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丹波国分寺

僧寺跡と現存寺

2001年8月20日訪問


田園のなかにポツンと佇む

 数ある国分寺跡のなかで、伽藍が整備されたり堂塔が復元されていたりする跡もいい。
 しかし、丹波僧寺のように自然なかたち(?)で侘びしく残され守られているのも、心に凍み入るものがあって、私は好きだ。
 画像右端の山際に人家が建ち並んでおり、田園地帯のなかに僧寺を守る現存寺があった。


護勇上人により再建されて200年経つ山門
さすがに時代を感じさせてくれる


右手の草は崩れかけた土塀に生えている
明智光秀が焼き払った当時のものか?


本堂は講堂あたりに建っているようだ
護勇上人により再建されて200年経つ本堂

再建までの道

 聖武天皇の創建から戦国時代までの歴史はまったく不明で、話題は一気に戦国時代に飛ぶ。
 「わが心の国分寺」によれば、天正の頃織田信長の命を受けてこの地を進攻した明智光秀によって、伽藍は焼き払われたとある。
1571年から20年弱だが、光秀が信長を暗殺した本能寺の変が1582年だから、それ以前のわずか10年間だったことになる)
 とすれば、800 年間も存続していたのか…。
 そして、廃寺同然の時代が、200年ほど続いたのだろうか。
1774(安永3)年に 護勇比丘上人によって、現在の本堂が再建された。これと同時に山門、庫裏、鐘楼もその時に造られたもので、200年以上も経過しているものであった。
 だとすれば、山門の前のほとんど崩れきって草が茂っている土塀跡は、それより以前のものになる。ことによると明智光秀が焼き払った当時の土塀だろうか。まさか…。

発掘調査と今日

 現存昭和57〜61年度にわたり発掘調査を実施し、伽藍の規模および建物の主要な配置を確認できたようだ。
 金堂跡は、創建当時の瓦積基壇と平安時代末期頃に再建された時の乱石積基壇の二時期にわたって確認された。   本尊の薬師如来座像は、典型的な藤原彫刻として、国の重要文化財になっている。

 もう一つ下の画像になるが、塔跡の画像である。その塔であるが、礎石やその寸法から推定すると、七重塔であると考えられている。すべての礎石17個が定位置に残され、苔むしていた姿には感動した。
 寺号を護国山国分寺と称し宗旨は浄土宗である。だが、人は住んでいなかった。


七重塔の礎石が17個すべて残されている
手前南西角の石から 中央の塔心礎石を撮す

法起寺式伽藍配置(一部推定) 


尼 寺 跡

 僧寺跡にある現存寺の西約450b の河原林町の御上人林廃寺跡にあるという。行ってみたが、まるで密林のような状態にある藪の中で、足を踏み入れることすらできなかった。
 それでも発掘調査は行われたことがあり、東西150b、南北180bの寺域と、南北に一直線に建てられた南門、(中門不明)、金堂、講堂の伽藍配置が確認されたようである。



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