問
創建当時を知る記録がなく不明であるが、855(仁寿3)年に存在を示す記録があり、その後延元年間(南北朝なので“建武”と同時代:1336〜1340年)
火災を起こして焼失した」とある。これ以降についてはまったく不明だが、この時代まで500年間も続けば、国分寺のなかでは永く続いた方になる。
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現存寺の境内すべてが僧寺跡の伽藍を覆っており、画像でいうと、茶の長方形が塔跡、金堂跡、講堂跡になる。伽藍配置は、中門から講堂に回廊が通り、西塔、東金堂を配す典型的な法隆寺伽藍になるが、なぜか塔も金堂も位置と角度がずれている。 
僧寺跡伽藍の礎石は、多くが覆されてはいるが、持ち去られることなく、現存寺の建物の土台や庭石に使われている。その様子について、左画像に礎石を茶あるいは黒の点で示してある。
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出土した鐙瓦 創建期は六葉複弁蓮華の紋様

現存寺の仁王門は、古国分寺の“中門の復元”だった。たとえコンクリートの建造であっても、復元への努力には感激してしまった。門中央の鴨居には「金光明四天王護国之寺」の文字がは入った額が飾られていた。

復元されたコンクリート製の中門
現存寺
寺号は「国分山金光明寺」と称するが、お寺さんの説明看板には「国分山国分寺」と書かれてあった。宗旨は真言宗豊山派である。
全国的にも鎌倉時代の国分寺は、資金源を絶たれ寺勢は衰えていったようであるが、ここ下総僧寺では室町時代に入ると千葉氏・国分氏の加護のもとに寺勢を回復したようで、だとするならば延元年間で焼失してもそれほど時代を経ずに、古国分寺から現存国分寺へ移行していったものとみられる。
余談になるが、国分氏(姓名そのものは国分寺とは関係ない)は、奥州に行って地方領主となり、やがては伊達家に仕えることになる。その仙台陸奥国分寺とは関係のない、もう一つの「国分寺」が川内亀岡町にある。

本堂
写真に見える庭石は僧寺跡の礎石
尼寺跡

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まずは、僧寺と尼寺の位置関係を確認してほしい。画像は、市川市国分の台地を、南上空から見たものである。
台地が張り出した先端に、ともに建てられたことがわかる。低地は現在でも湿地や田んぼが多い。 右手前が僧寺、400b
離れた左上が尼寺になる。赤色が金堂、黄色が講堂、橙色が塔の位置をあらわしている。
この模型そのものは、市川考古・歴史博物館にあり、二寺の寺域をめぐる溝(堀)を示したものである。
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尼寺金堂跡

江戸時代には、この地を「昔堂」とよび、明治の頃までは小高い丘をなし、その片隅が馬捨場となり、周辺には布目瓦のが堆積し、また礎石らしい石が残っていたという。
かってはここを国分僧寺跡と考える人も多かったが、昭和
7年に「尼寺」と墨書した土器が発見されたことなどにより(昔堂)は尼寺跡であったことが確認された(教育委員会の説明看板の丸うつし)。
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