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トピックス

武蔵国分寺跡から
新たな塔基壇の遺構発見

2004年 5月22日

南大門から東にのびる道の205b先が現在の塔跡
その手前に今回発見の塔遺構が発見された。

西側上空からの画像
朝日新聞の記事から

 記事によると、地中レーダー探査を請け負った民間の調査会社から届いたデータからわかったようである。「囲むと11b四方になる」反射面が浮かび上がっていたので「塔基壇に違いない」と直感したのは、国分寺市ふるさと文化財課の福田係長だったという。
 資料によればこの位置は、これまでも明治時代に6個の礎石が見つかったり、鐘楼跡や回廊跡などと想定されてきた場所だという。

 従来の塔跡が、南大門・中門・金堂・講堂を結ぶ中心線から東に205bと、他の国分寺に類を見ないほどの遠距離であることが疑問の一つであったが、その疑問が今後解明されそうである。ただし「なぜ塔跡が二個所なのか」という疑問が発生した。
 ここからは、私こと芭裳裟の勝手な推測を述べさせていただこう。
 そもそも武蔵の国の僧寺は、詔が出されてからおよそ50年ほどでほぼ完成していたようだが、835(承和2)年には七重の塔が落雷によって焼失し、そしてその後再建されている。その際に現在の塔跡に位置を移したと仮定すると、何となくすっきりしてくる。すなわち、今回発見された塔跡基壇は、落雷に遭った創建時代の七重塔跡であると考えてみたらどうだろうか。今後の研究を待ちたい。


朝日新聞 2004年5月22日付 朝刊に掲載された記事


“武蔵国府”周辺の発掘調査見学記

2002年 5月23日

 武蔵国府の国庁跡は、大国魂神社の東側に広がっていることはこれまでも確認されているが、商店や民家が密集しており、とても発掘調査ができる状態にはない。幸いにも今回、京王線の府中駅南口周辺の再開発に伴い、当時の庶民が生活していた場所で、しかも国庁跡から一番近い位置であるところを発掘調査できたことになる。(実施は府中市教育委員会)
 


写真中央と右側の二ヶ所に掘建柱式竪穴式住居が確認された(カマド付き)

 数ある国府のなかでは、ふつう国庁の南側に庶民の街ができるが、武蔵府中では、国庁跡のすぐ南側は多摩川の河川敷になるために、街は国庁以北に数多くの住居跡が発掘されている。したがって、これまでも建設工事前には必ずと言えるほど発掘調査を実施している。写真はその国庁に一番近い真北の方角になる。国庁までは200b程だろうか。

 画像のなかからは、中央の人垣の向こうとその右側の、二つの掘っ建て式の竪穴式住居跡が観察できた。4本の掘っ建て柱跡と、カマドの赤くただれた土が1200年もの時の隔たりを感じさせず、むしろ、ついこのあいだまで人が住んでいたような温もりさえ感じさせるものがあった。

 それにしても、かつては仲間と呑み歩いた府中南口繁華街の下から、こんなに多くの遺跡が発掘されるなどとは、考えてもみなかった。“焼鳥屋”と“竪穴式住居跡”どちらにも興味・関心は大いにあるが、どう考えても結びつきにくいものがある。やはり府中は“武蔵国府”だったのだ…。今さらながらに、この地名を意識してしまった。


カマドに国庁?の瓦が…

 これは平安時代前期あたりの、掘っ建て柱式竪穴住居跡にあったカマドである。
 火を燃やした熱のため、土は赤くただれて硬くなっていた。
 おもしろいことに、その硬くなったカマドには、国庁あたりから持って来ちゃったのか、瓦を使ってカマドを補強しているのがわかる。リサイクルの精神で使っているなら結構なことだけれど、もしも“失敬”してきたとしたら、大変なことですゾ…、家主さん!


火事になった住居跡 腐食せず炭になって残されたので調査上で貴重だという
(穴の中の人は、熱心に説明して下さった職員の方)

 今回の発掘調査の説明会のなかでも、メインとなるような成果のあった現場である。画像は、火災に遭った掘建4本柱の竪穴式住居跡である。

 火災に遭った家は“縁起”が悪いから…ということからなのか、住まうことをやめてしまい、焼け落ちたままの姿で残っていた。とくに柱から上の部分は、普通の状態では腐って土になるだけなのでまったく解明できないものらしいが、皮肉にも焼けると炭化するために変質せずに、焼け落ちた状態で残るので発掘調査の上できわめて貴重なモノとなるようだ。

