周防国分寺

僧寺跡と現存寺

2003年12月27日 訪問

 現存寺は僧寺跡の真上に建てられており、しかも創建時の伽藍にかなり関連した位置にあると思われていた。おりしも、現金堂の平成大修理に伴って発掘調査を実施したところ、まさに現金堂の位置に創建期の金堂跡があることがわかった。


判明している伽藍配置


古山陽道に面して建つ現存国分寺の土塀

 中門跡と塔跡の間が近すぎて他に例がないこともあり、私も現存寺伽藍との一致の可能性は薄いと考えていた。
 ところが今回の調査結果から、回廊遺構は確認されてはいないものの、東塔を配する国分寺伽藍である可能性が大きくなった。

 画像は、古山陽道に面した現存寺の土塀である。これだけでも創建期の僧寺を思い起こさせる雰囲気を持っている。そう感じたので撮ってみた。画像左手の大木の位置が山門になっている。 


県指定の文化財となっている仁王門

 創建当時の金堂の位置が、現存金堂の位置そのままであるとするならば、やはり画像の仁王門の手前に創建当時の南門があったであろうと考えられている。

 画像の仁王門は、1596(文禄5)年に毛利輝元が再建したものである。であるならば400年以上も経過したものだ。
 入り口の両脇には、室町時代の仁王像が安置されており、門・像ともに県指定の文化財に指定されている。


塔跡と思われる位置から金堂を撮す

 画像は、平成の大修理も終盤になって、久々に全容をあらわした金堂である。
 わざわざ東斜めから撮ったのは、創建時代の塔跡と思われる位置から撮したからで、おそらく画像左の資材置き場にかかるあたりに創建時代の中門があったのだろうか。
 中門から金堂
(?)にかかる回廊の遺構は発見されてはないが、あるとしたら、塔はその外に位置する。すると、金堂は回廊に覆われて見えないことになる。


撮影がヘタで傾いてしまったが重要文化財となる金堂

 現在の金堂は、二層入母屋造りになっており、1779(安永8)年に、毛利重就によって再建されたものであり、国の重要文化財に指定されている。

 平成の大修理を終えた金堂には、重要文化財となる本尊薬師如来をはじめ、50余体の仏像を安置し、仏像の世界観を展開するというのだから、曼陀羅の世界のことをさしているのだろうか…。


もし講堂があったとするならば
この二つの建物の位置かもしれない

 発掘調査で確認されたわけでもないのだが、もしも講堂があるとするならばこの位置かもしれないと、東南方向から撮ってみた。

 その位置にあるものは、現存寺の庫裏(くり)があって、画像では並んだ二つの建物が写されている。この写されている範囲がすっぽり入るほどの大きさではなかろうか。ただし、講堂の遺構が見つかったわけではないのだが。

現存寺のホームページ
http://www5.ocn.ne.jp/~suoukoku/index.html

 現存寺の寺号は浄瑠璃山国分寺と号し、宗旨は真言宗の別格本山となっている。

国 衙 跡


国衙跡に表示されていた 国府全体の地図

 画像は、現在の町並の地図で国府跡の位置を示したものである。
 北端丘陵沿いに東西を貫くピンクに塗った線は、古山陽道である。そしてその道に接する北面に周防総社
(佐波神社)と国分寺がある。
 南に東西に走る線が山陽線と新幹線だ。こうして見ると防府の街は、条里制の区画のもとにあることがわかる。
 古山陽道のやや西に位置する総社あたりが、国府域の西端になるので、国衙跡を中心とする古代の都が何となく見えてくる。
それにしても私は、この街並の区画にすっかり感激してしまった。


国衙跡を示す碑と背景は国府跡の史跡公園

 他の国府跡が多くは不明となっているなかで、なぜこれほど残っていたのか、その理由はこうだ。
 1186(文治2)年 周防国は奈良東大寺の知行国となったために、東大寺から役人(目代僧)が派遣され政治を執り、近世になっても東大寺領として「土居八町」のうちが治外法権的地位を維持できたという事情によるものだという。


上の画像にさらに近づいて撮ってみた

 だから、今もなお一町単位に縦横に走る道路や朱雀・国衙・築地などの地名が残されているのだ。
 こうしてすでに、昭和12年全国唯一の国衙跡として、二町四方の国庁域、八町四方の国府域および国府津等が国の史跡指定を受けた。
 昭和36年から4年間 発掘調査を行い、政庁・厨屋・工房などの掘建て柱の諸施設跡と、土師器・須恵器やその他炊事道具等の出土があった。

法 花 寺


土地に由来しての寺号であろうか

 私の教科書である「わが心の国分寺」によれば「尼寺跡はその(国分寺の)西側にあるというが、確認されないままである」と書かれていた。
 というわけなので、それらしい場所があるかどうか、国分寺から旧山陽道を西に走らせてみた。するとすぐに
進入禁止(一方通行出口) の規制があり、やむを得ず北に迂回したところ、なんと“法花寺”があった。創建尼寺とは歴史を異にしているであろうと思われるが、おそらくは土地に由来しての寺号であろうか。

防府天満宮


京都北野・筑前太宰府の三天満宮を巡った

 学問の神様である菅原道真公をはじめ、天穂日命(あめのほひのみこと)、武夷鳥命(たけひなどりのみこと)、野見宿禰(のみのすくね)の四柱を祀っている。904(延喜四年)の創建となる。
 菅原道真は筑前太宰府に流される途中、周防に滞在し、「身は筑紫にてはつるとも、魂魄は必ずこの地に帰り来らん」と言ったことから、日本で最初の天満宮がこの地に建てられたという。

私がアクセスしたときには、ちようど10万人目の訪問者だった
防府天満宮のホームページ
http://www.hofutenmangu.or.jp/


周防総社(佐波さば神社)


下画像の鳥居をくぐり急な階段を登った

 国分寺から古山陽道を東に300b進んだところに、下画像のように「史蹟周防国衙址」と書かれた石碑を見つけた。一瞬「国衙はここか」と思ったが説明板を読んでみると、国衙の北西の角にあたる場所であることがわかった。まさに金網から左が国衙になるわけである。
 そして、古道を挟んでその北側に佐波神社がある。この小さな神社が周防総社であると書かれてあった。

 周防総社から見下ろした周防国府一帯の景色である。朝日に輝く逆光でで見えにくいが、おそらく1200年前も同じような稜線であっただろう。
 階段下は古山陽道で、福岡空港で借りたレンタカーが留めてあるのが見える。


国衙北西の角を示す石碑


 山口市瑠璃光寺

 なんの脈絡もないが、紹介しておこう。
 周防国分寺を見学する前日だが、福岡空港から車をとばしてまずは下関でふぐ料理を食い、長門国分寺と関連史蹟を見学し、さらに東に向かって走らせた。その日は、山口市内の湯田温泉に宿泊の予定だが、宿に入るにはまだ時間が早かったので、30年ほど前に立ち寄ったことがあった瑠璃光寺を再訪したのだ。

 調べてみれば、日本三名塔の一つだそうだ。三名塔とは、奈良法隆寺、京都醍醐寺、そして山口の瑠璃光寺だそうである。それぞれに素晴らしい五重塔ばかりだが、ん〜、京都東寺、奈良興福寺、奈良薬師寺(三重塔)、備中国分寺などは仲間に入れてもらえないのだろうか…。ハズされて、ちょっと気の毒な気がするのだが…。いっそのこと、もう少し仲間を増やして“日本十名塔”ぐらいにしたらどうだろうか。