丹後国分寺
僧寺跡
2001年8月20日訪問

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天橋立を南に望む景観は、全国68ヶ寺の数ある国分寺のなかでも、他に類を見ないほどの絶景といえるであろう。
国分僧寺として場所はもちろん南斜面の絶好の地であるが、ただし、すぐ後ろに山が控えているために土地が狭く、僧寺伽藍は他より小さいゆえに、かつ変形させざるを得なかったようである。 |

なぜか全景を撮りたくなって
試みた しかしつなぎ合わせてみれば明るさは一定ではない
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史跡のようす
史跡としての指定は早く、昭和5年10月には指定され、棚田であったこの地が、昭和38年に買い上げられて整地、保存されることとなった。
左画像の緑色はその区域をあらわしている。伽藍の礎石群は、中門跡では2個だけだったが、金堂跡では36個と、ほぼ完ぺきに近いかたちで残されていた。また、塔跡では16個残されていたが、残念ながらただひとつ最も大切な塔心礎石だけがなかった。
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道路脇から見た史跡表示

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ところで、よく見て驚いた。これら残されている礎石は、すべて創建当時のものでないという。礎石が創建当時のものでない?そんな事は、これまでに国分寺を巡っていて一度もなかった。
ではいつ頃の礎石だったのか…。それは、禅僧雪舟筆の「天橋立図」に描かれた僧寺の風景のなかに、その手がかりがあるという。
(絵はページ下にリンク先)
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塔跡の立て札と礎石群

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いつ頃の礎石か
雪舟の絵を見ると、左に五重塔、右に金堂、その手前に中門と、現在の礎石の位置とみごと一致するのである。
それは、1334(建武元)年というから、まさに鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政が始まったその年であるが、金堂を中心に絵のとおりの伽藍が再建された。それが今日の画像に映し出された礎石群ということである。
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金堂跡と礎石群

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その後、雪舟に描かれた伽藍は残念ながら、絵と礎石だけを残し、1543(天文11)年の兵火によって焼失してしまったのである。まさに戦国時代のことだった。その後も土砂災害に遭い、伽藍の多くを失うなど、悲運な経過を辿ってきたわけである。
雪舟の絵以前は…
では“雪舟の絵”以前、創建当時に遡ってはどうであったろうか。
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一段上から僧寺跡全景を撮す

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創建当時は明らかでなく、出土した古瓦も僅かだが、調べると奈良時代末期だという。どこの国分寺も、詔が出されて以降、平安京に遷都する50年間に、もっとも集中して建てられているのでごく普通である。
僧寺が建てられてからの経過が不明なまま“雪舟の絵”につながってしまった。今後の調査に期待したい。 |
雪舟が描いた丹後国分寺の絵を見たい人
リンク仲間の「歴史の足跡」のサイトです。
http://bird.zero.ad.jp/~zam77093/tango.htm
ページの一番下にあります。
現存寺
はじめの史跡指定区域をあらわす看板の東側をまっすぐ進むと、下の画像のような現存寺の階段にたどり着く。そこに高野山真言宗 護国山
丹後国分寺がある。

階段の上には鐘楼門 奥にある本堂 ・・・・・・・
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左画像のような石を見ると、すぐに「礎石ではないか…」と考えてしまうのは、どうやら
“国分寺病(?)”にでもなってしまったようだ。
この石に乗って後ろを向いて
股から頭を突っ込んで 天橋立を見て、「絶景かな!」…。
いや、それはもう少し画面左の外へ向かい、天橋立が合流する場所から登った山の上からである。
それにしても、現存寺については、何も調べなかった。おまけに、見学したかった郷土資料館は月曜で休館日。そしてさらに、台風が近づいて曇り空のために、色鮮やかな画像を撮ることができなかったのである。
あまりもの予習不足とタイミングの悪さ、そして駆け足訪巡について反省しつつ、内容のない“丹後レポート”についてお詫びする次第である。
また訪れて、このページをいつか書き換えたいと思っている。
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