 画像中央から右側に画像を継ぎ足した部分には、焼け落ちた柱などが発掘された。また、左半分には、当時の家財道具であった食器、硯、木簡を削る刀子、鎌などが掘り出されていた。硯、刀子の出土があったことは字を書く人、すなわち役人の住まいではないかということだった。
 火災に遭った年代は800〜850年代であるという。何と、国分寺の詔よりもずっと新しく、平安時代の初期ではないか。この時代に入っても庶民は“竪穴式住居”なのだ。それにつけても、はじめの画像は奈良時代後期の住居跡で、つぎのカマドと焼け跡画像は平安初期というこになるが、そんな微妙な年代の違いがよくわかるものである。


出土品の一部 ほかにも土師器や須恵器や青磁器も出土した

 出土した土器には、土師器(はじき)・須恵器(すえき)のほかにも「尾張・三河あたりから運んできたのではないか」とされる平安後期の青磁器まで展示されていた。
 展示の最後には「進め一億火の玉…」
(文面は記憶に自信がない…)と書いたドンブリが置かれていたが、調査員の話しでは「戦争中に造った防空壕の中から出てきたドンブリ」だそうだ。奈良・平安初期の遺跡に始まり50年前の防空壕からの出土品まで“出土品”と言うかはともかく、これらを並べて展示してある説明からの思わぬ“オチ”に、見学者たちからは大きな笑いがわき上がってしまった。


“武蔵国分寺”の寺域北辺溝
の確認調査見学記

2002年 8月3日


西の緑線は「東山道武蔵みち」 赤線が寺域 青線が伽藍になる

 今回の発掘調査の目的は、左画像の赤線で囲んだ部分の北辺にあたる寺域の確認であるという。
 ふつうは直線である北辺の寺域溝が、東から西へ150b あたりの地点で何らかの理由により、やや南に曲げられている。その位置の確認と、溝の規模、その他の遺構の検出調査だった。
 
印4ヶ所が、今回の発掘現場である。そこはちょうど、国分寺崖線と呼ばれる崖上の林の中にあり、一帯は都立の史跡公園予定地になっている所だった。(中心は国分寺市教育委員会)


ブロックの中央T字型は 堆積物の様子を示すために掘り残した部分

 遺構の溝から、埋めた土橋が検出されたことについて説明があった。
 掘り残して造った土橋は計画的なもので、埋め戻して造ったものは、何らかの事情が変わって造ったものという。
 西暦 900年代後半からは武蔵国分寺の衰退期に入るが、その頃、寺域北西端、東山道武蔵路に面して集落があった。そこから寺域下にある湧水池に水汲みに行くのに都合良いように、勝手に埋めたのではないかという。


溝跡を通路に使っていた部分で かなり踏み固められているという

 この発掘現場では、埋まっている土を掘り進んで再現することはしていなかった。
 その理由は、国分僧寺が盛んな頃には、何度も溝を掘り返し清掃をしていたが、衰退していった頃には溝は完全に埋まってしまった。そこを生活道として、住民が使用していたという。
 発掘中に、1bばかり掘り返したところで、急に踏み固められた層にぶつかったので、わかったという。


ついに溝の全景が… 「奈良時代を見た!」という気持ちになった
(熱心に説明して下さった職員の方)

 溝を完全に掘り返した現場である。巾は3b、深さは1.20〜1.50b程度である。切断面はやや広がったV字型だが、凹型も、逆さ台形などあるようだ。何度かドブさらいをしたりして様々になるようだ。切断表面が凸凹なのは、ドブさらいの時にできたモノや、草が生えて根っこが土を浮かせたりしてできたようだ。
 30度を超える暑さのなか、職員の方は熱心に説明をして下さった。


調査員の背後の壁を撮す 堆積した過程を示す貴重なもの

 溝はどのようにして埋まっていったかがよくわかる断面である。明確にするために、埋まった順と堆積物の微妙な違いを手がかりに、スジを彫り込んでいる。
 溝の底三分の一程度までは、左右順番に崩れ堆積したことがわかるが、中央上からは土器や瓦の破片等が混じり、人為的に埋めたかゴミ捨て場になっていたという。

 また、係員の方の説明やとともにいくつかの質問に答えて、以下のようなことがわかった。

国分寺崖線の上まで“寺域”としたのは?
 寺域内には大切な湧水池があり、この水源を確保する意味からも崖を含んで、段丘の上まで土地を確保しておく必要があったようである。
 
時代を経て寺勢が衰える頃には、この近所にあった集落から、寺域内から湧き出る姿見の池等の水場に、水を汲みに来るために溝が人為的に埋められた個所も、今回の発掘調査で出てきたわけである。

北辺は北東150bまで南辺と平行だが なぜ折れ曲がったか?
 西辺の寺域にあたる、東山道武蔵道の寺域北端(今の公園と消防署あたり)に集落があったためであろうと思われる。それを避けるために、寺域を曲げて縮小せざるを得なかったのかもしれない、ということだった。