土佐国分寺

僧寺跡と現存寺

2001年12月28日 訪問

初詣のため飾られた山門

現存寺

 紀貫之、山内一豊、坂本龍馬、板垣退助…、それから鰹のタタキ…。土佐で連想する私にとってのベスト5であるだろう。のっけから私感を述べてしまった。

 さて、四国八十八カ所第二十九番札所となる現存寺は、摩尼山(まにざん)国分寺と号し、宗旨は真言宗智山派となっている。
 仁王門も下画像の本堂も、新春を迎えるために飾りの幕が張られ、いっそう色彩感のある雰囲気だ。開基は行基菩薩と伝えられており「僧寺」説明のところでもう一度ふれたい。
 仁王門は、1655(明暦元)年に、土佐藩主山之内忠義から寄進されたものである。

金堂跡の位置らしい本堂(重要文化財)

 また本堂は、1558(永禄元)年に長曽我部(長宗我部)元親により再建されたもので、本尊の千手観世音菩薩は、開基と同じ行基菩薩であると伝えられる。

僧寺の残跡

 創建は伝えられるところによれば、739(天平11)年に行基の開基とされる。すると聖武天皇の国分寺建立の詔が発せられる2年前ということになるが…。
 これが本当かは信じがたいが、続日本紀によると756(天平勝宝8)年には存在を示す記録があるという。少なくとも詔の発令から、かなり早いうちに造られたことは確のようだ。

書院に上がらせてもらって見た庭園

 さて、その創建当時の痕跡は?ということだが、唯一の痕跡となる塔心礎石を拝見したいと、お寺に願い出たところ、快く書院に案内して下さりお庭を見せていただいた。
 礎石はみごとな庭石になっていた。肝心の塔跡は歴代住職の墓地になっているようだ。それ以外の礎石は、すべてが覆されて見あたらず、発掘調査も十分に進んではいないようだ。
 それでも、調査で見つかった土塁の位置関係から考えて、東塔を配した国分寺伽藍であったと考えられている。
 また、庭石になっている塔心礎石や塔周辺の土塁の大きさからしてみると、塔は三重塔だったようだ。

 創建後についてはよくわからないが、室町時代は細川頼之、戦国時代は長曽我部、そして江戸時代は山内家によって、それぞれ保護されたので、法燈は守られてきたらしい。

 庭石となっている塔心礎石


四国第二十九番札所お札

御朱印

「四国八十八カ所・四国別格二十霊場巡礼の旅へ」にリンク
第二十九番 土佐国分寺


紀貫之住居跡

 「土佐日記」で有名な紀貫之は、土佐国府の国司として 929年あたりに土佐に赴任し、その最後の年である934(承和4)年に、この紀行文を記した。
 その頃の土佐の国府をはじめとする要所は、現在の高知市街からおよそ10qちょっと、やや北向きの東になる現在の南国市内にその中心があった。まさに土佐のまほろばである。
 この公園内は、国分寺からおよそ800b 東にあり、万葉の植物の数々や東屋には、和歌の数々も展示されていた。


国府跡

 紀貫之住居跡の公園からさらに200b ほど東に寄ったところに、国府跡の石碑が立っていた。
 そこは、ただの田んぼのまん中である。この景色を見て思い出した。
 もう20年も前になるが、この時と同じように奈良の藤原宮跡に立って、何もない田んぼを見て、妙に感激したことを思い出した。
 “国分寺巡り”なんて礎石を見て楽しんでるだけだが、ここはその“石”すらない国府跡だった。


尼寺跡かもしれない比江廃寺跡

 上の国府跡画像の中央に小高い丘が見えるが、その右側のふもとに“比江廃寺跡”がある。
 ここを尼寺跡だとする説もあるが、尼寺には塔はない。ただし、「比江寺をもって尼寺した」とするならばあり得る話だ。
 跡には塔心礎石が一つ残されているが、現存寺の庭石となっている僧寺の心礎よりも大きい。しかし、僧寺が三重塔で尼寺が五重塔ということがあるのだろうか…。

 なぜか完璧なほどの伽藍図を描いた看板があったので、撮った。
 伽藍図をよく見ると、左塔に右金堂を配置した法隆寺伽藍のようだが、中門と講堂を結ぶはずの回廊が、講堂側から伸びてはいるが途中で切れている。そして、中門の両側は塀になっている。これでは、いわば“不完全法隆寺型”ということになるが、こんなこともあるのだろうか。



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