駿河国分寺
現 存 寺
2001年1月 2日
訪問
2001年4月29日 再問
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駿河国分僧寺跡の位置を推測するについては二つの説があるようだ。
一つは、東名高速道の静岡ICから東京寄りになる約3qの地点で、有度山麓にぶつかり、左にカーブしながら山裾を登り始める、ちょうどその真下となる場所に位置している、片山廃寺跡である。
もう一つは、現存国分寺の周囲である。浅間神社の鳥居から東へ500b
行くと、駿府城北端からの道と合流する大きなT字路にぶつかる。ここに「駿河国府址東へ25b・駿河国分寺北へ
300b」と書かれた石碑がある。
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地図で見ると、この石碑を中心にした東西約
800 b 北に1000bが、条里制に見えてくるのは気のせいだろうか。
駿河国分寺の住職さんに御朱印をいただきながら、お話をお聞きすることができた。
住職さんのお話によると「700年代にはこの地を“初瀬”(現在の長谷町か…、発音は似ている)と呼んでいたそうだが、駿河国分寺の位置を示す初瀬という地名が奈良東大寺の記録に残されているそうだ。
もう一つの参考地である片山廃寺跡からは、若干の瓦が出土しているが、あそこは昇り窯があった所で、良質の土が産出されるし風向きも良い場所だ」とのことであった。
私もその意見に十分に納得してしまったのだ。その理由は、片山廃寺跡は国府の中心から
5qほど離れていて、しかも西斜面の地形であることと、かなり海岸の縁近くになるわけで、久能山東照宮(1600年代)の時代ならば考えられないこともないが、むしろ登呂遺跡の時代に近い頃の大切な建物としては、これほど海に近い国分寺は他に例を見ないからである。
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そしてさらに、時は戦国時代へと移るが、「永禄11(1568)年。武田信玄は、今川義元の居城であるところの、駿河の今川館を侵攻し、府中(現在の静岡市)を占領した。そのさい、市街には火が放たれ、国分寺も延焼した」と記してあった。
その、現存する国分寺の片隅に貴重なものを見つけた。左画像の五輪の塔を見てほしいが、その丸い石の下の四角い石に何やら書いてあった。よく読んでみた。 |
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日本
六拾六ヶ國
於 國分寺 立之
江戸芝 金杉 片町
願主
水本検校
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住職さんの話によると、江戸で天然痘が流行した時に、徳川家康が「駿河の国の国分寺に願掛けすると良い…」と言いったので、願掛けした結果、天然痘は治まったそうである。そのお礼参りとして、この五輪の塔と塔の左側に裾だけ映っているお地蔵様を、この水本検校が寄進したものだそうである。家康もこの駿府にしばらく居たことがあるので、
事情をよく知っていたのであろう。
参考地
片山廃寺

僧寺跡ではないかとされてる現存寺一帯は、街の中にあり、発掘調査の実現はほぼ絶望的となっている。
一方、片山廃寺は郊外の有度丘陵の麓にあり、発掘調査は終わっていて、上左画像のような伽藍が明らかになっている。しかし、上右画像のように
伽藍の真上を東名高速道路が走り、金堂・講堂・僧坊を結ぶ中心線の位置は道路で分割され、金堂跡は西半分を欠いた状態にあった。
金堂と講堂が直線で列んでいるが、塔跡が見つからなかったことから、有度郡の有力な豪族の氏寺でないかとする説が今のところもっと信頼できそうだ。
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金堂跡は左半分が道路で失われていおり、2b
下に道路が走る。上を横切る橋梁は、東名高速道で、その下が講堂跡になる。道路でここまでズタズタにされているりで、なんとももの悲しい片山廃寺跡だった。
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